チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第15番への偏見

2013-09-06 21:58:40 | 何様クラシック

ショスタコーヴィチ(通称タコ)の交響曲第15番は13番,14番に比べたら親しみのある音楽ですよね。

それに対し、弦楽四重奏曲のほうの15番はまだまだ「恐怖の暗黒ゲテモノ病気音楽」としての評判が高すぎるように思います。

全楽章変ホ短調で、すべてアダージョ(四分音符=80。第5楽章と、終結部を含む第6楽章の一部がAdagio molto 四分音符=60)。変態。

 

楽章数が6でフラット6個って果たして偶然?何かもう一つ6があればサタンの「666」ですね。。

 

 

そういえば15番だから1+5=6だし、作品番号144=6×24(のすべての長短調で四重奏曲を作曲したかったのにできそうもなくなった)、完成された1974年は第1番(1938年)の36年後(6×6)

 

それに、ところどころ結構目立つ6度音程。

↑ 最も特徴的なのは第1楽章176-177小節、第2主題から導かれるヴィオラの長6度三回繰り返し。臨時記号の3つのフラットが、もともと「6」に形が似ていることもあり6度音程の目印としての6-6-6に見えなくもない。。もしかしてこの箇所は「フラットは6と読む」という暗号鍵? だとすると、ほぼ全曲にわたって居座る調号のフラットは上下二段の666/666ということになる~。サタンは2人いる?

ちなみに6からは逃げられないとばかりに練習番号「6」(=6×1番?)でフラット6個がすべて解除されてしまえば、第1番の調性であるハ長調の、幼少の頃のような純粋で平和な世界が楽譜を見ただけで広がるし、6つのフラットたちがいかに悪さをしていたかが浮き彫りになります。(↓第1楽章第2主題 53小節~)

 

もう一度だけ、6つのフラットが第6楽章練習番号72でキャンセルされますが、72=6×12で「12音技法への恨み~」ってのはコジつけすぎ?でも12音音楽もハ長調みたいに調号ナシだし。

そもそも弦楽四重奏曲第8番以降は順番に2曲ずつ平行調のペアになっていますよね。

8番と9番(ハ短調と変ホ長調)がフラット3つ、10番と11番(変イ長調とヘ短調)がフラット4つ、12番と13番(変ニ長調と変ロ短調)がフラット5つときたら、その流れで次の14番と15番にはどちらもフラット6つ(変ト長調と変ホ短調)が来るだろうと考えるのが普通です。

ところが14番では敢えてそれを避けてわざわざ変ト長調の異名同音調の嬰ヘ長調(「シャープ」6個)に設定したという事実からは、人間味のある14番でなく、まさに15番においてフラット6個を初登場させようとする意図が強く感じられる。。。要するに15番での「計画的な犯行」を効果的に成し遂げるには14番の時点ではまだサタン666/666を招いてしまうワケにはいかなかった?

ついでながら四重奏曲1~14番で調号がフラット6個になるのは第2番の第3楽章(秀逸な変ホ短調の悪魔的ワルツ!)と第6番第1楽章の途中だけ。それ以降は15番まで待たねばならない。

 

オマケとして13番の終結部を想起させる第2楽章のpppからfffへの6段跳びクレッシェンドとか、ここにも6が。

 

さらにこの部分、録音テープの逆回転再生音そっくりに聞こえる12音ではまるで当然のごとくSDHC(あのDSCHの並べ替え。SDカードかっ?)が隣り合っているから、やっぱり何かの暗号かも。こわい

(実際の音はオクターブ上)

 

よく言われるのはショスタコーヴィチの四重奏曲は番号が進み調号の変化記号が増えるにつれ頭がおかしくなって最後の15番はその頂点という印象。

11番~14番の4曲は初演者であるベートーヴェン四重奏団の各メンバーに捧げられたけど、15番は誰にも献呈されていない。つまり自分自身へのレクイエム。。

↑最後の四重奏曲の最後の楽章である第6楽章「エピローグ」冒頭。これ絶対、強制収容所の有刺鉄線フェンスの絵。

 

↑ 第6楽章60~66小節(上記練習番号72)。多足類がフェンスを這っているようでゾゾっ

 

エンディングは14番と同様、morendo(モレンド)...死に絶えるように。。。

 

 

。。。こんな具合に肝心の音楽を聴く前から偏執狂的悪魔的音楽というイメージができあがります。

死に際・ドス暗・病んでる・絶望・この世の終わり・人に聴かせるために書かれたのではない・絶賛する奴はインテリぶってるだけ。。

 



しかーし、この際ぜーんぶ、マッチポンプ的に誤解認定しちゃいます!

「まー、若い人の聴く音楽ではないね。かといって体力があるうちでないと聴けないよね~、何しろ神様なんかいないって確信してる作家の、死を目前にした悲痛かつ深淵な叫びだもん、引っ張られちゃうよ」

こんなこと言ってるひと、ホントに耳の穴カッポじって音楽自体を聴いちょるんか!? タコの仕掛けに釣られてんじゃねーよって言いたくなるのです。

ベートーヴェンのいわゆる後期四重奏曲は長い間、頭のオカシー音楽の代表として扱われていたそうですね。
その歴史を繰り返すべく、他ならぬショスタコーヴィチ自身がこの曲に悪魔的な先入観を持たせるようにワナをしかけたのでは。。
第一印象が悪い奴ほど、すごくいいヤツという評価に変わったときのインパクトが強いじゃないですか?アンカリング効果。




いま一度、ボクは虚心坦懐、楽譜を閉じてこの四重奏曲をきいてみました(エデル四重奏団)。


....やっぱし、この音楽、病んでなんかないですよ(確信)。36分間(6×6)、正直、すべてが美しいし涙が止まらない。この四重奏曲には疑念の余地なく作者の現世に対する深い愛が刻印されている!


自分のためだけに書いた音楽どころか、聴衆が退屈しないで楽しめるようちゃんと起伏をつくって作曲されてるし、オール・アダージョ楽章だからってオール遅そ遅そだと思ったら大まちがいで、例えば第3楽章や上記のように32分音符で速く聞こえるエピローグ等があるし、休符がやたら多いのもダイナミックレンジ的にオーケストラに匹敵、またはそれ以上に広い音楽空間を形成することを目指したのでは?

未来志向の、別世界を見せてくれる、若々しい(成長止まった絶望人間がこういう音楽作れるか!?まだ68歳)、勇気を与えてくれる、心温まる、泣ける、カッコええ音楽ですよ。

その上で、「きみ~、私の作ったミステリーをどうか楽しんで解いてみてくんなまし」ってイタズラっぽく微笑むタコとふたりでじっくり個人的に胸を割って語り合える、むっちゃ魅力的な音楽。

だからまた聴きたくなるんです。

つくづく、ショスタコーヴィチはロマン派の作曲家だったんだなー、なんて思いました。(以上、偏見)

 

↑ モスクワ・ノヴォデヴィチ墓地にあるショスタコーヴィチの墓。DSCH音型が見えます。


シベリウス交響曲第8番(断片)と谷口崇『ヌードバッター鉄雄』

2013-09-05 18:17:47 | 何様クラシック

7月15日にアニメーター谷口崇氏の新作『ヌードバッター鉄雄』が公開されましたね。

期待どおりの爆笑もん&深み!

なんと、6年半ぶりの新作だそうで、ボクの長年の渇きが癒されました。

(この間、オリンピック関係の作品や「つぶやき隊」はありましたが本道ではないですよね。)

 

前作『むきだしの光子』は皆が認める力作だし、いくつかの賞も受賞されたらしく、

当てずっぽうですが、作者は前作を越えようとしてモガき苦しんで6年もの歳月が過ぎてしまったのでは?

大作『光子』の後にしては、何かふっきれたような、光子より前の作品のような力まない作風であることがかえってそのような想像をかき立てたんだす。

 

まあ、昨年ご結婚なさったということで、私生活でもお忙しかったのかもしれませんね。

「ヌードバッター」に出てくるケガをしたピッチャーは何故か珍しく「非・シュール顔」ですけど、もしかしたら奥様によるデザイン??

 

 

一方、ジャン・シベリウスはみんなが首を長~くして待っていたと思われる8番目の交響曲をとうとう発表しないまま1957年に亡くなってしまいました。

(ボクももう少し早く生まれてシベリウスやショスタコーヴィチの新作をリアルタイムで待ちわびるとか、音楽史の現場に立ち会いたかった)

 

シベリウスは一般的なゲスの勘ぐりだけど、聴衆の期待が大きすぎてプレッシャーだし自分でも納得できる音楽が出来なかったんでしょうかね?しかもよく言われるように、無調・十二音の時代ではなおさら。。

 

それでも8番、聴きたかったよ~っ!!! 別に今までの越えたりしなくてええからさ~!タピオラ脳内8番変換もう無理。

 

そんななか、YouTubeで8番断片っつーものの演奏を半信半疑で聴いてみました。

 

.....たった2分半だけど、間違いなくシベリウスがいました(涙)。

 

こんなスッカスカな状態でも、どこを切り取ってもシベリウス、ってやっぱすごい個性・天才なんですね。


キリスト教とクラシック?

2013-09-02 19:57:50 | メモ

きょうで夏休み終了ブルーで思い出し怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒

 

音楽の授業で先生(クリスチャンなのか?)が三位一体とかを説明して「信者になれとは言わないがキリスト教を真に理解しなければ西洋音楽は本当にはわからないんです」って断言しやがったんだよねー。

 

いまどきそんなこと言うかー!多くの日本人はクラシックを完全に理解できないとな!?

 

本当にボクはクラシックが好きなのに、なんか冷や水を浴びせられた気分だったっす。だってキリスト教のことなんてごく表面的にしか知らへんもん。

そんなことはない!宗教なんて関係ないって心で叫びつつ「クラシックなんかを真剣に聴いてる変人」ってレッテルをクラスメートから貼られるのがイヤでその場で何も反論できなかったボクは情けない。。音楽に対する愛(恥ずっ!)が足りないのか?

 

キリスト教を理解すればするほどクラシック音楽もわかるようになるってことなんすか~

その「理解」がかえって目を曇らせて音楽への誤解につながることもあるんじゃ。。?

別にキリスト教の仕組みとかロクに知らなくたってブルックナーの交響曲とか、いろんなレクイエムとか聴けば宗教に関係なく泣けるやんか。

余計な考え抜きに心を揺さぶられるってことはなまじ知識ある人よりよっぽど深く感動してるよね!知識では感動できへん。

日本人のブルックナー好きは有名なんだす!(男だけらしいけど)

 

だいたい、どんな天才音楽家でも作曲家の意志の100パーセント理解なんて無理やろ?

1%でも99%でも、100%でないという点では一緒や。

 

クラシック音楽のすばらしさを布教すべき教師が、神聖な授業で有害なソモソモ論を無垢なガキどもに吐いてクラシック嫌いにさせてどうする?

贖罪しろw

 

この際、ショスタコーヴィチとかペッテションとか神様ナシの音楽や、日本人が作った八百万の神の音楽とか、キリストに関係なさそーなクラシックばっかり聴くことにしようかなあ?くっそー

 

結局はあんまり細かいこと言わんと、楽しめればええんや!人が何を言おうが自分が好きなら関係ないっすよね!?たかが音楽ですから。

 

今後、聖書のサワリでも勉強しながら偏見教師のウソ八百を少しずつでも暴いていきたいです (ホント八百だったりしたらどうしよっw)