チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

朝比奈隆ヨーロッパへ指揮の旅(1956)

2014-11-23 16:39:34 | 日本の音楽家

『音楽之友』昭和31年8月号より、「渡欧する朝比奈隆氏」です。


写真右は送別パーティに臨席した山田耕筰氏。

当時朝比奈さんは関西交響楽団の専任指揮者だったのですが、オーストリア政府から招待され、ウィーン放送管弦楽団(←ウィーン放送交響楽団とは別の団体?)を指揮するため1956年5月31日羽田からヨーロッパへ出発しました。

ウィーン、ベルリン、イスラエルで指揮してインドに寄ってから8月上旬に帰国したそうですが、40代後半の朝比奈さんは世界的に活躍されていたんですね。


ショスタコーヴィチ「森の歌」日本で大ブーム(1955年前後)

2014-11-19 22:57:09 | メモ

いまの年末の第九のように、昭和30年前後にはショスタコーヴィチの「森の歌」をアマチュア団体が歌うのが大ブームになったそうです。

 

「芸術新潮」昭和31年1月号より。

「ショスタコヴィッチのカンタータ「森の歌」がしきりと各団体でとり上げられる。素人の、楽譜もよくよめない人たちが集って楽しむのにはまことに恰好な曲だろうから結構な話だと思っていたら、N響までが定期に出したのには、驚いた。芸大と国立音楽大学の合唱団に柴田睦陸と大橋国一のソロという、現在この国で求められるものとしてまず申し分のないスタッフで。(中略)しかし、何という単純な長ったらしい音楽だろう。単純で、しかも、大勢をよろこばす音楽をかくのはまことに結構だし、みんなが歌って楽しむのはもっと結構だが、すでに素人の団体がさんざん楽しんできた末に、職業的な演奏団体がそれを真似するのは、道楽か迎合か、芸のない話ではなかろうか。」

これは誰が書いたものかわかりませんが、結構同意してしまいました。森の歌って、確かに一般的には「良い曲」かもしれませんが、ショスタコーヴィチの音楽としてはあまりにも低刺激すぎますよね。。

この一時的なブームの裏では共産主義的な、左の力が働いていたんでしょうか??

東京労音二周年記念コンサートの一千人の合唱。「ローラースケートリンク国際スタヂアム」という字が見えます。

 

柴田睦陸のソロ、芥川也寸志指揮。


神童ピエリーノ・ガンバ(1947年)

2014-11-18 19:34:27 | 日記

『旬刊ニュース』28号(昭和22年)に、半ズボンの子供の指揮者の写真がありました。

ピエリーノ(ピエロ)・ガンバ君Pierino[Piero] Gamba(1936年生まれ)、なんと11歳のときの指揮姿です。しっかりした表情ですね。

「スイスやイタリアで演奏して絶賛を博した世界で一番若い天才コンダクター、ピエリーノ・ガンバ君は1947年5月22日、パリにおいてシューベルトやベートーヴェンの交響曲を堂々指揮して大喝采を受けた」ということです。

一般的には指揮者は人生の酸いも甘いも噛み分けた人間でないと務まらない気もしますが、純真無垢(?)の指揮者がどんな音楽をつくるのかにも興味があります。

 

ちなみにピエリーノ・ガンバさんと指揮者ラモン・ガンバ(Rumon Gamba)さんは全く関係がないそうです。


N響客員オーボエ奏者のものまね名人芸(ヴェス時代)

2014-11-16 23:46:03 | 来日した演奏家

福田達夫著『日本の音楽家と聴衆』(昭和42年音楽出版社)に、ちょっと面白い話がありました。N響のヴェス時代(1951-1954)のことです。

「N響をクルト・ヴェスが指揮をしていた時代のある地方公演の際、たしかブラームスの交響曲で、どうしたことかクラリネットが出損なったところ、ちょうどその時手が空いていたオーボエが間髪を入れずに自分の楽器で、クラリネットのパートを音色も似せて吹いたのだそうです。演奏後ヴェスがそのオーボエ奏者のところへ握手に行き、事の次第が判明したら、そういうことだったという話です。
(中略)その時のオーボエ奏者は日本人ではなく、ヴィーンから来ていたシェフトラインのはずです。とするとクラリネット奏者は、やはりヴィーンから来ていたアイヒラーだったでしょうか。同じヴィーンの人間で連繋が取り易かったどうか解りませんが、しかし、この話を聞いた時には、さすがに違うものだと思ったのは事実です。」

このユルク・シェフトライン(Jürg Schaeftlein)というオーボエ奏者は目の前に楽譜もないのに、しかもクラリネットの「ものまね」をして難を乗り越えたということですね。まさに名人芸!

ちなみにWikipediaによるとヴェスはウィーンからの客員奏者4名(Vn:パウル・クリング、Cl:ロルフ・アイヒラー、ob:シェフトライン、hrp:ヨゼフ・モルナール)を招聘してN響のアンサンブルの改善を図ったということです。知りませんでした。

↑ アーノンクールとバッハを演奏するシェフトライン

 

↑ N響第342回定期(1952年12月11、12日日比谷公会堂)のシェフトライン。ヴェス指揮。『音楽之友』1953年3月号


サンソン・フランソワ初来日(1956年)と不機嫌な表情

2014-11-15 00:37:47 | 来日した演奏家

フランスの名ピアニスト、サンソン・フランソワ(Samson François, 1924-1970)は1956年、1967年、そして1969年と3度来日しています。

昭和30年(1955年)に来日予定のところ病気でとりやめになったそうですが
翌年昭和31年(1956年)10月30日(火)に第6回フランス政府派遣文化使節として、ジョゼット夫人と横浜着の汽船で初来日しました。


↑ 来日早々宿舎のことで文句を言ったり、曲目変更のことでゴネたそうです。(『芸術新潮』昭和31年12月号)

このピアニストは不機嫌っぽい顔の写真が多いですね。たまにCDのジャケット等で笑顔がありますが、無理に笑ってる感が強いかも。むしろ笑っていない顔のほうがフランソワらしいです。



↑レセプションの様子。総理大臣経験者の芦田均(1887-1959)と話しています。このくらいの微笑が限界ですかね。ちなみにフランソワの左は原智恵子さん。(『音楽芸術』昭和31年12月号)

以下、フランソワの東京公演の日程と曲目です。当時の雑誌は不親切なので誤りがあるかもしれません。修正していきます。地方公演についても調べます。


【昭和31年11月10日(土)午後2時 日比谷公会堂】
バッハ 二つのコラール前奏曲とフーガイ短調
ショパン バラード第1番、練習曲第2番、3つのマズルカ、スケルツォ第2番
フォーレ 夜想曲第2番
リスト ハンガリー狂詩曲第8番、第6番


【12月2日(日) 日比谷公会堂 リサイタル 都民劇場主催(曲目不明)】←本当に演奏会があったのかどうか自体が不明


【12月6日(木) 東響定期 上田仁指揮 日比谷公会堂】
リストの協奏曲(1番か2番か不明)
プロコフィエフ 協奏曲第3番


(『音楽芸術』昭和32年2月号)


【12月10日(月) 日比谷公会堂(告別演奏会←昔は最後のコンサートをこう呼んでいました)】
バッハ(ブゾーニ編) トッカータ・インテルメッツォ・フーガハ長調
ショパン いくつかの小曲、変ロ短調ソナタ
ドビュッシー 12の練習曲から3曲
プロコフィエフ ソナタ第7番

 

当時の評論家の演奏会に対する批評は概ね良好で、特にショパンのソナタは圧巻だったそうです。

↑ 本当にいつも機嫌が悪そうです。

不機嫌すぎてジャケット写真が機嫌のいい人に変えられてしまうことも??