事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

森達也ライブ

2010-11-05 | 情宣「さかた」裏版

行ってきました森達也の講演会に。ホテルリッチ&ガーデン酒田。タイトルは「いま、メディアのあり方を考える」。

教育研究山形県集会の一環として行われたこの講演会。当初は「知名度もイマイチだしぃ」ということでわたしのようなものにまで協力しろと「この1冊」で特集したわけだけど、思いっきり杞憂だった。お客さんはいっぱい。なにしろ駐車場が確保できなくて、リッチのなじみの営業が駐車場で参加者たちに「すいませんここ(市営プール跡地)にお願いしますっ」と地図を渡してたくらい。もっとも、わたしだとわかった途端に「その辺でなんとかしてくださいよ」と(>_<)。ま、マジでなんとかしましたが。

わたしは自分でもどうかと思うぐらい講演だのライブが苦手。目の前に生きている対象がいるってだけで息苦しい(だから映画や本が好きなわけ。観客に影響されないから……何様だおれは)。でも、酒田に異動した途端に市の教育委員会が宮台真司は呼ぶ、クミアイは森達也を呼ぶ、そんなに気をつかってくれなくてもいいのに(笑)。っていうかこの二人だけは生で見たかったの。

森は“いかにも”彼らしいパーカー姿で登場。奥さんが鶴岡出身であることで客をまずつかみ、しゃべりも好調。考えてみりゃそうだよな。フリーランスである以上、プレゼン能力が皆無だったら生き残っていけないはずだもの。どうも口下手で、なんて理屈が許されるゆるい業界にいるわけじゃなし。

キーになったフレーズは『不安』。日本人はオウム以来、不安だからこそこれだけ付和雷同するのだと。
オウムがサリンをまいた理由がわからない以上(マスコミが後付けした理屈の陳腐さにはみんな笑っていた)、日本人は、もとから徒党を組みたい民族であるとはいえ、その性向は加速してきた。それはなにより、独りになりたくないから。

「I Don't Want To Die」で特集したあの三人が「自己責任」と突き放され、日本中から批判された事件がわかりやすい。“誰かをみんなといっしょに批判していれば、自分は異物だと思われずにすむ”これこそが今の日本であり、学校のいじめの構造と同種ではないかと。

納得したー。

メディアには巨大な可能性があり、しかし同時に同じだけの負の側面があるという事実を、わたしたちは認識していなければならない……メディアリテラシーとは『相対化』であるとわたしも思っていたので、つくづくと満足。で、森達也の言辞もまた相対化しなければならないと彼自身が語っていたのを「そこは言うべきじゃないんじゃない?(聴衆を信用する姿勢を見せるべきじゃない?)」と隣に座ったウチの支部長は言ってたけど、そこがライブじゃん。だめ押しはしたくなるってもんじゃないでしょうか。

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森達也

2010-11-01 | 情宣「さかた」裏版

Moritatsuya02 今回はクミアイに依頼された“お仕事”バージョンです。なにしろ通称『県教研』に、あの森達也が来て講演してくれるってんだから。しかも酒田でっ!そりゃー協力しなきゃ。

森達也(もり・たつや)

映画監督、テレビディレクター、作家。1956年5月10日生。広島県呉市出身。役者志望だったが、自分には演技力も運もないと役者の道を諦め、テレビ番組制作会社のテレコム・ジャパンに入社。現在はフリーで活動のかたわら早稲田大学客員教授、明治大学客員教授も勤める。1997年、オウム真理教に密着取材した自主制作のドキュメンタリー映画「A」を公開し話題を呼ぶ。続編の「A2」は山形国際ドキュメンタリー映画祭で市民賞・審査員特別賞を受賞。『A』『A2』(現代書館)、『職業欄はエスパー』(角川文庫)、『放送禁止歌』(解放出版社)『悪役レスラーは笑う』(岩波書店)など著書多数。

……オフィシャルな経歴は上記のようにまとめられます。世界に冠たる山形国際ドキュメンタリー映画祭(地元がいちばんその高評価を意識していないかもしれません)において、観客たちが彼を“発見”した形になっていますから、森達也はきっと山形県人びいきだと思います。

 世間のスタンピード(暴走)から距離を置いて、その熱狂に疑問を投げかけるのが森のスタンス。ブレイクするきっかけとなった「放送禁止歌」(フジテレビ)がその真骨頂。

なにしろ“放送のなかで放送禁止歌を扱う”のですから気合いが入っています。しかしストレートに取材した結果、世に放送禁止歌などというものは存在せず、単にマスコミが自主規制しているだけにすぎないことが露わになっていく過程はスリリング。「竹田の子守唄」も「網走番外地」も、メディアに根性さえあれば放送は可能なことが理解できます。

 同じことがオウムへの取材(「A」「A2」)にも言えて、オウム真理教徒を絶対悪として描くよう強要するプロデューサーと衝突して契約解除され、自費で取材を継続。青山総本部のなかに入ることなど思いもよらないマスコミは、中にいる森のカメラを訝しく思う。森は単に、取材させてほしいとジャーナリストとしてリクエストしただけなのに。

「あんた、何してんだ」

「なんであんただけ中にいるんだ!」

……被写体としてのマスコミが、こんなに醜いものとは。

予断にみちたマスコミの『取材の流儀』に辟易したことのある人なら、森の指摘に賛同していただけるものと思います。メディアがいま語っている“ストーリー”に、なぜわたしたちは疑問を抱かずにいられるのか、メディアの責任とはなんなのか。

11月5日(金)ホテルリッチ&ガーデンで、その一端をかいま見ることができるはず。教育研究山形県集会へ、ぜひお出で下さい。

……飛びこみでも入場できる……かな?
お問い合わせは山形県教職員組合酒田地区支部(0234-22-4242)へ。

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転勤

2009-04-18 | 情宣「さかた」裏版

 わたしは今までに4回転勤している。内示をうけるたびに、家族に予告はするわけだが……
「で、次の学校に給食はあるの?」
妻よ、給食の有無の前に校名ぐらいはきいてくれないか。
 
 内示が各所属においてどんなパターンで行われているかは千差万別だろう。経験したなかで一番ドライ、というかわたし好みだったのは、4月1日付で統合される学校での内示だった。なにしろ全員が異動対象だったため、職員室において大々的に発表されたのだ。

Matsuyamaken01 「えー、堀センセーは……○○中ですね」

その新所属に確たるイメージをもっていなかったわたしは、まわりの連中に「どんな学校なの?」ときいてみると……

「確か有名な蕎麦屋があったな」

ラーメンのレベルは高いぞあそこは」

「もちろんマンジュウもうまい」

わたしの人事って食い物で決まったのか。

 山形県の教職員の人事異動については、やはりそれなりの特徴がある。最大の欠点は、内示の翌日、ヘタをすると当日の夕刊で新聞発表されてしまうことだ。これのどこが“内示”なんだか。しかも時期が圧倒的に遅い。

たとえば年度末休業の開始が山形よりもはるかに遅い千葉などは、今年の内示は3月15日だというし、関西方面では、異動日の1ヶ月前の内示を、と求めている県もあるほどなのに。まあ、県下を3分割し、驚くほどの遠距離交流人事を行っている東北の某県や、学閥が激しく人事に影響する北陸や東海の某県よりはましなのかもしれないが。

 先日、公立学校共済組合員に配布された「教職員のための新メンタルヘルス・ハンドブック」をお読みになった方も多いと思う。そのなかに、なるほどなあ、と感じさせられるデータがあった。

 神経科における「公立学校教員の異動後の年数別初診者数と休業者数」のグラフが掲載されていて、ご想像のとおり異動後1~2年の数字が群を抜いているのだ。

 このストレスの原因を考えてみる。小中学校は、その構えの大きさと知名度から誤解されやすいが、それぞれの所属を【職場】としてみれば、構成人数はほとんど20数名。多くても50名弱の小さなユニットにすぎない。会社でいえば、文句なく小企業なのである。そのため、それぞれの人間関係が濃く、深い傾向があるのではないか。

 これらの小さなユニットを横断する組織としての労働組合の存在意義は、こんなところにもうかがえる。それでなくとも人事異動はわたしたちにとって大きな勤務条件の変更だ。何かあったら、すぐに書記局へ連絡を。

「情宣さかた」裏版2004年3月9日号。支部長任期終了直前。これ以降、2度の転勤をこなしたが、やれやれ今回のがいちばんしんどいかも(笑)

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PTA

2009-02-21 | 情宣「さかた」裏版

Photo “高校球児が自分よりはるかに年下であることに気づいたとき、人は自分が年をとったことを確信する”ものらしい。わたしは鈍感だったせいで“北の湖が理事長になる”まで、年齢を意識しないで来てしまったが。

 学校につとめていると、そのことをPTAとのつき合いで否応なしに感じさせられてしまうのではないか。新採の頃など、保護者たちとは酒の席で思いっきり説教をたれられる存在だったのに、いつのまにか同世代になり(ウチの学校のPTA会長は同学年だ)、大多数は年下になってしまった。

 前任の中学校から異動するときなど、「おめどご小学校さやんな心配だちゃー。ヤンママばっかりだぜー」とPTAから歓送迎会の席で突っ込まれたりしたが、残念なことにどうやらそこまででもなかった(笑)。

 しかし娘の学校の学年役員として、親子研修会の企画を考えていたときはさすがに考え込んだ。

「酒○米菓の工場見学なんかどう?」

「うーん、なかで山本リンダが待ってるっつーんならなー」
と気のないところをみせていると「?」まわりの役員たちは意味が分からない様子。

「オラン○せんべいのCMさ昔出っだけろー山本リンダ」

「えー?オ○ンダせんべいは水島裕じゃん」

「んだよのー。ゆー・ゆー・ゆーだよのー」

しまった。ヤンママはこっちにいたのだった。 

2003年10月28日付「情宣さかた」裏版より。
選挙が近いものだからこのころは情宣を出してばっかりいたなあ。オランダせんべいは酒田米菓の主力商品。すごくおいしいです。秋田出身の柳葉敏郎が、なんかの番組で激賞していた。いいぞ柳葉。                  

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酒田の一番長い夜Part3

2009-02-09 | 情宣「さかた」裏版

Mk02 Part2はこちら
2003年10月24日付「情宣さかた」裏版より。

一週間ほどたって、結果的に類焼をくいとめた新井田川沿いをチャリで走って、私は初めて呆然とした。

町が……無くなってる

正確にいうと、どんな風の具合かわからないが、全く燃えていない建物が二三見受けられるものの(そのうちの一軒は私の知り合いの家で、その後、的外れな怨嗟のために投石されたりした)、あとはもう、なんっにも無くなっているのである。

ここに至ってようやくことの重大さに気づいた私は……なにも出来なかった。無力な高校生にも、何ごとか出来ることがあったはずなのに。

 あれから四半世紀以上たち、初めて観るニューバージョン「愛のコリーダ」は、ワイセツに関する日本人の感性が鈍化(私は素直に成熟、と思っている。そろそろヘアー云々は卒業する頃だろう)したことと自分の老化があいまって、ハードコア云々というより、日本の様式美を徹底的に画面にぶち込んだ古典、に見えた。文句なく傑作。

若い頃に観ておけば(観るべきだった、とつくづく思う)、鼻血の1リットルも流していたかもしれないが。       

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酒田の一番長い夜Part2

2009-02-08 | 情宣「さかた」裏版

Sakatataika02 Part1はこちら
2003年10月24日付「情宣さかた」裏版より。

いっこうに鎮火の報は聞こえてこず、近所の消防団員たちは総出動、半鐘やサイレンは鳴りまくり。台所の窓から市街地を眺めると、現場から5キロほど離れた私の家からでさえ、空の半分ほどが紅く染まっていた。その赤さ、明るさは夕焼けの比ではない。

深夜になっても火勢は衰えず、YBCのあるアナウンサー(私の友人のお姉さんをナンパ→失敗したことで印象深く、今でもこの人がテレビに出てくると苦笑してしまう)が終夜実況していたことや、井上順が文化放送「セイ!ヤング」で「山形県の酒田というところが今燃えていますね。ま、よくわかりませんが」と失礼なことを話していたのを憶えている。

結局、鎮火したのは午前5時ごろ。死者1名。罹災者3,300名。被害総額405億円。戦後4番目の大火という結果になった。

翌朝、市街地を通ることなく学校にチャリで行ける私は、騒然とした雰囲気を、自衛隊の行進や学校のグラウンドに朝日新聞のヘリが着陸したことぐらいでしか感じ取れないでいた。「菅原文太の映画みたかったなー」引き続きのんきな高校生だったのである。物見高く火事の現場を見に行くことには抵抗があったし。

余談だが、その後この被災地にはたーくさんの“観光バス”がやって来ていて、私は素直にそれを受けとめられないでいた。

もっとも、変な言い方だが酒田が一気にメジャーになったのはこの大火のせいもあるだろう。学生時代、東京ネイティブの連中には「酒田?知ってるよー、燃えたとこだろ?甲子園にも出たし。」とニッコリ笑って言われたものだった……。 

Part3につづく。 

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酒田の一番長い夜Part1

2009-02-07 | 情宣「さかた」裏版

D110959842 2003年10月10日付「情宣さかた」裏版より。

1976年10月29日、高二の映画少年だった私は、翌日の土曜日、東映映画上映館である酒田中央座で菅原文太主演、俊藤浩滋(藤純子のお父さん)企画、中島貞夫監督の「バカ政 ホラ政 トッパ政」を観る算段でいた。

当時、東北でも有数の洋画ロードショー館だったグリーンハウスでは、大島渚が久しぶりに撮った日本初のハードコア「愛のコリーダ」を上映していたが、当然成人指定だし、ずたずたのカット、ぼけぼけの画面であることは承知していたので、当時熱中していたやくざ映画の方を選択したというわけだった。

若い人は知らないだろうけれど、グリーンハウスが今も存在していたら、とはしょっちゅう夢想する。日テレ「11PM」で小森のおばちゃまが「あれはいい映画館!」と激賞してくれていたほど、味のある映画館だったのである。

回転ドア、上映開始までの時間表示、幕が開くときに流れるムーンライトセレナーデ、喫茶コーナーからただよう珈琲の香り、そしてアメリカンニューシネマをあふれるほど提供してくれた名画座シネサロン……このあたりはわたしより上の世代の方が思い入れは強いはず。

同級生だったシネマ旭の支配人の息子や、グリーンハウスの後ろ盾だった(?)初孫の重役の娘から、招待券だの株主優待券だのをかすめていたこすっからい小僧よりはるかに。歩く金券ショップかオレは。

風の強いその日、7時前に家に帰り、NHKのローカルニュースを見ると、酒田中町で火事があり、現在も延焼中であることが伝えられていた。火元はグリーンハウスだという…… 

Part2につづく。

メルマガ版「愛のコリーダ」特集はこちら

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ブッシュ退場

2009-01-20 | 情宣「さかた」裏版

Bushstatement2 ブッシュ退場を記念してアップします。

 ひさしぶりにブッシュの悪口を。この人の人間性が端的にあらわれている米韓首脳会談のやり取りが報じられていたので。

 金大中前大統領が「金正日は、会ってみたら決しておかしな人間ではなかった」と開口一番に言ったところ、アメリカの方の二代目のボンボンは、返事もせずに横を向いたまま数分間黙っていたという。首脳会談なのに(笑)。

 つまりこういうことだと思う。アジア人など、というと過激すぎるが、少なくともキリスト者以外は問題にもしていないネオコンの代表がブッシュであり、彼の考え方に定見無くついていこうとしているのが現在の日本だ。

 今回の総選挙で、まちがいなく争点にならざるをえないのはイラク問題。あのときアメリカのとった行動、そして追随した日本のやり方に対する有権者の評価がどんなものなのか、投票行動によって示される場でもあるはず。はたしてあなたの評価はどんなものだろうか。

※北朝鮮たたきで名をあげた日本版ネオコン、安倍晋三幹事長の人気が沸騰しているようだ。この熱狂を見るにつけ、戦争は一部の指導者層の強引な暴走によって起こるのではなく、国民の突き上げがその遠因となっていることが理解できる。

2003年11月6日付「情宣さかた」裏版より。なーんだ、けっこういいこと言ってたんだな(^o^)
いやはや、それにしても長い、そして最低の8年間でしたね。

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牛丼 2杯目

2009-01-17 | 情宣「さかた」裏版

Yoshinoya03 1杯目はこちら

近年「つゆだく」でだの「アタマ」がどうしたのとオーダーするのが流行っていたが、これは硬直化したメニューに対する客からの反乱だろうか。ま、実際はバイト経験者の発案によるものだろうと私はふんでいるが。牛丼ぐらいプレーンで食えんのかしかし。

 飢えをしのぐ。食の目的はまずそれであることを牛丼は常に認識させてくれる。貧乏や多忙のために、徹底的に腹を空かせてあの丼を手に取った経験のある人は、オレンジ色の看板を見るたびにパブロフの犬状態になる仕組みになっている。私なんかダイエーのマークを見るだけで興奮するほどである。嘘だけど。

 今回のBSE騒ぎのために、日本人の間で牛丼の認知度が一気に高まったことだけは確かだ。競馬や競輪場が似合う、ちょっと気恥ずかしい二流の食べ物(東海林さだお)だった牛丼が、輸入再開とともに今までは見向きもしなかった層に受け入れられていくはず。

そのことに文句はないが、どんなことにもアメリカ追従である日本が、こと牛肉問題でだけやけに突っぱっている現状になにか不自然なものを感じるのは、わたしがやはり昔気質の牛丼ファンであるからだろうか。

情宣さかた裏版より。

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牛丼 1杯目

2009-01-17 | 情宣「さかた」裏版

Yoshinoya02  自慢だか謙遜だかよくわからないが、私は「吉野家道」有段者である。学生の頃から通い続け、どんな知らない街に行こうが、このあたりだろう、と見渡せばそこには例のオレンジ色の看板が待っている。

ど派手なネオン輝く新宿歌舞伎町でもあの色はひときわ目立ったし、80年の倒産前、献血をした人間に牛丼券が支給されるサービスがあったときは、本気で血を売ろうと思ったぐらいだ。貧乏だったなあ。

「並。」

と歩きながらオーダーし、「奥へどーぞー。」などと店員に余計なことを言われる前にズンズンと進む。

他のファーストフード店と違い「お味噌汁などもいかがですかぁ?」とか変な御愛想を振りまかないのが吉野家の潔いところ。とにかくすぐに出てくるお茶を口に含み、オーダーが終っているくせにメニューを眺め、変更がないかを確かめる。

といっても今までに変更などめったにあったためしはなく、せいぜい定食系が追加されたことと、腹を空かせた学生たちには夢のような「特盛」が設定されたぐらいだろうか。

その定食で一番笑ったのは「納豆定食」なるメニューがあったことで、「ほう、納豆定食ねぇ…ん?……おい、メインディッシュは何なんだ?!」さすが吉野家である。よくわからんけど。

続きます

情宣さかた裏版より。

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