異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

「夜と霧」を読んで~講演『余命を知って、生きるということ』…苦しみに意味を見つけられたら希望となる。病や障害さえも個性を育む。

2016-08-02 23:15:33 | 福祉 高齢 障がい

http://blog.goo.ne.jp/excite_hy/e/89e357f85e27337872eb9c8849319dd9より転載

講演「余命を知って、生きるということ」 

プロフィール

excite_hy保田 広輝

    自己紹介
デュシェンヌ型筋ジストロフィーという難病患者。電動車椅子とNPPVの人工呼吸器を使っています。
クリスチャン(日本キリスト改革派教会)。
苦しい病の人生でも、生きた証しを残したいし、誰かの支えになりたい☆
2015年07月24日 21時23分57秒 | 難病のこと
先日、沼津で、「命」「死を意識して生きること」について、講演した原稿をアップします。
長い文書ですが、読んでいただけたら嬉しいです。

2015年7月4日 沼津千本プラザ 「余命を知って、生きるということ」

私の名前は保田広輝です。いま24歳です。
デュシェンヌ型筋ジストロフィーという難病を抱えています。
この難病は遺伝子の異常により、次第に全身の筋肉が動かなくなってゆく難病です。
未だに治療法がありません。

今は24時間ずっと人工呼吸器で呼吸をしていて、手の親指以外は動かせないので、
食事もトイレも着替えも、ひとりでは生活の全てが何もできないですし、
やがて寝たきりの生活になります。

4歳で病名を診断され、当時は20歳までの命と言われました。
私は難病であることを知らずに育ちました。

幼い頃は、走ったり跳んだりできず、
階段は手すりをしっかりつかまないと上ることができなかったけど、
他の子よりも運動神経がないとしか思っていなかったんですね。

大人になって、なぜ難病を告げてくれなかったのかと両親に尋ねたところ、
「20歳で死ぬということはとても伝えられなかった…」と答えてくれました。

自分は他の人とは違うと感じ始めたのは、7歳からでした。
難病の進行で、よく転倒したり、ひとりで起き上がれないようになっていたんですね。

足が悪いという理由だけで、イジメを受けるようになりました。
足が悪くなければいじめられることはなかったのに、と子供ながらに苦しみました。

そして、9歳で車椅子生活となりました。

難病の現実を思い知らされたのは、
大学の受験勉強に励んでいた18歳の3月からでした。
自分も当時のドクターも、病気が悪化していることがまったく分からず、
1年間で5回も入院したんですね。

いつも嘔吐が止まらなかったり、
ものすごい息苦しさと、痛みがガンガン鳴り響くような激しい頭痛のせいで、
ほとんど眠れないので、毎日のように意識がボーとなって、
本当に死ぬかと思う毎日が続いたんですね。

その間も苦しい現実から逃げるように受験勉強に夢中で打ち込んでいました。
でも、息苦しさと頭痛のせいで、必死に勉強しても次から次に忘れていき、
試験の点数はどんどん下がっていくので、
努力が無駄になっていくのは辛かったです。

1年が経ったあと、母の努力のおかげで、
私の病気のスーパードクターがいる病院のことを知って、
その病院でいま使っている人工呼吸器を導入してもらってから、
苦しい症状は改善されました。

ただ、人工呼吸器を使うには医者の管理が必要だから、
そのために地元の福岡の専門病院で検査入院したときに、
医者から「やがて寝たきりになり、延命治療をしても、35歳で亡くなるでしょう」と、余命宣告を受けました。

心が引き裂かれるような宣告でした。
その時に難病の現実をとことん思い知ったんですね。

その後、合格した大学には入学したけど、体調不良により半年で中退しました。
それからは自分を見つめ直す日々でした。

19歳にして人工呼吸器を使うまでの体になったこと、
余命宣告を受けたこと、
難病による体の痛みが激しいので、ベッドで過ごす生活になったこと、
などが大きなストレスとなり、浮き沈みの激しい時期が長く続いたんですね。

この時は生きている意味が分かりませんでした。人生に絶望していました。

こういう気持ちになったのは、
寝たきりになって若く死ぬのは嫌だ、
どうして私は健康になれないのか、という思いが強かったからです。

なぜなら、この社会で人間が生きる価値は、
健康に生きて、結婚して、仕事をして社会で役立つことで決まるけど、
難病の私にはそれが無理だからです。

私には別の生きる価値が必要だったんですね。
でも、それがずっと分からなかったので、苦しかったです。
心はいつも暗闇の中を過ごしていました。

そんな中で、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読んで、
「絶望=苦悩-意味」という公式に出会ったんです。

この公式は、意味がない苦しみが絶望である、
苦しみに意味を問わなければ絶望となる、
苦しみに意味を見つけられたら希望となる、ということです。

苦しみがあるから、苦しくてたまらないから、
不幸だって簡単に考えるのではなくて、
苦しみに意味を見つけられたら、希望に変わる。

人生はそれ自体に意味があるから、どんな状況でも意味がある。
ということを『夜と霧』から学びました。


そして、どのような苦しい人生でも、人生に意味を見つけることができれば、
希望を失うことなく、勇気を持って生きていける、と思えるようになったんですね。

人は意味なくして生きることはできないんです。
人は何をするにも、自分にとって意味がなければ、すべてをむなしく感じるものですから。

苦しみに意味を見つけられたら希望となる。
それからは、苦しみを忍耐しながら、
難病の自分が生きている意味を、絶えず祈りながら考えるようになったんですね。

そのために、まず私は難病を受け入れることから始めようと思ったんです。
私の難病は、死ぬまで進行していくので、
いまできることが、半年後になるとできなくなるんですね。

これはなかなか受け入れることはできません。
でも、そういう体になったことは変えられない現実だし、
じたばたしても辛いだけですよね。

まず現実を受け入れていくことが大切です。

でも、受け入れることが、いつ死んでもいいやってあきらめになってしまったら、
生きることがどうでもよくなるので、
本当に大切なのは、受け入れた後のステップの、変わることです。
難病の人生を前向きに生きていこう!と変わることが大切なんですね。


そして、あと10年少しで死ぬんだと思うと、
いま自分が生きている毎日は当たり前のものではないなぁ、と感じたんです。

平凡な日常でさえも、二度と戻れない瞬間です。
同じ景色を明日も見られるかどうかは誰にも分からないんですよね。

平凡な日常でさえも輝いているのだから、
ひとつひとつの出来事を胸に刻んでいくために、
死を意識して、命の終わりを覚悟して受け入れていこう、
と思えるようになりました。

人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということです。
私たちの人生が取り返しのつかないものであり、全てやり直しがきかない。
一日一日、一瞬一瞬が一回きりだということが、人生に素晴らしい重みを教えてくれます。

私は難病の経験を通して、自分の人生が限られたものであることに気付き、
残された貴重な時間をどう生きるかを真剣に考えるきっかけを与えてくれました。

死を恐れて、単に「死なないこと」を願うのではなく、
死すべきものとして「どう生きるか」が大切だと思います。


命は必ず終わりがあるものですけど、やっぱり死は恐いです。
でも、私が死んでも、私の命は生きている人々の心の中で生きていくと信じています。

残された人間が、亡くなった人の人生を意味ぶかく受け止めていく時に、
本当の意味で、亡くなった人の命が残された人間の中で生きていくのだと思います。
だから、私も人々の心に残るような人生を歩んでいきたいです。

そうして、人との関係から生きることを考えるようになりました。
いま生きているということは、自分を支えてくれる人が必ずいるんですよね。

誰かとの関係があるからこそ、私たちの命は存在しているのだと思います。
人間は孤独を感じてしまうものだけど、生きている時点でひとりではないんですよね。

こういうことを考えていた頃に、
1946年に公開された映画「素晴らしき哉、人生!」を見たんですね。

これは、若い頃の夢を諦めて、愛する人たちや貧しい人々のために、
住宅ローンの会社経営を頑張る主人公の物語です。

ある困難をきっかけに自殺を決心した主人公の前に、天使があらわれて、
その天使が「主人公が生まれなかった世界」へと連れて行くシーンが
一番の見どころです。

この映画に出てくる
「一人の命は大勢の人に影響を与えている。一人がいなくなれば世界は一変する」

というセリフがとても心に響いたんですね。

私はこの映画から、
自分が生まれないだけで、自分の周りにいる人々の人生や性格が大きく変わってしまう、
だから自分の存在にも意味がある、ということを学びました。

そうして、難病は良いものだと思えるようになったんですね。

なぜなら、私はこの難病で生まれて来たからこそ、今の自分の性格や人生になれたし、
今まで築き上げて来た人間関係があるからです。

ひとりの命は自分に関わっている人たちに何かしらの影響を与えていますし、
もし私が難病になって生まれて来なかったら、
今まで自分に関わってくれた人たちの性格や人生が何かしら変わってしまう、と思うんです。

だから、人との関係から考えたら、
私にとって難病は良いものだ、と思えるようになったんですね。


そして、私は苦しむことが嫌だったんですが、
難病の人生で感じる苦しみは、自分にとって必要なものなんだ、
と思えるようになりました。

苦しみも、自分ひとりのものではなく、人のためにつながっていくものなんですよね。

人の痛みが分かる人は、
泣いている相手と同じくらい泣いた人、傷付いている相手と同じくらい傷付いた人です。
だから、難病の苦しみを受け入れて成長できれば、人の痛みに寄り添うことができるし、
苦しみの中でも、喜びを感じながら生きていれば、人を励ますことができます。

また、私たちのコミュニケーションの約20%は言葉で、
残りの80%は表情や仕草などの無言のコミュニケーションで成り立っているそうです。
言葉も大事ですが、その人の醸し出す雰囲気のほうがより大切になるそうです。
私は難病でも、なるべく笑顔で過ごすことで、人を励ますことができると信じています。


苦しみは人のためにつながっていくんです。
私の幸せは人とつながっていることを実感することですから、
難病でも幸せになることができるんですよね。

人と関わりながら生きていくのが命なんですね。

【パール・バック(作家)】

「悲しみを越えるには、あるがままのものを、そのまま受け入れることが、必要である。
これが自分の生活なのであり、私は生き抜かねばならない、と考えるのだ。

なぜ自分だけこんな目にあうのか?、と自分中心に物事を考えたり、
行動したりしている限り、人生は耐えられない。

自分の苦しみは自分ひとりのものではない。
苦しみの中で、自分は人々と共にあるのだ、と自覚すると、
やがて苦しみの中で人々と手をつないでいこう、という積極的な姿勢に変わってくる。」


でも、人との関わりが多くなるほど、
自分には無いものを持っている色んな人に出会うほど、
私は他人と自分を比べてしまい、
自己嫌悪や嫉妬に支配されてしまう時がたまにあります。

でも、他人は他人、自分は自分と考えるように心がけています。
命の尊さはみんな同じですし、人それぞれに生きる役割があるのだと思います。

逆に、自分には役割なんてない、誰にも必要とされていない、と考えてしまうと、
私だったら、いつ死んでもいいや、と投げやりになります。
生きる役割を感じながら生きていくほうが充実した人生を送れますよね。

難病になった私にも生きる役割があると信じています。
だから、私はこの難病から何をつくるのか、この難病でもって何を始めるのか、考えてみました。

そして、ただ競争するだけの社会から、
共に生きる社会へと展開させる役割が、障害者で難病の私にもある
、と思ったんです。

私がいつも意識していることは、病の人・障害のある人は不幸ではないということです。

 

 


ナチスドイツは、第二次世界大戦中に、安楽死プログラムという法律を作りました。
これにより、多くの障害者が政府の命令で殺されました。
詳しくは資料1をご覧ください。

・資料1『ナチスドイツの安楽死プログラム』

「安楽死」とは、
慢性的・末期症状の疾患を持つ個人を苦痛のない死に導くことを指します。

しかし、ナチスの場合は、ドイツ国内とドイツに併合された領土の療養施設で暮らす
身体障害者・知的障害者・精神障害者に対して実行された極秘の殺人計画でした。

ユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストと同様に、「安楽死プログラム」のリーダーは、
優生学者が「生きる価値のない不幸な命」に指定した人々を、
殺害する計画を採用したのです。

1939年8月に、すべての医師・看護婦・助産婦に対して、
ドイツ政府は重度の障害の兆候がある新生児と3歳児未満の重度の障害者を、
強制的に報告させる法令を発しました。

1939年10月には、障害を持つ子供の親に対して、
政府は特別指定した小児診療所への入院を勧め始めました。

しかし診療所は、特別採用された医療関係者が、
致死量の薬剤摂取や餓死によって子供たちを殺した殺害病院でした。

次第に殺害計画は17歳までの少年を含めるようになりました。
まもなく施設に入所している大人にまで殺害計画をひろげました。

1939年の秋に、アドルフ・ヒトラーは、
安楽死プログラムに参加する医師・医療関係者・療養施設管理者を、
起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。
政府職員は、その秘密の企てを「T4作戦」と呼びました。

T4作戦ではガス施設が全国6か所に設置されました。
T4の職員は「安楽死プログラム」に選ばれた障害者を自宅・療養施設から連行して、
これらの施設に到着した数時間以内に、連行した障害者をガス室で殺害して、
死体を焼却炉で焼きました。

その後、職員は遺灰の山から犠牲者の灰を取って骨壷に入れ、
嘘の死因を書いた死亡証明書を付けて、遺族に送りました。

しかし、政策が一般に広く知られたこと、また殺害に関する民間からの抗議、
特にドイツ人聖職者からの反対が続き、
ヒトラーは1941年8月に安楽死プログラムの中止を命令しました。

しかし、ドイツの医療従事者は1942年8月に殺害を再開しました。
新しい作戦では、地方自治体が殺害のペースを決定しました。

再び致死量の薬剤摂取や餓死による殺害が採用されて、
「安楽死プログラム」は全国の広範な施設で再開され、
障害者の子供から大人まで殺害しました。

また、ドイツ占領下の東ヨーロッパでは、ナチス親衛隊と警察部隊が、
何万もの障害者を集団射殺やガストラックで殺害しました。

「安楽死プログラム」は第二次世界大戦の末期まで続き、
高齢患者、爆撃被害者、外国人強制労働者にまで拡大されました。
ナチスの「安楽死プログラム」を通して、20万人の命が奪われたと推定されています。

 


ナチスドイツが犯したこの残虐な出来事は他人事ではないと思います。
私たちは脳中心の社会に生きています。
五体満足で優秀な人だけを重んずる競争社会に生きています。

そこから引き出されてくるのは、能力とそれを裏付ける高い偏差値のみを評価して、
優劣を決める社会です。

脳の働きの中でも、
最も重要である意識がなくなったとみなされる脳死や植物状態に陥った人、
そして認知症になった人や障害のある人は、優劣を決める社会の中で、
ナチスが考えたように、生きる価値のない不幸な命と思われています。

能力と五体満足であることだけを生きる価値と認めるのは、狭い健康観だと思います。

能力と五体満足という強さのみを強調し、
弱さを差別する社会は、本当に幸せなのでしょうか。

もし、障害のある人や病の人、高齢の人、死にゆく人を、
生きる価値のない不幸な命と見なす人が多くなれば、
その社会は、ナチスドイツのように、ひどいものになります。

人はみんな老いていきますし、必ず死にます。
人はいつ障害者になるか分かりません。
弱さや悩みがない人はいません。

どんなに五体満足で優秀な人も、いつか、自分が弱さを抱える立場になったとき、
自らも強い者から排斥されることになると思います。

難病の私が自分は不幸だ、と思っていれば、
全ての病の人や障害のある人たちが不幸な人間だと思われてしまいます。
私は生まれて来なければ良かった存在になってしまいます。

でも、生きる希望を失くさないで、喜んで生きていれば、
病の人や障害のある人は不幸だと思う人は少なくなると思うんです。

私の前向きな生き様を通して、
日本におられる病の人や障害のある人を守ることにつながる、と信じています。


弱さを抱える人が生活しやすく受け入れられる社会は、
全ての人が生活しやすい社会になるはずです。

だから、ただ競争するだけの社会から、
共に生きる社会へと展開させる役割が、障害者で難病の私にもある、と思います。

共に生きる社会、共生社会には、「様々な文化が共に生き合う」、
「違いのあるひとりひとりが五分五分の対等な立場で付き合う」

という概念が含まれています。

人はそれぞれが持っている個性や長所を生かしながら、
お互いを支え合って生きていくことができるから、違いがあるからこそ良いんですよね。

私は病や障害さえも個性を育むものになると思うので、
弱さをマイナスと捉える必要はないと思います。

お互いの違いを認め合い、違う個性や長所を持つ同士が交わることで、
豊かな人間関係を作ることができるんですよね。

病や障害もひとつの個性なのだから、病や障がいのある人とない人が混じり合い、
支え合うことで、お互いを豊かにしていくんです。

自分の人生を他の人々と共に生きることにまで広げれば、
人生は充実したものになっていきます。


でも、もし共に生きる社会において、相手の違いを認めることができなかったら、差別するようになります。
「あの人は私たちの社会にいるべきではない」と疎外につながってしまいます。
これは気をつけなければいけないと思います。

最後の話になりますが、
第二代国連事務総長のダグ・ハマーショルドの著作「道しるべ」には、
「われわれは、わが亡きあとにせめて端正さだけでも生き残ってくれるよう、
端正さを保ちつつ死ぬべきであると、私は信じている」
という言葉があります。

ここで言う端正さとは、自分らしさそのものだと思うんです。
言い換えると、ひとりひとりが信条にしているものです。
つまり、自分が生きる上で大切にしていることです。

私が生きる上で大切にしていることは、今まで語ってきた内容です。

もうひとつの信条は、心が死んだ状態で生きたくはない。
それよりも、QOL(生活の質)を大切にして生きることです。
あとは私が信じているキリスト教信仰です。

これらの私が信条にしているものは、自分らしさそのものですし、
自分の命に代えても守り抜きたいんですよね。

死を目の前にして、いつも死をリアルに感じる難病の人生でも、
自分らしさを保ち続けることができれば、
幸せを感じられるし、人間の尊厳を守ることになるんです。

余命宣告を受けて、いつも死をリアルに感じていても、
自分が好きなことや、人のために生きること、自分が生きる上で大切にしていること、
自分の生きる役割、などの自分らしさを保ち続けることができれば、

困難な人生であっても、心が死んだ状態で生きることはないし、
前向きに寿命の最後まで生きていけるんですよね。

そうすることで、困難な人生であっても、充実に生きていけるし、
幸せを感じられる心を手に入れることができるんですよね。


今までお話ししてきたように、私は難病で生きることで、多くのものを得ました。

私が難病から得たものは不幸というちっぽけなものじゃないんです。
難病の不自由は不幸ではないんですね。
私は難病だからこそ幸せなのです。

神様が喜びを持って、生まれつきの難病の私を創造してくださいました。
私は難病だからこそ充実した人生を送れているんですね。

最後に、私はキリスト教を信じています。
たとえ私は若く死んだとしても、死んだ後に復活して、
天国で神様と共に生きていく永遠の命が与えられると信じています。

キリスト教徒にとって、死はもう取り返しのつかないものではなくて、
新しい命・永遠の命の始まりなのです。

『聖書 ヨハネによる福音書 11章25節』で、イエス・キリストが、
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
と言われたように、
イエス・キリストの復活こそ、永遠の命の証しなのです。

私は永遠の命を信じているからこそ、
若く死んだとしても、前向きに生きていけるんですよね。

【聖書 ヨハネによる福音書 3章16節】

『神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』


最後まで聞いてくださって、ありがとうございました。
下記の資料2と資料3も読んでみていただけたら嬉しいです。

・資料2 星野富弘の『花の詩画集「鈴の鳴る道」』より

いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった

いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった


中学校の体育教諭としてクラブ活動の指導中に、頸髄を損傷して、
首から下はすべて動かせない体になりながらも、口に筆をくわえて、
絵と詩を書いておられる、詩画作家の星野富弘さんの詩です。

・資料3 『末期がん、その不安と怖れがなくなる日 (樋野 興夫) 』より

~命よりたいせつなものを見つける~

「命よりたいせつなものはない」と考えている人は、
がんになると、つらい思いを味わうことが多いようです。

その人にとって一番たいせつなもの(=命)を失ってしまうという経験(=死)を、
身近なものとして暮らしていくわけですから、
どうしても、つらく重苦しい時間をすごすことになるようです。

とくに、不治のがん、末期がんの場合、
「たいせつなもの」をいまにも失ってしまうのではないか、という恐怖におびえて暮らすことになりがちです。

他人の命というなら、そのために自分に何ができるかを考えることができます。
けれども、自分の命のために自分ができることは限られているのではないでしょうか。

自分のことだけにかかりきりになるのは、実は、それぼど楽しいことでなく、
ときには辛いものになってしまうようです。

自分の中に追い込まれ、どんどん孤独なっていくこともあるかもしれません。
人は、人のためを思うときのほうが幸福をあじわえるようです。

健康な人でも、そうでしょう。
例えば、自分の食事にだけ関心を寄せて暮らすよりも、
人においしいものを食べさせてあげたい、人と一緒においしいものを食べたい、
と考えて暮らすほうが楽しいものです。

自分を満足させるよりも、人を満足させるほうが喜びが大きい。
人はそのようにできているのだと思います。

命が尊いことは、もちろんです。
しかし、自分の命よりもたいせつなものがあると思えるほうが、
幸せな時間を過ごせるような気がします。

では、自分の命よりもたいせつなものとは何か。
それは、自分自身で見つけるものでしょう。家族への愛かもしれません。
何かをなしとげようとする使命感かもしれません。

また、命を一番たいせつに思う人は、
死をネガティブにしかとらえられなくなりはしないでしょうか。

死は、命を奪うもの、死は命にとっての敵、
という考え方に、どうしてもおちいってしまうようです。

けれども、死もまた、私たちの一部です。
死は、私たち全員にひとつずつ与えられているという意味では、命と同じです。

どのようにして死を迎えるのか。
それは、私たちにとって、とても重要な仕事、最後の仕事ではないでしょうか
 
 
*******************:
 
保田 広輝 ブログ  明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~
              http://blog.goo.ne.jp/excite_hy

 

 

 

 


障がい者になって分かったこと~私は現在、30代で若年性パーキンソン病という進行性の難病にかかっています。

2016-08-02 19:49:55 | 福祉 高齢 障がい

http://www.huffingtonpost.jp/myoue-blogger/sagamihara-accident_b_11291700.html?ncid=fcbklnkjphpmg00000001より転載

明恵 Headshot

サラリーマン、陰陽師、ブロガー

相模原殺傷事件の犯人が書いた「障害者は不幸を作ることしかできません。」について

投稿日: 2016年08月01日 16時06分 JST 更新: 2016年08月01日 16時06分 JST
 
 

私は1年近くブログをやり、読み手は記事単体しか読まないことを知りました。無駄な誤解を与えないためにも、今回は冒頭にて書き手である私について触れた上で書きたいと思います。

私は現在、30代で若年性パーキンソン病という進行性の難病にかかっています。

病気が進めば、体の自由が奪われ、最終的には寝たきりになります。今は症状が軽く一応健常者ですが、少しずつ障がい者に近づいています。そのため、現在の私は健常者と障がい者の中間の存在です。

幸いなことに、パーキンソン病で一番多い手の震えの症状がない稀なケースのため、今も仕事ができています。こんな私と同じ立場でブログをやっている人はあまり多くはないと思われます。だからこそ書かなければならないことがあります。

相模原殺傷事件の犯人が送った手紙には「障害者は不幸を作ることしかできません。」と書かれていたそうです。

数年前、私が病気と無縁であったころ、正直、障がい者は邪魔な存在でした。足手まといにしかならない存在であり、この世の中において必要性が見出せませんでした。必要のないものは捨てればいいと思っていました。

当時の私は自分以外の他者の命を大事にしていませんでした。他人の命は物扱いでした。当時の私は人間性が欠落していました。昔の私はこの犯人と似たような存在だったと思います。

そんな私が病気になり、自分が障がい者になると分かった時、人生が一変しました。自分自身が足手まといの存在になってしまったと思ったからです。

私の体が障がい者に近づくにつれて、私をとりまく環境も、私の考え方も大きく変わりました。

私は自分が弱者になるにつれ、他者を必要とし、大事にすることを覚えました。そして、他者を大事にすることが、本当の強さであることを知りました。本当の強さは肉体の強さではなく、心の強さであり、他者を思いやる心です。

他者を尊敬し、褒めることができる人こそ、『幸福を作る存在』なのではないでしょうか?

だから、「障害者は不幸を作ることしかできません。」と相模原殺傷事件の犯人は考えているようですが、この考え方には首をかしげます。物事の味方が悪い方に向いてしまったのだと思います。

嫌いな物を減らすのではなく、好きな物を増やすという発想ができなかったのでしょう。あの行動力を別の方に向けられなかったのが残念で仕方がないです。

障がい者だけが、不幸を作っているわけではありません。健常者として生活している人たちの中にも不幸を作っている人はいます。

今回の犯人の見た目は健常者だったと思いますが、このような事件を起こしたことから、彼こそが『不幸を作る存在』だったのではないでしょうか?

障がい者は確かに、人の助けが必要であり、健常者の方に面倒をかけます。しかし、それは健常者の方も同じだと思います。誰の助けもなく生きていける人はいません。

『幸福を作る存在』か『不幸を作る存在』なのかは、障がい者だから、健常者だからは関係ないと思います。

人は等しく、老化し、病気になり、死にます。

障がい者を差別しないで下さい。

どんな人も年を取り、程度の差はあれ介護が必要な存在になります。明日は我が身です。

一人一人の力は小さいです。しかし、今はこうやってブログという形で自分の意見を述べられる時代になりました。

みなさんが賛同し拡散してくだされば、社会は変わるかもしれません。

将来の自分の首を絞めるような社会にならないように一緒に社会を変えませんか?

私はみなさんの善意を信じています。

(2016年7月27日「ロゴスエモ」より転載)

 

 

 


※役立たず、税金の無駄遣いと、共に生きることを拒否する時代/拒否した時代=T4作戦:ユダヤ人大虐殺の“リハーサルとなったドイツ人障害者達の殺害

2016-08-02 17:27:27 | ネトウヨ、右翼、国家主義

 ※役立たず、税金の無駄遣いと、
共に生きることを拒否する時代、拒否した時代

 

安倍政権登場以来、障がい者家族にとって恐れていたことが~自民党のネット応援部隊が「植松容疑者の主張は間違ってない」「障がい者は死んだほうがいい」と障がい者ヘイト!

安楽死発言:小林よしのり「国民としての役割を果たし終えて、若者の迷惑にしかならない老人は安楽死するのが一番いい。」

安楽死発言:石原慎太郎、施設訪問後に知的障がい者に暴言「…ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする。」

相模原殺傷 尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授~今の日本を覆う「新自由主義的な人間観」と無縁ではない

動画】「障害者に安楽死を」はナチスの優生思想そのもの・障害者団体の代表が社会の風潮に懸念を表明

いのちの尊厳と社会的弱者に対する暖かい眼差しを(日本キリスト改革派千里山教会牧師 弓矢 健児)/「命、かけがえない存在」=障害者団体が声明-相模原事件

声明】津久井やまゆり園の事件について(障害のあるみなさんへ) 全国手をつなぐ育成会連合会

 

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それはホロコーストのリハーサルだった:T4作戦 障害者虐殺70年目の真実
 
ユダヤ人大虐殺に比べて、表だって語られてこなかった障害者の虐殺。

動画:クリックを!
それはホロコーストのリハーサルだった:T4作戦 障害者虐殺70年目の真実 - Dailymotion動画

てんかんのため、殺されたヘルガ・オルトレップさん(右)。
 

写真
ホロコーストより前、ガス室がつくられていた精神科病院の地下。


600万人以上のユダヤ人犠牲者を出し、「人類史上、最大の悲劇」として語り継がれてきたナチス・ドイツによるホロコースト。しかし、 ユダヤ人大虐殺の前段に、いわば“リハーサル”として、およそ20万人ものドイツ人の精神障害者や知的障害者、回復の見込みがないとされ た病人たちがガス室などで殺害されたことについては、表だって語られてこなかった。

 終戦から70年もの年月がたった今、ようやく事実に向き合う動きが始まっている。きっかけの一つは5年前、ドイツ精神医学精神療法神経学会が長年の沈黙を破り、過去に患者の殺害に大きく関わったとして謝罪したこと。学会は事実究明のために専門家を入れた国際委員会を設置、 いかにして医師たちが“自発的に”殺人に関わるようになったのかなどを報告書にまとめ、この秋発表する。
 番組では、こうした暗い歴史を背負う現場を、日本の障害者運動をリードしてきた藤井克徳さん(自身は視覚障害)が訪ねる。ホロコーストの “リハーサル”はどうして起きたのか、そして止めようとする人たちはいなかったのか・・・。 資料や遺族の証言などから、時空を超えていま、問いかけられていることを考える。

600万人以上のユダヤ人犠牲者を出し、「人類史上、最大の悲劇」として語り継がれてきたナチス・ドイツによるホロコースト。しかし、ユダヤ人大虐殺の前に、ドイツ人の精神障害者や知的障害者、回復の見込みがないとされた病人たちがガス室などで殺されていました。この大量殺害のノウハウがその後、ユダヤ人虐殺にも引き継がれ、いわば“リハーサル”のような役目を果たしたと考えられています。

ところがホロコーストに比べ、障害者虐殺は表だって語られてきませんでした。終戦から70年もの年月が経ったいま、ようやくドイツ精神医学精神療法神経学会の第三者調査員会が、自分たち精神科医がいかに殺人に関わるようになったのか報告書にまとめるなど、過去に向き合う動きが始まっています。

旅人は、日本障害者協議会代表の藤井克徳さん。戦後70年の節目、「障害者虐殺は狂気の時代のなせる極端な事態」と片付けるのではなく、歴史を知り、時空を超えていま私たちに問いかられていることは何なのか、一緒に考えます。


【ナチスから迫害された障害者たち】

シリーズ第1回から第3回まで。
(1)20万人の大虐殺はなせ?起きたのか
 http://dai.ly/x336fe9

(2)ある視覚障害者の抵抗
 http://dai.ly/x33j3tu

(3)命の選別を繰り返さないために
 http://dai.ly/x37uto1【それはホロコーストのリハーサルだった:T4作戦 障害者虐殺70年目の真実】総終編的なETV特集1時間もの
 http://dai.ly/x3cy1xd



『行われていることは障害者を救済する恵みの死ではなくたんなる殺害だ』
貧しい人 病人 非生産的人な人 
いて当たり前だ。
私たちは 他者から生産的であると
認められた時だけ生きる権利があるというのか
非生産的な市民を殺してもいいとの原則ができ
実行されるならば
我々が老いて弱った時 我々も殺されるだろう
非生産的な市民を殺してよいとするならば 
いま 弱者として標的にされている精神病者だけでなく
非生産的な人 病人 傷病兵 
仕事で体が不自由になった人すべて 
老いて弱った時の
私たち全てを殺すことが許されるだろう
(フォン・ガーレン司教)

司教の説教から20日後、1941年8月24日ヒットラーはT4作戦を中止する。
中止のきっかけは司教が公然と患者殺害の事実を述べ、それは法律上殺人だと正しく指摘したことにある。
市民として勇気を出して公然と声を上げれば政府の行動を阻止する余地があった。ナチスという政権も国民の感情を気にしていた。


【T4作戦】
T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は本部の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通4番地」を短縮したもので、第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である。一次資料にはE-Aktion(エー・アクツィオーン)〔E作戦〕、もしくはEu-Aktion(オイ・アクツィオン) の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると20万人以上が犠牲になったと見積もられている。(ウキペディア「T4作戦」)
 https://goo.gl/egJdnY


関連書籍
「ナチスによる精神障害者や知的障害者などの虐殺(「安楽死」)犠牲者の「記念と情報の場所」除幕」米沢 薫 2014/09/12 

『夜と霧の隅で』北 杜夫 1960 新潮社

『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』,Gallagher, Hugh G.(ヒュー・ギャラファー)1995, 現代書館

『第三帝国と安楽死――生きるに値しない生命の抹殺』,Klee, Ernst 1993 松下正明訳,批評社,

『ナチス・ドイツと聴覚障害者――断種と「安楽死」政策を検証する』,中西 喜久司 200210 文理閣

 http://tu-ta.at.webry.info/201409/article_2.html

【優生・ナチス・ドイツ】
 http://www.arsvi.com/d/eg-naz.htm

 

 

 


相模原事件一週間:堪えぬ献花 / 韓国で障がい者等が追悼 「障害者の生活の位置を呼び覚ました」

2016-08-02 17:03:00 | 福祉 高齢 障がい

絶えぬ献花、冥福祈る=「耐え難い」-現場施設・相模原事件1週間

障害者施設「津久井やまゆり園」に設けられた献花台で手を合わせる人たち=2日午前、相模原市

 
 相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」では、事件から1週間となった2日午前も献花に訪れる人が絶えず、犠牲者の冥福を祈っていた。

 正門脇に設けられた献花台に大人や子供ら数十人が次々と花を手向け、ユリや菊の花束が積み上がった。長女(22)に重度の知的障害があるという市内の主婦長田清美さん(48)は「自分に起きたことが分からず、声も上げられず亡くなった人がいるかと思うと胸が苦しい。障害者の家族は施設や周囲の助けに支えられている」と涙を浮かべて話した。
 やまゆり園のイベントに呼ばれて歌を歌ったことがあるという神奈川県厚木市の40代女性は「(イベントでは)入所者も職員も明るく、自分の方が元気をもらった。本当に耐え難い」と事件を非難。知的障害のある子供を育てる大阪府の30代女性は「事件には怒りしか感じない。障害者は工夫して意思疎通を図っている」と話し、手を合わせた。
 3人の子供を連れて献花した40代女性は「障害者も健常者も一緒に生きていると子供に伝えたかった」と話した。
 施設には警察車両が出入りし、正門には警察官が立って周辺を警戒していた。林文子横浜市長も献花に訪れ、「ただ冥福をお祈りした」と語った。(2016/08/02-12:29)

 

 

 

日本障者施設「集団殺人」に韓国障碍界「障害者の生活の位置を呼び覚ました」

ソウル市庁前に焼香所設置して哀悼
「障害者施設での人権蹂躙を思い出させる」と怒り

登録日[2016年07月29日19時05分] カン・ヘミン記者

 

ソウル市庁前に日本の障害者施設犠牲者を悼む焼香所が設置された。パク・キョンソク全障連常任共同代表が哀悼を表わしている。

 

ソウル市庁前に日本の神奈川県にある障害者施設の犠牲者を悼む焼香所が設置された。 全国障害者差別撤廃(以下、全障連)とアジア太平洋障害フォーラム(Asia Pacific Disability Forum、以下APDF)は、 日本の障害者施設で起きた「集団殺人」に哀悼を伝えた。

7月26日午前2時30分頃、日本の神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に一人の男性が乱入し、 凶器を振り回して19人が死亡し、26人が重傷を負う惨劇が発生した。 この男性は26歳の青年、植松聖で、事件が発生した施設で過去3年以上働き今年2月に解雇された。 現地の言論は彼が以前も周辺の従事者らに 「障害者はいっそ死んだ方が家族にとって楽だ」など、障害者に対する嫌悪発言をして問題になったと伝えた。 彼は2月、大島理森衆議院議長に手紙を渡そうと試みた。 手紙には「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」と記されていた。 今回の事件が伝えられ、韓国・日本の障害界は相次いで声明を発表し、少数者嫌悪犯罪に対応する契機にすべきだと声を高めた。

特に全障連は27日に発表した声明で 「容疑者を生んだ社会的環境に注目しなければならない」と強調した。 彼らは「韓国よりも比較的障害者福祉が良好な日本社会でも、 障害者を非障害者より劣る存在、家族にとって荷物になる存在、大量に施設に集めて保護すべき存在として見る社会的観点が存在していることが分かる」とし 「障害者という社会的少数者を同等な存在ではなく、低い存在として扱う社会の中で、 障害者を嫌悪し、いっそ殺すべきだとして極端な行為を犯した怪物が登場した」と今回の事件を解釈した。

容疑者が犯罪を行った理由、つまり「障害者に対する誤った認識」について調べれば、 様態が違うだけで、これは韓国社会にもおなじみの姿だ。 毎日のように報道される障害者収容施設問題がそうだ。 最近、ソウル市だけでインガン院、ソンジョン院、マリスタの家で恐ろしい人権蹂躙事件が発生した。 全国的に見ればさらに深刻だ。 最近、南原の平和の家では従事者が障害者居住者に日常的に加えた暴行が暴露され、 仁川のひまわり施設では従事者により居住者2人が死亡した。 だから韓国の障害界は日本で発生した悲劇的事件は、韓国社会で起きている障害者施設問題と大きく違わないと指摘する。

焼香所設置後、全国障害者差別撤廃とAPDF(Asia Pacific Disability Forum)は日本の障害者施設で起きた集団殺人に哀悼を示し、障害者への嫌悪に始まった今回の事件は日本だけの問題ではないと明らかにした。

 

これについて全障連などは7月29日午後3時、 ソウル市庁前で焼香所を設置してこうした問題を知らせ、 犠牲者の冥福を祈った。

障害と人権足の裏行動のチョ・アラ活動家は 「なぜそこにはそれほど多くの人が収容されていたのかから問わなければならない」と話した。 事件が発生した「津久井やまゆり園」の施設には、 成人の知的障害者149人が暮らしていた。

チョ活動家は 「容疑者は障害者に暴行して解雇されたという。 施設の中の障害者は死ぬまで毎日悪口を聞かされ、自分の無価値に対する言葉を聞かなければならなかった」とし 「その多くの瞬間に向き合いながら、彼らは逃げることができなかった。 私たちはそれに注目しなければならない」と明らかにした。 物理的な死だけでなく、日常的に残酷な「人格殺人」が行われる所が施設だった。

チョ活動家は 「韓国には施設が1400か所、3万1000人が施設で暮らしている。 しかしこれは公式の数字でしかない」とし 「山の中にある不法施設、修道院で暮らす人の数は把握もできない。 人が死に追い込まれる過程も分からない」と話した。

チョ活動家は 「今『殺害した奴はあそこ(施設)で暮らさなければならない』というのがインターネットの『ベスト コメント』だ。 多くの人々が施設がどんな所なのかをすでによく知っている」とし 「それでも多くの人々が障害者に対して施設を薦めている。 誰も今回の殺害の責任を避けられない。 私たちはなぜ施設が存在して、そこで人が暮らさなければならないのかを省察しなければならない」と強調した。

障害者を「使い道のない存在」と見る視線は、施設の外にも存在する。 障害と女性想像行動マシルのキム・グァンイ代表は、 以前手動車椅子に乗っていた時に体験した恐怖を話した。

「夜に手動車椅子に乗って行くと、突然、車椅子が後に引かれて動いた。 酒に酔った男が何も言わず押したのだ。 一瞬恐れが押し寄せたが、腕に力を入れて叫んだ。 男が『バカ女』とののしって行った。 しかし罵声よりその人が行ってしまったことは、とても幸いだった。 なぜこんな社会になったのか。」

こうした恐ろしいことは障害者、特に障害女性にはおなじみだった。 キム代表は地下鉄で障害女性の頭に唾を吐き、 「あんなのに何の人権があるか」という言葉を聞いた周辺の同僚の話も伝えた。 キム代表は惨憺とした心境で「安全な社会を要求する」と話した。

追慕祭に参加した人々.

 

そのように、今回の事件は障害者自身が障害者としての社会的位置をまた呼び覚ました事件だった。 全障連のパク・キョンソク常任共同代表は 「この死は私の人生がどこにあるのかを教えた」とし 「数万人の重症障害者が大規模施設で自己主張もできなくなっているのに、 韓国社会はそれを福祉、奉仕、愛だと言う。 障害者の生活の位置はどこなのか。 殺処分されなければならない犬・豚だった」と怒った。

パク代表は「しかし、私たちの人生は殺処分されなければならない犬・豚ではないということを闘争で知らせていきたい」とし 「今回の事件は、遠い日本で偶然、ひとりの逸脱によって起きた問題ではなく、 この社会構造の問題だということをはっきりと知って闘争していこう」という決心を伝えた。

記者会見後、彼らは脱施設権利宣言の履行と脱施設5か年計画に合わせた予算編成などの要求を含む 「ソウル市脱施設要求」をソウル市に渡した。 彼らは午後7時にはソウル市庁焼香所の前で慰霊祭を続ける計画だ。

韓国の障害者活動家が日本の障害者施設犠牲者の冥福を祈り黙祷している。

 

原文(ビーマイナー)

翻訳/文責:安田(ゆ)

 

 

 


「このままでは死者がでる!」 沖縄・高江で見た国家権力によるむき出しの暴力 〔dot. 2016.8.1〕

2016-08-02 16:18:21 | 沖縄

 

http://dot.asahi.com/dot/2016072900329.htmlより転載

「このままでは死者がでる!」 沖縄・高江で見た国家権力によるむき出しの暴力

by 安田浩一 (更新 2016/8/ 1 16:00)
国家権力の圧倒的な力を前に、抗議行動の中止を決断した山城博治氏(撮影/安田浩一)

国家権力の圧倒的な力を前に、抗議行動の中止を決断した山城博治氏(撮影/安田浩一)

怒声と悲鳴のなか、機動隊員に次々と排除されていく市民(撮影/安田浩一)

怒声と悲鳴のなか、機動隊員に次々と排除されていく市民(撮影/安田浩一)

全国各地から沖縄・高江に派遣された機動隊員(撮影/安田浩一)

全国各地から沖縄・高江に派遣された機動隊員(撮影/安田浩一)

沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか

安田浩一著
定価:1,512円(税込)

 

 

 ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設問題に揺れる東村高江は、沖縄県の北部、やんばるとよばれる亜熱帯森林のなかにある約150人の住民が暮らす小さな集落だ。高江は米軍北部訓練場の真横に位置しており、現在でも、昼夜問わず毎日のようにヘリが飛んでいる。

 そんな小さな集落に、さらに6つのヘリパッドを建設するということが、どういうことなのか分かるだろうか。「高江に人が住めなくなる!」と考えた住民たちは、自分たちの生活を守るために、抗議活動を始めた。

 なぜ国は、沖縄にばかり苦しみを背負わせるのか? 『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)の筆者である、ジャーナリストの安田浩一が現地を取材。そこで目にした、国家権力によるむき出しの暴力とは。そして、メディアに求められる「役割」、問われる「立ち位置」とは。

*  *  *
 1995年、沖縄県内で米兵による少女暴行事件が起きたことで、日米両政府は米軍基地の整理縮小、一部返還を行うことで合意した。しかし、両政府が合意したのは無条件の「返還」ではなく、代替地への移設という条件を伴うものだった。

 たとえば普天間飛行場の返還を理由として、辺野古新基地建設が進められようとしているのと同じように、本島北部の「米軍北部訓練場」も高江に6カ所のヘリパッドを新たに建設することが交換条件となっていた。

 高江でも地域の意向を無視するかのように工事は進められたが、一部住民によって建設反対運動が進められるなか、工事は一時中断させられた。ところが、参院選が終わった直後、国は工事再開の動きをみせたのである。

 そして、国はついに高江のヘリパッド建設工事を強行した。

 7月22日早朝。「排除!」のかけ声とともに、全国各地から派遣された機動隊員がいっせいに、抵抗する市民に襲い掛かった。薄明かりのなか、怒声と悲鳴が響き渡る。現地で取材していた私が目にしたのは、国家権力によるむき出しの暴力だった。

「なぜ、沖縄ばかりがこんな目にあうの」

 泣きながら抗議する女性を、機動隊員は柔道の技をかけるように押し倒した。地面に組み伏せられた者もいる。粗大ごみを扱うように、座り込んでいるところを4人がかりで放り出された者もいた。

「もういい。もう限界だ。このままでは死者が出る。もうやめてくれ!」

 抗議行動を率いてきた沖縄平和運動センターの山城博治議長が叫んだ。機動隊員によってびりびりに引き裂かれたシャツの袖から陽に焼けた腕を突き出し、「やめろ、やめてくれ」と繰り返す。

 

 <関連>

じんしろ‏@Jin46o 2016年8月2日 東京 千代田区

 

高江緊急集会@参院会館入りきれないくらいの人たちが集まっています…!!
こんなに集まってる集会、初めて見た…

 

 

【標的の村】沖縄・高江・・・N1前、戒厳令だった。 凄まじい安倍政府の暴力。

必ず見て下さい!★動画【標的の村】沖縄・高江~普通の生活のために、戦わないといけないという沖縄の姿を広く知ってほしい。

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