異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

飛び立つ日の特攻隊員の姿は / SEALDs本当にありがとう。「特攻の無念重ね涙」

2016-08-15 21:15:42 | 原爆 核問題 

2016.8.15


8 時間8 時間前

朝日新聞(8/15付)

天声人語:特攻機の整備兵だった老人が語る… 飛び立つ日の特攻隊員の姿。失神する、失禁する、泣きわめく…。

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Mighty Jack@Mightyjack1 4 時間4 時間前

亡き父から同様の話を聞いた。
「明日出撃」と聞くと、端から見てもみるみる顔色が真っ青になったと。
前夜、赤線で泥酔し暴れるものもいた。憲兵がやってきても「特攻隊」と聞くとそのまま帰った。
そして、最後は覚醒剤を使った、と。

 

 彼らが出て来た事だけが一筋の光だなとよく親戚などと話ししました。
若い彼らに頼ってはいけないが、SEALDs本当にありがとう。
特攻隊の予科練の人の投書の通り、きっと空の上から見て喜んでおられたと思う。

 


映画『野火』 アンコール上映…これまでの戦争映画と全く異なる「戦争」の実態を描く

2016-08-15 17:49:59 | 平和 戦争 自衛隊

http://nobi-movie.com/

映画『野火』

  <!-- 映画『野火』 Fires on the Plain 予告編  -->

イントロダクション

第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。
日本軍の敗戦が色濃くなった中、田村一等兵(塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされる。

しかし負傷兵だらけで食料も困窮している最中、少ない食料しか持ち合わせていない田村は早々に追い出され、ふたたび戻った部隊からも入隊を拒否される。そしてはてしない原野を彷徨うことになるのだった。

空腹と孤独、そして容赦なく照りつける太陽の熱さと戦いながら、田村が見たものは・・・

 

 

大岡昇平さんが小説にした、第二次世界大戦フィリピン戦線における日本軍の苦しい彷徨いを映画にしました。50年前に市川崑さんがやはりすばらしい映画にしていますが、私の『野火』はそのリメイクではなく、あくまで原作から感じたものを映画にしたものです。初めて読んだのは高校生のときですが、本当の戦場にいるような恐ろしさがあり頭から離れませんでした。

30歳をすぎ本格的に映画にしようと動き始めましたが、規模も大きく中々現実的にはなりませんでした。さらに歳月が流れ、今から10年前に、戦場に行った方々が80歳を越えたときに強い焦りの気持ちが起こりました、その方々のお話だけでも聞いておかなければとインタビューを始めました。しかしそれでも映画化は簡単には進みませんでした。そして、今、実際に戦争の痛みを知る人がいよいよ少なくなるにつれ、また戦争をしようとする動きが起こっているような気がしてなりません。今作らなければもうこの先作るチャンスはないかもしれない。また作るのは今しかないと思い、お金はありませんでしたが、多くの力強い協力を得て完成に至りました。

映画は一定の思想を押し付けるものではありません。感じ方は自由です。しかし、戦争体験者の肉声を体にしみ込ませ反映させたこの映画を、今の若い人をはじめ少しでも多くの方に見てもらい、いろいろなことを感じてもらいたいと思いました。そして議論の場に使っていただけたら幸いです。

塚本晋也

 
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『野火』

公式サイト

(C)SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

『野火』 戦後71年アンコール上映劇場は、以下の通り。

【関東地区】

東京(渋谷) ユーロスペース   8/15のみ

東京(立川) シネマシティ  8/13のみ

東京(池袋) 新文芸座   8/21のみ

神奈川(横浜) シネマ ジャック&ベティ 8/11のみ

神奈川(横浜) 横浜市西公会堂  8/20のみ

神奈川(厚木) アミューあつぎ映画.comシネマ 8/13~8/26

埼玉県(川越) 川越スカラ座  8/13~8/19

埼玉県(深谷) 深谷シネマ   8/21~8/27

千葉県(柏) キネマ旬報シアター   8/13~8/26

群馬(高崎) シネマテークたかさき  8/12~(未定)

【関西地区】 

愛知(名古屋) シネマスコーレ  8/15のみ

新潟(上越) 高田世界館   8/6~8/10

【関西地区】 

大阪(南) シネ・ヌーヴォX    8/6~8/19 

大阪(北) シアターセブン  8/13~8/26

京都  京都シネマ   9/10~9/16

兵庫  塚口サンサン劇場  8/6~8/19

兵庫  神戸朝日ホール  8/19~8/20

兵庫  豊岡劇場   9/10~9/16

愛媛  シネルナティック  8/23~

【九州地区】

熊本  Denkikan   8/18のみ

鹿児島 ガーデンズシネマ  8/17のみ

【東北地区】

宮城  フォーラム仙台   9/2~9/9

盛岡  フォーラム盛岡   9/2のみ

山形  フォーラム山形   9/3のみ

福島  フォーラム福島   9/3のみ

 

 

 

 


吉永小百合が「戦争反対を言えない空気」に危機感を表明し「憲法9条は絶対に変えさせない」と戦闘宣言〔リテラ 2016.8.15〕

2016-08-15 15:07:44 | 平和 戦争 自衛隊

http://lite-ra.com/2016/08/post-2497.htmlより転載

吉永小百合が「戦争反対を言えない空気」に危機感を表明し「憲法9条は絶対に変えさせない」と戦闘宣言

2016.08.15
yoshinagasayuri_160815.jpg
TBSラジオ『今晩は吉永小百合です』公式サイトより


 日本を代表する女優・吉永小百合が、71度目の終戦記念日を直前に控えて、反戦と平和、そして憲法9条への想いを続けて発言し、話題になっている。

 たとえば8月7日放映の冠ラジオ番組『今晩は 吉永小百合です』(TBSラジオ)では、ゲストに昨年の安保法批判で『NEWS23』(TBS)を降板させられた岸井格成氏を迎えて改憲問題に言及。岸井氏が“先の戦争の反省の象徴こそが憲法9条だ”と、改憲により戦前に逆戻りする危機感を募らせると、吉永もまた「憲法9条はバイブルのように大切なもの。絶対に変えさせるわけにはいきません」と護憲への強い意思を語った。

 だが、最近の吉永が最も危惧しているのは、その「護憲」「反戦平和」を口にすることすら難しくなっているという、時代の空気感だ。現在発売中の「女性自身」(光文社)8月23・30日合併号に、吉永と政治思想学者・姜尚中氏の対談が掲載されている。タイトルは「みんな、声をあげて! 命が押し潰される前に」。冒頭、吉永は自身のこんな体験を語っている。

「私は若いころ、母に『なぜ戦争は起こったの? 反対はできなかったの?』と質問したことがあるのです。
 そしたら母は、ひと言『言えなかったのよ……』って。言えないってどういうことなんだろうと、その時には理解できなかった。けれど最近、母の言っていた意味がわかります。今の世の中を見ていると息苦しい感じがして」

 たしかに、吉永の言う「世の中の息苦しい感じ」は、確実に戦前のそれを彷彿とさせるものだ。それは、吉永が身を置く表現芸術の世界にも浸透している。この8月、東京・東池袋の新文芸坐では「反戦・反核映画祭」と題して、21日までの期間中、戦争や原爆の実態を描いた日本映画約30本を上映するが、劇場支配人はマスコミの取材に対し「反戦・反核という言葉を使うことにも勇気がいるような、嫌なムードになってきています」と語っている(中日新聞7月19日付)。

「反戦・反核映画祭」では、7日に吉永の出演作『愛と死の記録』と『母と暮せば』の2本も上映された。1966年公開の『愛と死の記録』は、幼いころに被爆し、その後原爆症を発病して絶望した男性と、彼を励ます女性との悲愛を描いた映画だ。

 こうした原爆をテーマとする作品を上映することすら「勇気がいる」と言われる状況について、吉永は前述の姜尚中氏との対談で支配人の談話を紹介しながら「そんな時代になったのか、と改めてショックでした」と心境を吐露。姜尚中氏も「政治や平和を口にする人は、特別な主義主張を持った人ではないかと思われてしまう。言論の自由があるのに、政府に反対の意志を示すようなことを言ってはいけないのではないかと」と応えている。

 まさに2人の言う通りだろう。いま、日本が確実に“自由に平和への気持ちすら出せない国”になっているのは事実だ。一昨日、本サイトでもお伝えしたように、長崎の平和祈念式典では参列席から「改憲反対」と声を上げた男性が警察に連行された。ほかにも、昨年頃から「憲法9条」と記されたTシャツやバッジを着用しているだけで警察から詰問されたり、公共空間から排除されるなど、まるで治安維持法や特高警察が幅をきかせる戦前のような“事件”が連続して起きている。

 そして、この空気を作り出しているのは、間違いなく安倍政権だ。たとえば先月、自民党はホームページ上に「学校教育における政治的中立性についての実態調査」なる“密告フォーム”を設け、教員が「子供たちを戦争に送るな」と生徒たちに言うことを“偏向教育”とし、取り締まりに動いた。自民党はこの“密告フォーム”に寄せられた情報を警察当局に提供する考えまで示している。

 つまり、安倍政権は、教員が平和を訴えるという当たり前のことすら、警察ぐるみで糾弾しはじめたのだ。

 さらに最近では、奈良県奈良市で毎年開かれる「平和のための奈良市戦争展」に対し、市側が例年行ってきた「後援」を取り消すという事態も起きている。その理由は「米軍『NO』などと記した挿絵があり教育的中立性が順守されない」という信じがたいもの。沖縄の在日米軍問題は、先の戦争の経験と直結する日本の歴史問題だ。それが「教育的中立性」の名のもと“偏向”とされるのも、明らかに安倍政権による教育統制の影響が大きい。

 しかも深刻なのは、こうした政府与党や自治体が主導する“反戦平和への締め付け”に、少なからぬ国民が同調していることだ。たとえば、芸能人やアーティストなどの著名人が少しでも政治的発言、とりわけ安倍政権を批判しようものなら、ネットですぐさま炎上騒動が巻き起こり、血祭りにあげられる。それは、真摯に反戦平和を訴えている吉永が、ネット上では“在日”“反日女優”“売国芸能人”などという大バッシングに晒されるほどだ。

 しかし、吉永はこうした状況に怯まない。むしろ、反戦や平和、護憲を言いづらくする圧力があるからこそ、みんなで声をあげる必要性を訴えるのだ。

 7日、新文芸坐で行われたトークイベントで、吉永はこのように語っている。

「私がいくつまで元気でいられるか分かりませんけれど、80歳になったときには戦後80年、90になったら戦後90年、100歳になったら戦後100年と、“戦後”が続いてほしい。そのためには、私たちが『戦争は、嫌だ!!』としっかり言わないといけない。そう思っている方たちは声に出して!と願っています」

 1945年生まれの吉永が、自身の年齢と重ね合わせて“戦後”という歳月を強調するのは、おそらく「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍首相へのアンチテーゼだろう。そして、誰もが知る大女優である吉永が目線を下げずに「私たちが」と呼びかけるのは、「改憲してもさすがに戦争はしないだろう」とタカをくくっている多くの国民に対して、真剣に訴えかけているからに他ならない。

 自民党の改憲草案が目論むように、自衛隊が「国防軍」となれば、この国は戦後、初めての戦死者を出す。もちろん、人も殺す。だからこそ、吉永の言うように“私たち”みなが連帯して「戦争は嫌だ!!」と叫び続ける必要がある。将来、子どもたちに、いま私たちが生きている時代を“戦前”と呼ばせないためにも。
伊勢崎馨

 

 

 

 


8/15【SEALDs解散】** SEALDs 動画「TO BE」**SEALDsからの、最後のメッセージ

2016-08-15 13:42:43 | 案内 情報 デモ 集会 逮捕
 
This Emergency Action is over. But the Unfinished Project Must Go On.
 

http://sealdspost.com/tobe/

** SEALDs 「TO BE」**

<!-- SEALDs "TO BE"  -->

SEALDsからの、最後のメッセージ

2016年8月15日、戦後71年の節目をもって、SEALDsは解散します。

 私たちは、日本の自由と民主主義の伝統を守るために、
立憲主義・生活保障・安全保障の3分野で、明確な立場を表明し、
デモや街宣などの行動を起こしてきました。
とくに昨年の安保法制の強行採決に反対する国会前でのデモや、
今年7月10日に行われた参議院選挙に向けた野党共闘の実現、
市民参加型の選挙に向けた行動などを行ってきました。

 結果として、ほとんど不可能だと言われていたにもかかわらず、
野党共闘のもと、参議院選挙では32の1人区全てで野党統一候補が決まりました。
また、選挙の風景にも変化が起こりました。
昨年の夏、自発的にデモや勉強会などを自主的に行った市民たちを含め、
選対には多くの人々が積極的にボランティアとして参加しました。
これまで選挙に関わることの無かった人々が自ら応援演説に立ち、電話がけをし、
ポスターやフライヤーをデザインしてポスティングしたのです。
候補者自身も、市民との関わりの中で、
よりいっそう候補者としての自覚と責任を持つようになっていきました。

 しかし、当然ながら、私たちは選挙結果を含め、
これで十分だったとは思っていません。
改善すべき問題点は山のようにあります。
市民が立ち上げる政治は、ようやく始まったばかりです。
個人として路上に立つのと同じように、
「わたし」の声で、日常の目線から政治を語ること。
隣近所・家族・友人・恋人と政治について語り合うこと。
自分の選挙区の候補者に会いに行き、自ら選挙の景色を変えること。
こうした営みは日々行われるもので、一朝一夕に政治を変えるものではありません。
この動きを末永く、ねばりづよく続けていく必要があります。
その積み重ねは、長い時間をかけて社会に根をおろし、
じっくりと育ち、いずれは日本の自由と民主主義を守る盾となるはずです。

 あの戦争が終わってから、71年が経ちます。
私たちは、立憲主義を尊重する政治を求めます。
私たちは、持続可能で健全な成長と公正な分配によって、
人々の生活の保障を実現する政治を求めます。
私たちは、対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策を求めます。
そして私たちは、戦後71年でつくりあげられてきた、
この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。

 SEALDsは解散します。
しかし終わったというのなら、また始めましょう。
始めるのは私であり、あなたです。
何度でも反復しましょう。
人類の多年にわたる自由獲得の努力から学びながら。
孤独に思考し、判断し、共に行動し、
そして戦後100年を迎え、
祝いの鐘を鳴らしましょう。

 

 

 

 


【戦争体験の継承を】終戦記念日 ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造(毎日新聞 2016.8.14)

2016-08-15 12:58:05 | 平和 戦争 自衛隊

毎日新聞http://mainichi.jp/articles/20160815/k00/00m/040/123000cより転載

終戦記念日

ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造

大久野島(写真奥)での体験を振り返り「戦争は一般市民も加害者にしてしまう」と話す岡田さん=広島県三原市で、高田房二郎撮影
 
 
 

 原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】

 広島県三原市の元美術教諭、岡田黎子(れいこ)さん(86)は、高等女学校に通っていた1944年秋、瀬戸内海の大久野島(同県竹原市)へ動員学徒として派遣された。旧陸軍は29年からこの島で、国際法で禁じられた毒ガスを極秘裏に製造。日中戦争で生産量は急増し、最盛期には5000人以上が島で働いたとされる。

 「ここで見聞きしたことは、家族にも言ってはいけない」。軍人からそう厳命され、何を作っているかは一切知らされなかった。

 ある時、空襲時に使うようにと配られたガスマスクを試着した生徒が「顔がひりひりする」と騒ぎに。周辺の松は枯れ、工場の排煙を吸うと頭痛がした。そんな話から「毒ガスを作っているらしい」とうわさになった。不安を感じつつ、薬品が入ったドラム缶運びやガスを詰める筒作りに追われた。

 45年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わり動員は解除に。しかし数日後、原子爆弾で壊滅的被害を受けた広島へ救護に行くよう校長命令が下り、同県廿日市市の救護所で、食事作りにあたった。被爆者たちが次々に息を引き取り、配った食事が枕元に手つかずのまま残された。

 約2週間で任務を終えると、原因不明の発熱や下痢、出血が続いた。原爆症だった。体調の波は長く岡田さんを苦しめた。

 戦後、京都の大学を出て教壇に立った岡田さんは、積極的に戦争体験を語った。

 昭和が終わる頃、島での体験をまとめた画集を発行。制作の過程で、毒ガス兵器が中国で被害を与えたことを知り、中国の大学や戦争資料館などに製造に携わった者として謝罪の手紙を添えて送った。

 これまでに3冊の画集に体験をつづり、平和集会などで講演を重ねてきた。島での体験を描いた絵は島内にある毒ガス資料館で公開されている。

 「広島は原爆の被害が強調されがちだが、私たちには戦争に加担した事実もある。戦争は被害、加害の両面を一般市民にもたらすということを知ってもらい、平和が続くよう話し続けたい」

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<関連>

大久野島毒ガス資料館紹介 - 竹原市

      
戦争の悲惨さを  平和の尊さを  生命の重さを

毒ガス資料館
大久野島毒ガス資料館

【所在地】
広島県竹原市忠海町大久野島5491番地         

 
【大久野島の過去】 
 大久野島は広島県竹原市忠海町の沖合い3kmに位置し,数戸の農家が耕作を続ける島でした。昭和2年には,島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として管理下となりました。昭和4年には,東京第二陸軍造兵廠火工敞忠海兵器製造所による毒ガスの製造が始まり,昭和20年まで続けられていました。
 日本軍が毒ガスを製造していたということは,昭和59年(1984年)まで日本ではほとんど知られていませんでした。化学戦の実態は慎重に秘匿され,旧軍関係者以外の日本人はほとんど事実を知らなかったのです。昭和59年(1984年)に日本の化学戦実施に関する報道がされて以来,日本の毒ガス兵器の研究開発は旧陸軍化学研究所(東京),大量製造したのは大久野島(広島県竹原市),充填は曽根(福岡県北九州市),化学戦の運用、訓練には旧陸軍習志野学校,といった日本の化学兵器の構図(陸軍習志野学校史)が明らかにされています。

【大久野島の現在】
 大久野島は休暇村として開発され国民の保養地となり,往時を偲ばせるものはわずかに砲台跡・発電場・毒ガス貯蔵庫など数少なくなっています。この島で毒ガスを製造した過程で多くの犠牲者を出すに至ったこと,この痛ましい事実を今に伝えるため,関係各位からよせられた当時の資料を展示して毒ガス製造の悲惨さを訴え,毒ガス兵器をこの地から絶滅させ,平和な世界の確立を希求しています。
大久野島毒ガス資料館は,広島県,関係市町並びに障害者団体のご理解とご協力により昭和63年に建設されたものです。近くには,大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑が昭和60年(1985年)に建立され,安らかな永眠を祈願すると共に,恒久平和を念願しています。

電話番号 0846−26−3036(FAX兼用)
交通案内 広島空港から忠海港まで車で約45分・山陽自動車道河内ICから車で約40分・JR呉線忠海駅から徒歩約5分,忠海港から船で約15分。大三島から船で約20分。
開館時間 午前9時〜午後4時30分(入館は4時まで)
休館日 年末年始(12月29日〜1月3日)※そのほか、臨時に休館することがあります。
資料館館内 展示室 (工員手帳,男子・女子用作業服,液体毒ガス製造装置(冷却器部分),大あか筒の外筒,パネル写真外)
研修室 (DVD映像 1.証言でつづる大野島 2.おおくのしまは語る外)
料 金 19歳以上一般100円,団体(20名以上)80円
19歳未満一般 50円,団体(20名以上)40円