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【新刊紹介】戦争の記憶を留めておきたい――黒柳徹子氏と田原総一朗氏が「戦争体験」と「戦争責任」を語る『トットちゃんとソウくんの戦争』

2016-08-13 19:11:42 | 平和 戦争 自衛隊

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戦争の記憶を留めておきたい――黒柳徹子氏と田原総一朗氏が「戦争体験」と「戦争責任」を語る『トットちゃんとソウくんの戦争』本日発売

2016年7月14日 16時38分
      「眠いし、寒いし、おなかがすいた」

 

      太平洋戦争が始まったとき、黒柳徹子、小学2年生。田原総一朗、小学1年生。

 

    2人がはじめて「戦争体験」と「戦争責任」を語りあった。

 

 


戦争の記憶を留めておきたい――黒柳徹子氏と田原総一朗氏の、強い思いが1冊にまとまった。タイトルは『トットちゃんとソウくんの戦争』。改憲勢力が議席が3分の2を占めることになった参議院議員選挙投票日の翌日、2人が語ったことは――。                        *

田原 この本をつくるにあたり、去年の終わりぐらいから、おたがいの戦争体験を話してきましたが、僕には黒柳さんの「スルメ味の戦争責任」という言葉が、とても印象に残っています。

黒柳 私が通っていた小学校は、東京の自由が丘にありました。駅前の広場では、戦地に赴く兵隊さんが毎日のように見送られ、出征していったんですが、子どもがそこに参加すると、焼いたスルメの脚を1本もらえたんです。いつもお腹をすかしていた私は、そのスルメ欲しさに、みんなと一緒に大きな声で「ばんざーい!」と叫びながら日の丸の小旗を振り、何人もの兵隊さんを戦地に送りだしました。戦争が終わり、それからずいぶん時が経ったある日、私はふと考えました。私が兵隊さんを見送ったのは、スルメの脚が欲しかったからですが、兵隊さんたちは「見送ってくれるこの子たちのために戦うんだ」と言いきかせて戦地に赴いたのでは、ということに思い至ったんです。兵隊さんが戦死したなら、責任の一端は私にもあるはずだし、私は兵隊さんの思いを裏切ったことにもなります。これは私の「戦争責任」というものではないだろうか、そう考えるようになりました。

田原 戦争中、僕はずっと「この戦争は正しい戦争だ。アメリカなどの悪い国々をやっつけて、アジアの国々を独立させるために戦うんだ。みんなも大人になったら戦争に参加し、天皇陛下のために死になさい」と教えられていました。ところが戦争が終わって9月の新学期に学校に行くと、同じ教師から「あの戦争は悪い戦争だった。悪いことが書いてある教科書は、墨で黒く塗りつぶしなさい」と言われた。このとき感じた、大人の言うことだからといって簡単に信じてはいけないという思いは、その後の私の人生の原点になっています。正しい戦争なんて存在しない、そう確信しています。

黒柳 私たちは戦争を知っている最後の世代ですよね。「眠いし、寒いし、おなかがすいた」。私たちが小学生のときに体験した、配給や疎開や空襲などの戦争の記憶を、若い方たちにぜひ読んでいただきたいと思います。

                        *

『トットちゃんとソウくんの戦争』目次より――
まえがき スルメ味の戦争責任(黒柳徹子)
戦争のあしおと
・1933年東京に生まれた少女が見たもの(黒柳徹子)
・1934年彦根に生まれた少年が考えたこと(田原総一朗)
戦争の記憶
・トモエ学園と疎開先の日々(黒柳徹子)
・国民学校の日々(田原総一朗)
戦争とテレビ
・テレビに出ることは平和につながる(黒柳徹子)
・テレビにできることがある(田原総一朗)
あとがき 「正しい戦争」なんて存在しない(田原総一朗)

                        *

【黒柳徹子=トットちゃん】
東京都生まれ。俳優、司会者、エッセイスト。東洋音楽学校声学科卒業後、NHK専属のテレビ女優第1号として活躍。1981年に刊行された『窓ぎわのトットちゃん』(講談社)は国内だけで800万部を超える戦後最大のベストセラーになり、世界35ヵ国で翻訳されている。『徹子の部屋』(テレビ朝日)の放送は1万回を超え、同一の司会者によるテレビ番組の最多放送記録を更新中。1984年よりユニセフ親善大使となり、のべ37ヵ国を訪問し、飢餓、戦争、病気などで苦しむ子どもたちを支える活動を続けている。

【田原総一朗=ソウくん】
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。岩波映画製作所、東京12チャンネル(現テレビ東京)を経てフリーに。以後、活字と放送の世界で精力的に活動を続けている。現代史関係のおもな著書に、『日本の戦争』(小学館文庫)、『私が伝えたい日本現代史1934-1960』『同1960-2014』(ポプラ新書)など。児童書では『おじいちゃんが孫に語る戦争』(講談社)などの著書がある。深夜の討論番組『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)の司会は、1987年の第1回放送から務めている。

 

 

 


【動画】 元ひめゆり学徒講話 戦争体験を次の世代へ ( RBCニュース 2016/08/12)

2016-08-13 08:41:11 | 沖縄

 

 

2016/08/12 

元ひめゆり学徒の新崎さん 体験語る

 

 


【動画】「米最大の平和団体事務局長が辺野古と高江へ」 RBCニュース 2016/08/11

2016-08-13 08:09:37 | 沖縄

https://www.rbc.co.jp/news_rbc/%E7%B1%B3%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%9B%A3%E4%BD%93%E4%BA%8B%E5%8B%99%E5%B1%80%E9%95%B7%E3%81%8C%E8%BE%BA%E9%87%8E%E5%8F%A4%E3%81%A8%E9%AB%98%E6%B1%9F%E3%81%B8/

RBCニュース

2016/08/11 19:02 基地問題

米最大の平和団体事務局長が辺野古と高江へ

アメリカ最大の平和団体ピースアクションの事務局長が11日、アメリカ軍基地の建設に反対して抗議活動が続く名護市辺野古や東村高江を訪れました。

 普天間基地の移設先とされている名護市辺野古を訪れたのは、アメリカ最大の平和団体ピースアクションのジョン・レインウォーター事務局長です。
 レインウォーター氏は移設に反対してテントに座り込む人たちを前に、「あれだけの自然が破壊されて アメリカ軍基地が造られようとしていることに憤りを感じている」などと述べました。

 さらに、レインウォーター氏は、アメリカで沖縄の実態を報告し、草の根運動で働きかけていくことを約束しました。
 これに先立ちレインウォーター氏はヘリパッド建設への抗議活動が続く東村高江も訪れましたが、その高江では11日、警察車両の通行を妨害しようとした際、警察官に暴行を加えたとして、36歳の抗議行動の参加者が公務執行妨害の疑いで逮捕されました。
 先月22日にヘリパッド建設の工事が再開して以来、逮捕者が出るのははじめてのことです。

関連ニュース

 


「9条提案は幣原首相」 マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料/ 史料発見の東大名誉教授・堀尾輝久さんに聞く〔東京新聞2016.8.12〕

2016-08-13 01:16:00 | 憲法

東京新聞 TOKYO Webhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201608/CK2016081202000116.htmlより転載

「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料


 日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相(当時、以下同じ)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する「今の憲法は戦勝国の押しつけ」との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。 (安藤美由紀、北條香子)

 九条は、一九四六年一月二十四日に幣原首相とマッカーサーGHQ最高司令官が会談した結果生まれたとされるが、どちらが提案したかは両説がある。マッカーサーは米上院などで幣原首相の発案と証言しているが、「信用できない」とする識者もいる。

 堀尾氏は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。
 
高柳は「『九条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。

 堀尾氏は国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。今年一月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。

 マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。

 九条一項の戦争放棄は諸外国の憲法にもみられる。しかし、二項の戦力不保持と交戦権の否認は世界に類を見ない斬新な規定として評価されてきた。堀尾氏が見つけたマッカーサーから高柳に宛てた別の手紙では「本条は(中略)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したもの」とあり、堀尾氏は二項も含めて幣原の発案と推測する。

 改憲を目指す安倍晋三首相は「(今の憲法は)極めて短期間にGHQによって作られた」などと強調してきた。堀尾氏は「この書簡で、幣原発案を否定する理由はなくなった」と話す。

 <しではら・きじゅうろう> 1872~1951年。外交官から政界に転じ、大正から昭和初期にかけ外相を4度務めた。国際協調、軍縮路線で知られる。軍部独走を受けて政界を退いたが、終戦後の45年10月から半年余り首相に就き、現憲法の制定にかかわった。

 

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東京新聞 TOKYO Webhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201608/CK2016081202000136.htmlより転載

「9条提案は幣原首相」  史料発見の東大名誉教授・堀尾輝久さんに聞く

 

 憲法9条は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相が提案したという学説を補強する新たな史料を見つけた堀尾輝久・東大名誉教授に、発見の意義などを聞いた。 (北條香子、安藤美由紀)

 -なぜ、書簡を探したのか。

 「安倍政権は、戦争放棄の条文化を発意したのはマッカーサーという見解をベースに改憲を訴えている。マッカーサー連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官が高柳賢三・憲法調査会長の質問に文書で回答したのは知っていたが、何月何日に回答が来て、どういう文脈だったのか分かっておらず、往復書簡そのものを探し出そうと思った」

 -書簡発見の意義は。

 「マッカーサーは同じような証言を米上院や回想録でもしているが、質問に文書で明確に回答したこの書簡は、重みがある」

 -二項も、幣原の発案と考えていいのか。

 「一項だけでは(一九二八年に締結され戦争放棄を宣言した)パリ不戦条約そのもの。往復書簡の『九条は幣原首相の先見の明と英知』、幣原の帝国議会での『夢と考える人があるかもしれぬが、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚まし、後方から付いてくる』などの発言を考えると、二項も含めて幣原提案とみるのが正しいのではないか」

 -幣原がそうした提案をした社会的背景は。

 「日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な九条に結実したと考えていい」

 -今秋から国会の憲法審査会が動きだしそうだ。

 「『憲法は押しつけられた』という言い方もされてきたが、もはやそういう雰囲気で議論がなされるべきではない。世界に九条を広げる方向でこそ、検討しなければならない」

 

 <ほりお・てるひさ> 1933年生まれ。東大名誉教授、総合人間学会長。教育学、教育思想。東大教育学部長、日本教育学会長、日本教育法学会長などを歴任した。著書に「現代教育の思想と構造」「教育を拓く」など。

 <たかやなぎ・けんぞう> 1887~1967年。法学者。成蹊大学初代学長。専攻は英米法。22年に東大教授となり、東京裁判で日本側弁護団のリーダー格を務めたとされる。帝国議会貴族院議員として46年、憲法審議に関わった。57年に憲法調査会長に選ばれ、憲法の再検討に当たった。

 

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