異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

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8/21未明 【第1報】 経産省前・脱原発テント 未明に強制撤去 / 【続報】~ 「外に出たらマスコミがいた」

2016-08-21 21:54:41 | 労働 生活一般

http://tanakaryusaku.jp/2016/08/00014295より転載

【第1報】 経産省前・脱原発テント 未明に強制撤去 

東京地裁は経産省前の歩道を通行止めにし、撤去作業を進めていった。=21日午前4時44分頃、経産省前 撮影:筆者=

東京地裁は経産省前の歩道を通行止めにし、撤去作業を進めていった。=21日午前4時44分頃、経産省前 撮影:筆者=

 国はきょう未明、経産省前にあった脱原発テントを強制撤去した。

 ガードマン30人余りがテント周辺を固め、制服警察官が遠巻きに守るなか、東京地裁の執行官が午前3時30分頃、撤去作業に着手。

 脱原発テントがあった一角は、2時間余りで更地に近い状態となった。

 ~つづく~

 

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http://tanakaryusaku.jp/2016/08/00014300yoritennsaiより転載

【続報】脱原発テント、未明に強制撤去 「外に出たらマスコミがいた」

ガードマンが周囲を固めるなか、建設作業員がテントを解体していった。=21日午前4時52分、経産省前 撮影:筆者=

ガードマンが周囲を固めるなか、建設作業員がテントを解体していった。=21日午前4時52分、経産省前 撮影:筆者=

 原子力ムラの総本山とも言える経産省の一角に立っていた「脱原発テント」が、きょう未明、強制撤去された。

 テント宿直の男性(40代)によると午前3時40分頃、東京地裁の執行官がテントを予告なしに訪れ、紙きれを見せた。当時テントには5人の宿直者がいた。

 執行官は「今いる方、私物を持って出て下さい。10分ほどありますから」と告げた。

 テント宿直者たちが外に出るとガードマン30人余りが周囲を取り囲んでいた。制服警察官約20人は遠巻きにした。

 権力はマスコミを引き連れていた。警視庁記者クラブあるいは司法記者クラブへのリークであることは明らかだ。

 連れて来てもらったことへの恩返しなのか。マスコミは道路の中央分離帯から望遠レンズで撮影した。新聞テレビは政府と原子力ムラの広報機関であることが改めて明らかになった。

 東京地裁の執行官はテントの周囲を鉄柵で囲い、その内側にガードマンをびっしりと配備した。経産省前の歩道もガードマンで封鎖した。

 田中が鉄柵(テントまで約3m)に張り付いて撮影していると、執行官は5~6人がかりで暴力的に排除してきた。

 「天下の公道上なのに撮影できないのはおかしいではないか?」「執行中ですからお見せできません」・・・田中が撮影しようとすると執行官たちは手を広げて視界を遮った。

 押し問答が30分近く続いたところで警察のお出ましとなり、田中は道路の対岸に持って行かれた。

 着手から1時間もすると3張のテントは跡形もなくなった。テントの遺留品を詰めた段ボール箱がトラックまで次々とバケツリレーされていった。

「撮影はできません」。東京地裁の執行官は田中をカメラごと小突いて、現場から押し出そうとした。=21日午前4時57分、経産省前 撮影:筆者=

「撮影はできません」。東京地裁の執行官は田中をカメラごと小突いて、現場から押し出そうとした。=21日午前4時57分、経産省前 撮影:筆者=

 さらに30分後には ほうき でテント跡の地面を掃く光景も見られた。

 テントの宿直者たちは道路の対岸で強制撤去を見守った。「テント来訪者名簿」「日付のプラカード」「ツイキャス中継器材」などは持ち出した。田中がテントに忘れていたICレコーダーも奇跡的に含まれていた。

 国が強制撤去の日取りを日曜未明にしたのには思惑があった。2012年1月、時の民主党政権がテントを撤去しようとしたことがあった。

 ところが撤去期限の1月27日夕方、500人を超す市民が駆けつけてテントを守ったのだった。

 地下鉄も動かず、普通の人々がまだスヤスヤと眠っている午前3時30分であれば、思い通りにテントを始末できる ― 権力はこう考えたのであろう。

 原発事故が起きた2011年の9月11日、有志によって張られたテントは間もなく6年目を迎えるはずだった。

 テントの玄関を飾っていた「設置・1807日目」のプラカードは強制撤去で持って行かれた。

 テントの立ち退きを命じる裁判の判決が確定したのは7月28日。1ヵ月を待たずして判決の強制執行となった。

 沖縄・高江では7月22日、本土の機動隊500人が加勢して基地建設反対派のテントを強制撤去した。

 安倍政権は「やる」と言ったら、どんな強権的な手段を用いてでも実行する。

間もなくテントは跡形もなくなった。田中が強制撤去を撮影していると東京地裁の執行官たちが駆け寄ってきた。=21日午前5時01分、経産省前 撮影:筆者=

間もなくテントは跡形もなくなった。田中が強制撤去を撮影していると東京地裁の執行官たちが駆け寄ってきた。=21日午前5時01分、経産省前 撮影:筆者=

   ~終わり~

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8月15日、民族派青年が靖国に行かなかった理由 山口祐二郎(全日本憂国者連合会議・憂国我道会)インタビュー〔安田浩一ウエブマガジン〕

2016-08-21 21:46:37 | 戦時中性奴隷 慰安婦

「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

http://www.targma.jp/yasuda/2016/08/20/post518/より転載

8月15日、民族派青年が靖国に行かなかった理由 山口祐二郎(全日本憂国者連合会議・憂国我道会)インタビュー

靖国だけが祈りの場所じゃない」

 815日──。民族派を自認する彼にとっては特別な日だ。右翼団体に加入した2007年からの9年間、靖国神社への参拝を欠かしたことはなかった。
 だが、今年の終戦記念日を彼は自宅で過ごした。あえて靖国の喧騒から身を遠ざけた。
 一人で祈った。
「そうすべきだと思ったんです」
 山口祐二郎氏(30歳)の決断である。
 新右翼団体「統一戦線義勇軍」の元幹部だ。これまで右翼・民族派の道を歩んできた。2007年には「米国の傭兵」と化した自衛隊に憤慨し、防衛省に火炎瓶を投げ込んで逮捕されている。現在も「全日本憂国者連合会議」の議長にして、「憂国我道会」会長といった肩書を持つ。
 その山口氏が、靖国に行かなかった。
 理由を問う私に、彼はこう答えた。
「追悼は、それぞれの立場ですればよいと思う。靖国だけが祈りの場所じゃない。実際、靖国に合祀されることを拒む人もいる。そして何よりも、結果として靖国が戦争賛美の場所になってしまっていることは否定できません」
 慎重に言葉を運ぶ。普段とは違う、どこか思いつめたような表情が浮かんでいたのは、彼なりの覚悟があったからだろう。
 さらにこう続けた。
「やはり、韓国に出かけたことの意味は大きかった」
 彼のなかで何かが動いている。蠢いている。少しずつ、そして確実に変わっていくものがある。それを自覚したときに、毎夏の恒例だった靖国参拝を断念した。
 それほどまでに韓国行きの影響は大きかった。
 いったい、彼は何を見たのか。何を感じて、何を胸奥に抱えることになったのか。

 山口氏が韓国を訪ねたのは今月初旬のことである。初めての韓国だった。
 その少し前に日本国内で活動する慰安婦支援団体の関係者と話をする機会があり、その過程で山口氏のほうから韓国に行って元慰安婦に会いたいとの意向を伝えた。
「最近も、元慰安婦のおばあさんがひとり亡くなったと聞いたことがきっかけです」
 元慰安婦はいずれも高齢で、長い時間が残されているわけではない。いまのうちに、会えるときに、言葉を交わす機会があるときに、急いで韓国に行かなければ、と強く感じたという。

 彼は民族派団体の会長を務めているだけでなく、出会いと経験を滋養とする作家でもある。興味と関心に逆らうことはできない。それ以上に、ここ数年間、数多くの在日コリアンと接するなかで、慰安婦問題を自分なりにきちんととらえてみたいという思いがあった。
 よく知られているように、山口氏は差別集団と対峙するカウンターの一人でもある。
 民族派の立場から、在特会をはじめとする差別者集団の存在が許せなかった。人間を排除し、人と社会の尊厳を毀損するヘイトスピーチを容認することができなかった。だから彼は街頭で、差別者集団との闘いの前線に立ち続けている。

「そうしたなかで、多くの在日コリアンと接する機会を持ちました。単に知り合ったというだけでなく、同じ社会を生きる者として、その歴史的背景をも考えるようになりました。民族派という視点だけでは見えていなかった植民地支配の問題、そして慰安婦問題についても当然、僕のなかでは避けて通ることができなくなったのです」
 右翼の先輩のなかには慰安婦を「嘘つき」だと罵る者もいる。「ただの売春婦じゃないか」と突き放す者もいる。
 あるいは「戦争の被害者」として同情しつつも、あえてこの問題に触れることのない右翼関係者も少なくなかった。やっかいで、面倒で、右翼や民族派にとって、慰安婦という存在はけっして「寄り添う」対象ではなかったのだ。
 そこにあえて飛び込むのが彼らしいところである。
「僕は当事者の思いを抜きにして、この問題を語ることはできないと思っていたんです。だから、会いたいと思った。できることならば言葉を交わしてみたいと思った。そして僕なりに、いや、日本人の一人として、少なくとも慰安婦の女性を苦しめてきた歴史への反省を示したいと思いました」

(残り 2391文字/全文: 4006文字)

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