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<なぜ、ショック!> 新潟 泉田知事 10月の知事選に立候補せず / 撤退の表明(泉田 裕彦 2016.8.30)

2016-08-30 21:02:29 | 福島、原発

NHK  http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160830/k10010659321000.htmlより転載

新潟 泉田知事 10月の知事選に立候補せず

新潟 泉田知事 10月の知事選に立候補せず

ことし10月に行われる新潟県知事選挙に4期目を目指して立候補することを表明していた泉田裕彦知事は、新潟県が出資する第三セクターの子会社をめぐる地元新聞の報道を理由に立候補を取りやめることを30日、文書で明らかにしました。

これは、泉田知事が30日午後、文書で発表したものです。
この中で、泉田知事は新潟県が出資する第三セクターの子会社によるフェリーの購入をめぐって地元新聞が県に対して続けてきた批判的な報道によって正常な県政運営ができなくなっていると立候補を取りやめる理由を述べています。
泉田知事は新潟県加茂市出身の53歳。
経済産業省の課長補佐や岐阜県の局長などを務め、平成16年の知事選挙で初当選し当選直後に起きた新潟県中越地震の復興に向けて取り組んできました。
また泉田知事は東日本大震災のあと停止している東京電力柏崎刈羽原子力発電所の再稼働については、「福島第一原発の事故の検証なくしては運転再開の議論自体がありえない」として慎重な姿勢を示していました。
泉田知事は現在3期目で、任期満了に伴ってことし10月に行われる知事選挙に向け、2月の県議会で4期目を目指して立候補を表明していました。

新潟日報社「あすの紙面で明らかに」

新潟県が出資する第三セクターの子会社によるフェリーの購入について報道した地元の「新潟日報社」は「社としての見解はあすの紙面で明らかにします」というコメントを発表しました。

東京電力「申し上げる立場にない」

新潟県の泉田知事が知事選への立候補を取りやめることを明らかにしたことについて、東京電力は、「知事選については新潟県民のみなさまがお考えになることであり、当社として申し上げる立場にありません。引き続き柏崎刈羽原発の安全対策を着実に進め、県民のみなさまのご理解をいただけるよう努めてまいります」というコメントを出しました。

原発の安全確保に厳しい姿勢

泉田知事は、東京電力柏崎刈羽原子力発電所が立地する新潟県の知事として、原発の安全確保に厳しい姿勢で臨んできました。
泉田知事は平成19年7月に新潟県中越沖地震が起きた際、柏崎刈羽原発で火災や微量の放射性物質が漏れ出す事態が起きたことを受けて、東京電力に免震施設の設置など新たな安全対策を求めました。
5年前の福島第一原発事故のあとは、柏崎刈羽原発の再稼働について、「福島第一原発の事故の検証なくしては運転再開の議論自体がありえない」という姿勢を取っています。
そして、専門家でつくる新潟県の技術委員会で事故の検証作業を独自に進め、この中で、東京電力が事故発生から2か月以上、「炉心溶融」、いわゆるメルトダウンが起きたことを認めなかった問題を追及しました。
その結果、当時のマニュアルに従えば事故の3日後には炉心溶融と判断できたことが明らかになったほか、当時の社長が、炉心溶融という言葉を使わないよう指示していたことも明らかになりました。
こうした問題に対して泉田知事は、今後は、東京電力と合同で検証委員会を設け、真相の解明を続けていく姿勢を示していました。

 

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http://www.h-izumida.jp/topics/20160830.htmlより転載

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この秋の新潟県知事選挙からの撤退について

12年前の知事就任時最初の職務は震災対応でした。県で制度設計が可能な復興基金などにより今日まで、復旧復興を進めることができました。その後、公約を元に作成した政策プランにより県政運営を進め、当時不安視されていた県財政を安定させることができました。

3期の任期を振り返りますと、産業面では産業団地利用率が、71.8%(平成16年度末:15.6%)まで高まり、全国に先駆けて導入したマイナス金利制度等により、本県中小企業の設備投資は、全国平均を上回った水準で推移しています。高卒就職率は、リーマンショック時においてもほぼ100%を維持し、セーフティーネットを機能させることができました。存続の必要性が議論されていた表参道ネスパスは、年間で入館者100万人を超え、大阪のアンテナショップとあわせ、新潟の情報発信拠点へ成長しました。

医療関係では、医師・看護師の養成定員の増加、ドクターヘリの導入を進め、全国的にも注目を集める魚沼地域の医療再編を進めることができました。県立病院の経営は安定しています。人口問題では、国予測ほどは減らず、前回調査の将来推計を8,000人近く上回りました。

難病対策、新潟水俣病対策、ひとり親世帯支援、全国に先駆けたいわゆる出世払い奨学金の導入、障害者支援などに積極的に取り組み、支援の必要な社会的に弱い立場の人に光があたる環境をつくるため、心を砕いてまいりました。

県の審議会等への女性登用率も大幅に上昇しました。農業関係では、農家所得の向上を目指した取り組みを進め、1経営体当たりの売上額は約400万円増加し、米の輸出は全国トップで、本県が全体の40%を占めることができました。

土木関係では、地元の経済循環を目指した施策を講じ、建設業のすべての規模階層で利益率がプラスとなり、全国46位に甘んじていた設計労務単価は26位まで上昇いたしました。 北陸新幹線開業時の国との交渉での830億円の支援策の獲得により並行在来線の安定運営の基盤を確保でき、この効果は他県へも波及しました。佐渡汽船は黒字化し、経営は安定しています。

漸減していた県立図書館の入館者も改革の結果ほぼ倍増しました。個を伸ばす教育を基本に取り組みを進めた結果、小学校で全国上位の学力を獲得し、高等学校では、特色ある学科を設置し、全国的にも注目を集める事例がでてきました。

最後に、一人当たり実質可処分所得もこの間12%程上昇したこともあり、昨年10月の県民意識調査では、すべての項目で満足層が増加し、不満足層が減少する結果につながったものと思います。

こういった中、今回の選挙は政策論と関係ない動きが続いていると感じています。特に、日本海横断航路に関する一連の新潟日報の報道は、憶測記事や事実に反する報道が続きました。再三の申し入れ( http://bit.ly/2bYbBed )にもかかわらず、訂正や説明もなく、最近まで県から申し入れがあった事実も報道してもらえませんでした。また、読者からの説明を求める投書に対する回答を一両日でお返ししたにもかかわらず、県からの回答が現在に至っても掲載されません。

このため、県が組織的に虚偽答弁をしているのではないか等の誤った印象が形成されているように思います。県庁内においては、憶測記事や事実に反する記事への対応のため、通常業務に支障が出ていますし、職員の残業時間も大幅に増加しています。県庁舎内での森長岡市長の知事選への立候補表明の際には、クラブの代表幹事社として、庁舎管理責任を有する県職員の同席を認めない上に録音も禁止する一方、その後、十分な情報無しで森市長立候補表明に対するコメントを求めるということもありました。

新潟県内で大きな影響力を有する新聞社が、県の説明は読者に伝えることはせず、一方当事者の主張に沿った報道のみがなされている状況です。また、東京電力の広告は、今年5回掲載されていますが、国の原子力防災会議でも問題が認識されている原子力防災については、例えば、県が指摘している現在の指針に従えば避難が必要になったときにはUPZ圏内の住民40万人強を2時間で避難させなければならなくなる問題等県民の生命・健康を守るうえで重要な論点の報道はありません。このような環境の中では、十分に訴えを県民の皆様にお届けすることは難しいと考えています。

以上のような状況に鑑み、この秋の新潟県知事選挙からは撤退したいと思います。これまで、ご支援をいただいた皆様方には、お詫び申し上げますとともに心よりの感謝を申し上げます。

平成28年8月30日
泉田 裕彦

 

 

 

 


日米原子力協定の真相とは?「日本はなんとしても自力で核兵器をつくる力を身につけておきたいと思ったわけです」~第31回小出裕章ジャーナル

2016-08-30 18:31:01 | 福島、原発

ラジオフォーラム  http://www.rafjp.org/koidejournal/no31/より転載

日米原子力協定の真相とは?「日本はなんとしても自力で核兵器をつくる力を身につけておきたいと思ったわけです」~第31回小出裕章ジャーナル

小出裕章ジャーナル

※※この記事は時間の関係で放送できなかった部分も含めてお読みいただけます。
ラジオ放送日 2013年8月10〜16日

<!-- 空襲で逃げたら懲役1年? たね蒔き最終回ゲスト矢野宏vs西谷文和(ラジオフォーラム#31)  -->

公式書き起こし

聞き手
今日は、ズバリ「日米原子力協定」についてお伺いします。1955年に結ばれて、68年に旧協定が結ばれて、88年に今の協定が中曽根内閣の時に結ばれました。この協定が今も有効なわけですね?

小出さん
そうですね。確か、30年だったですかね?

聞き手
そうです。だから、2018年まで日米原子力協定が今もあるわけですね?

小出さん
もちろんです。

聞き手:
この協定は、どんな内容でどんな問題点がありますか?

小出さん
原子力協定だけを特別、歴史の流れから切り離すというのは、もちろん間違いなのであって、日本というこの国がサンフランシスコ講和条約で一応、米軍から解放された時からの流れの中で理解するべきだと思います。

日本には、日米安全保障条約があるわけですし、日米地位協定というものもあるわけですね。そういうものの基本的な枠組みは何かというと、日本というものが米国の属国になっていく、そういうことなのですね。

原子力協定ももちろんその一部をなしているわけで、米国の指導の下というか、米国の思惑の枠組みの中で原子力をやってきた。米国に付き従っている限りは一定の自由を与えてやろう、そういう協定です。

聞き手:
例えば、核燃料サイクルですが、日本はやめたいと思っても、この協定がある限りはやめれないでしょ?

小出さん
もともとは、米国も日本には核燃料サイクルはやらせたくなかったのです。というのは、核燃料サイクルというのは、いわゆる核兵器製造サイクルというべきものでして、原子炉で出来たプルトニウムを取り出すということが一番の眼目なのですね。

でも、日本はなんとしても自力で核兵器をつくる力、技術的な能力を身につけておきたいと思ったわけで、その中心的な技術である再処理ということをやりたかったわけです。やはり、米国としては、日本にそれをやらせるのはまずいと思ったわけで、日本が再処理に手をつけるということに関しては、米国の中で随分反対があったのです。その反対を押し切って、1977年に東海の再処理工場というのが動き出したわけで、ようやく、日本としては、米国から了承を取り付けて、核燃料サイクルに踏み込むことが出来たということなのです。

それをもちろん、簡単に手放すことが出来ないわけですし、世界で唯一なのですね、核保有国以外に再処理工場を認めたというのは日本だけなのであって、日本が属国である限り、認めておいてやろう、というそういう枠組みの中で原子力協定があるのです。

ですから、歴史の流れの中で考える限りは、日本は自分でも抜けたくないだろうし、米国としても今も枠組みが維持できている限りは、日本はその枠組みで利用したいと思っていると思います。

聞き手:
私は逆に考えてまして、核燃料サイクルというのはアメリカが日本に実験させてそれを見ていると思っていたのですが、日本も核兵器をつくりたいからやりたいのですか?

小出さん
そうです。

小出裕章ジャーナル

聞き手:
単刀直入にいうと、野田内閣の時に20万人が官邸を取り囲みました。野田さんは「大きな音だね」と言いましたが、野田内閣が再稼働せざるを得なかったのは、日米原子力協定があるからですか?

小出さん
先ほどから聞いて頂いているように原子力協定も歴史の枠組みの中で考えるべきだと思っていまして、米国という国は日本が属国である限りは、それなりの自由を与えて、原子力あるいは核という世界に留めておこうと思っているわけですね。

ですから、核燃料サイクルというものもそれなりに認めておいてやろうと思っているわけですし、原子力という、そういう世界につなげとめておくことによって、米国は原子力発電所を売りつけたりすることで、利益、つまり、金が自分の懐に入ってくるというために、日本は逃がさないと思っているのだと思います。

聞き手:
例えば、日本がアメリカの原子炉を購入することで、ウランやプルトニウムの燃料で儲けていこう、そういう考えもあったんですか?

小出さん
ウランを売りつける。或いは、原子力発電所というのは、天然のウランでは日本の原子力発電所は動かないわけで、濃縮という大変厄介なことをしなければいけないのですが、米国はウラン濃縮、つまり原爆をつくるためのウラン濃縮工場をたくさん作りすぎてしまって、そこから出てくる濃縮ウランをどこかへ売らなければ儲からないのですね。

聞き手:
アメリカは余ってたんですか?

小出さん
そうです。山ほど余ってますので、とにかく原子炉を売りつけて、燃料を売りつけることで金儲けをする、そして、原子炉自身も米国がパテント(特許、特許権)を持っているわけですから、売れば売るほど儲かる。ただし、米国自身はゼネラルエレクトリック(GE)もウエスティングハウスも、すでに生産ラインと失ってしまっていますので。

聞き手:
スリーマイルの時からですね?

小出さん
それより前から1974年から米国は原子力から撤退しているのです。生産ラインがないので・・・

聞き手:
米国の方が賢いのですね?

小出さん
遥かに賢いです。それで、日本の生産ラインを動かして、それでまた金儲けをしようと企んでいるのです。

聞き手:
危険は日本任せで、利益はアメリカが取ろうとしているわけですね。

小出さん
そうです。

聞き手:
日本も原子力ムラはそれで儲けたいし、核兵器をつくりたいという思惑もあるので、日米ムラがお互いいいだろうということでつくったような協定ですよね?

小出さん
まあ、国家としての思惑、企業としての思惑というのが複雑に絡み合って、もちろん米国は利益を求めるわけですし、日本の企業もすでにつくってしまった生産ラインがあるので、もう抜けることができないことで儲けることに走っているわけです。

聞き手:
日米安保がある限り、沖縄や横須賀に基地があるわけです。だから、沖縄の人が声をあげても基地はなかなか撤去できませんよね?

小出さん
そうです。

聞き手:
これと同じ構図が原子力にもあって、結局、日本政府も基地ビジネスで儲けたい人がいて、軍産複合体もそれで儲けたい人がいるし、アメリカだって、日米安保条約の中で沖縄に基地を置きたい、という両者の野合みたいなものが安保条約であって、結局、沖縄の人が苦しんでいるわけですよね?

小出さん
そうです。

聞き手:
今回、再稼働を申請している原発というのはほとんどプルサーマルが出来る能力があるものが多いですよね?

小出さん
はい。それが多いですね。

聞き手:
日本政府も電力会社も前のめりになっているのは、プルトニウムを回し続けたいという思いがあるのですか?

小出さん
プルトニウムを回し続けることはもうできません。高速増殖炉が動きませんので。しかし、日本はすでにプルトニウムを分離した形で、45トンも持っていて、それを使うと長崎原爆が4000発も出来てしまうという量なのですね。そんなものを世界が容認してくれるわけはなくて、日本は使い道のないプルトニウムは持たないという国際公約をすでにさせられてしまっているのです。

そうなれば、なんとしても燃やすしかないということで、無理に無理を重ねて、プルサーマルということをやらざるえないところに押し込められてしまっているのです。

聞き手:
この日米原子力協定は2018年に期限が切れます。

小出さん
これは破棄するべきだと思いますし、原子力協定だけでなく、地位協定だって破棄させるべきですし、日米安保条約だって破棄するべきだと思います。

聞き手:
本当の意味で独立していかなければいけませんね?

小出さん
そうです。

 


教会・国家・平和・人権―とくに若い人々のために 〔木下裕也牧師 日本キリスト改革派名古屋教会〕

2016-08-30 12:06:25 | キリスト教 歴史・国家・社会

教会・国家・平和・人権―とくに若い人々のために

聖書における教会と国家(1)
 聖書において教会と国家の事柄がどのようであるのかを、いくらか確かめてみたいと思います。 まず旧約聖書からです。神の選びの民イスラエルが国家を形づくったのは、預言者サムエルがサウルを王に任じたときです【注1】。このときイスラエルは、自分たちにもほかの国々のように王をたててほしいと願いました。しかし民のこの願いはサムエルにはよいことには思われませんでした。イスラエルには主なる神がおられ、神が民を統治されるゆえに、王をたてる必要はなかったからです。 それでもサムエルは、民の声に従うがよいとの神の御声に従ってサウルに油を注ぎます。ただし神は、王のつとめについて民にあらかじめよく教えておくようにとお命じになります。
 旧約聖書において、歴代の王たちを評価するものさしはきわめて明瞭(めいりょう)です。王は神の代理です。それゆえ、神の御心に従って国を治めなければなりません。御心にかなう統治をおこなうなら、神は王を祝福されます。神に従った信仰深い王には、高い評価が与えられています。 反対に、御心に背く統治を行った王は神ご自身の手によって王位から退けられます。どれほど国を強くし、豊かにしたとしても、神に背いた王は評価されないのです。 ここで覚えたいのは、イスラエルにあっては王もまた民の一員であったということです。十戒の第一戒によって、王が神がかるということが厳しく戒められていたのです。
 王は人間であって、いつもすこやかな統治を行うとはかぎりません。それはイスラエルに王制がしかれたそのときから、王の政治によって国が罪に堕ちる危険性もまた生じたということを意味しています。近隣諸国との利害関係によって神の御心よりも人間的な判断を先立たせてしまうということも起こります。偶像を持ち込んでしまうということも起こります。神がご自身の民を守られることを忘れ、他国の軍事力に頼ってしまうということも起こります。 ともかく、王が御心に反する政治を行った場合には、神はご自身の義のはかりによって彼を正当に審判なさいました。イスラエルの歴史のある時期には、国を滅ぼすこともなさったのです。

【注1】サムエル記上8章。それ以前にも士師(しし)がイスラエルをさばいたという例はありますが、王の任職にもとづいて国家が生まれるということからすれば、国家の始まりはサウル王からと考えるのが妥当(だとう)です。
 
 
聖書における教会と国家(2)

 神こそが王、統治者であられるということは神の選びの民イスラエルに限ったことではありません。なぜなら神は天地の造り主であられ、人間の創造者でもあられるからです。神がそのようなお方である以上、神はすべての国の主であられます。神のはかりである律法はイスラエルの民だけでなく、すべての人に適用されます。 そのようなわけで旧約聖書を見ても、まことの神を知らず、偶像を礼拝する民たちにも神のまなざしは注がれています。異教の国々にも、神はまことの王として君臨しておられます。
 たとえば旧約聖書アモス書【注1】1章2節以下に、諸国民に対する神の審判が語られています。預言者アモスの目的は、もちろん北イスラエルに対する神の審判のみことばを取り次ぐことにありました。それは2章6節以下に語られます(あわせて2章4節以下には、南ユダ王国に対する裁きも語られます)。 しかしそれに先立って、神がまず審判の言葉を語られるのはダマスコ、ガザ、ティルス、エドム、アンモン、モアブといったイスラエルの近隣諸国、異教の国々に対してなのです。そのことは全世界の民がひとしく神の義のはかりによってはかられるのだということ、神の言葉がすべての王と民に適用されるのだということを示しています。
 律法には三つの役割があります。ひとつは「守り役的役割」で、人間に罪を自覚させてイエス・キリストへと導いていくことです。ふたつめは「義の基準の働き」で、イエス・キリストにあって罪贖われ、聖霊によって新しい人とされたキリスト者がキリストに似せられていくこと、すなわち聖化の歩みの道しるべとしての役割です。 三つめは「社会的効用」です。国家と社会の秩序を保ち、増進させるために、悪をおさえて善を推進させるというものです。この最後の役割は、教会とキリスト者だけでなくすべての国とすべての民において生きるのです。現代にあって教会が国家との関係ということを考えるときにも、このことを知っておくのはとても大切なことです。  イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書、ダニエル書といった預言者の書物には来たるべき理想の王、救い主の到来を告げるメッセージがあり、イスラエルの民は苦難の現実のただ中で、神の国を来たらせるまことの王を待ち望むことになります。そうした「メシア待望」の中で、イエス・キリストの到来によって新しい救いの時代が始まっていくのです。

【注1】アモスは紀元前760年頃、北イスラエル王国で活動した預言者。間近に迫りつつあった北王国の滅亡を告げ知らせました。
 
 
聖書における教会と国家(3)
 
 続いて、新約聖書における教会と国家の関係についてです。イエス・キリストがお生まれになった時、ちょうど時のローマ皇帝アウグストゥスから、全世界の人に戸籍の登録をするように勅令が出されていました【注1】。アウグストゥスは腐敗と混乱のきわみにあったローマを平定し、帝国の領土をひろげ、ついに地中海世界の統一をなしとげ、文字どおり世界の支配者として君臨していました。死後には神格化【注2】され、のちの皇帝礼拝のもととなったと伝えられています。  支配者が戸籍の登録を命じる時、その目的は昔も今も変わりなく、税金の取り立てと徴兵です。経済力と軍事力は、今なお国の力をはかるものさしです。この世の統治はおしなべて力―富と兵の力の統治であると言えます。
 しかし、ここにもうひとりの王が示されます。ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになった王、イエス・キリストです。この王は貧しさと低さと無力のきわみにおいてお生まれになりました。力の支配ということがこの世の王の特徴であるとすれば、この王はそうしたものとは最も遠いところに生まれ、歩まれたのです。 加えて、アウグストゥスが人間を高め、神の位につけた存在であるのに対し、イエス・キリストは神が低くなられ、人となられたお方です。アウグストゥスとイエス・キリストとは、まことに鮮やかな対比をなしているのです。
 福音書はイエス・キリストのエルサレム入城のさまを描いています【注3】。これはこのお方こそ全世界の王であられることを証しする出来事です。父なる神は御子キリストをとおして、御心にかなって被造物を統治されるのです。 この王はろばの子に乗って凱旋(がいせん)されました。この世の王は剣をたずさえ、力によって相手を倒すことで支配をします。しかしろばの子に乗って来られた王はどんなに小さな、弱い命も殺さず、守り、生かすのです。 この王は人間の力の支配、憎しみと敵意と奪い合いの連鎖を断ち切り、この世に愛と赦しと命をもたらすために十字架に死なれ、復活されました。この王に仕え、この王に従って生きるところに、まことの平和が実現するのです。
【注1】ルカによる福音書2章1節以下。【注2】支配者や王を神の地位にまつり上げること。【注3】マタイによる福音書21章1節以下、マルコによる福音書11章1節以下、ルカによる福音書19章28節以下、ヨハネによる福音書12章12節以下。
 
 
聖書における教会と国家(4)

 教会と国家との関係についてイエス・キリストご自身が語られたこととしては、皇帝に税金を納めることに関するファリサイ人たちとの問答【注1】があります。当時ユダヤはローマ帝国に支配されていましたから、ユダヤ人たちはローマに税金を納めなければなりませんでした。このことはユダヤ人たちにとって深刻な問題で、納税拒否運動すら持ち上がっていました。 それはただ税の負担が重いといったことだけでなく、支配を受けている国に税を納めることの心の痛み、さらには神にまつり上げられていた皇帝に納税することが十戒の第一戒に背くのではないかとの問いがありました。
 ここでの問答そのものは、純粋に国家と信仰の問題をめぐってなされたものではありません【注2】が、皇帝に税金を納めることが律法にかなっているかどうかを問うたファリサイ人たちに対して「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになったイエス・キリストの御言葉は、やはり国家と信仰の事柄を考えるさいのひとつの示唆(しさ)となります。
 この御言葉はいくつかの意味に解釈されています。まず、イエス・キリストが国家や政治の領域と信仰の領域とがあることをお認めになって、いずれにおいても果たすべきつとめがあることを示されたとされます。これが一般的な解釈です。 しかし、やはり後半の「神のものは神に」に比重がかかっていると見るべきでしょう。つまり、国家もまた神によってたてられている(王や国民がキリスト者であるかどうかにかかわらず―キリストこそがまことの王です)以上、王が神の御心に従って国を統治しているかぎりにおいては彼に従うべきであるけれども、王自身が神格化されるようなことが決してあってはならない、栄光はただ神にのみ帰されなければならないということを教え示す御言葉であると理解されるべきでしょう。
【注1】マタイによる福音書22章15節以下。【注2】ファリサイ人たちは「イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけ」(15節)ようとしたのです。
 
 
 
 
 
 
 

 

 


日本人から《公共性》を奪った元凶は、明治政府の思想と行為です。〔思索の日記 武田康弘〕

2016-08-30 12:06:05 | 昭和天皇 平成天皇 天皇制

思索の日記

http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/a54d88dd58d828a004448499279a12c0

日本人から《公共性》を奪った元凶は、明治政府の思想と行為です。

2016-08-29 | 恋知(哲学)

武田康弘

 日本人は、学校や会社や役所などの「団体」の慣習・上位者の意思には極めて従順ですが、なぜ、みなでつくる公共性がないのでしょうか?

 互いに対等な立場で、自由に意見を出し合い・言い合いして合意や妥当を導きだすことは日本社会ではほとんど行われていません。慣例に従い、上位者の意向に従うことが暗黙のうちに前提されていて、みなでつくり上げていく公共性の世界がないのです。

 市民の公共性が社会-国をつくるというのは、欧米では当然の話ですが、日本ではそれがありません。組織や団体の慣例=惰性に黙って従うのが当たり前になっています。

 近代の市民社会を成立させる基盤がこの公共性ですが、なぜ、日本ではそれが育たなかったのでしょうか?

 その原因は明らかです。
明治維新による近代化は、伊藤博文らが中心となってつくった天皇の神格化=欧米のキリスト教のような絶対的な宗教(一神教)をつくるために、伊藤ら明治維新の立役者(過激派の人々)は、皇室の伝統を用いて天皇現人神という《政府神道》をつくり、天皇を生き神として全国民に崇拝ー敬愛させることにしたからです。『大日本帝憲法』の制定で、「天皇は神聖にして犯すべからず」と規定しましたが、これは現代の言葉で言えば、カルトです。国家が権力を用いてカルト宗教を国民に浸透させていったわけです。

 憲法で主権者(国の最高の力をもつ者)とされた天皇は、陸軍と海軍の統帥権をもち、同時に宗教上の絶対者=現人神とされたのですから、日本臣民(国民ではなく君主に従う臣民とされた)は、自分たち皆の自由と責任で国をつくるという「公共性」を元から奪われてしまったわけです。

 国民=臣民に求められたのは、「天皇のために=お国ために」という思想と行為であり、「滅私奉公」(私を滅して公=天皇に奉仕する)という道徳であり、日本独自の優れた思想とされた「忠」の精神(最上位者を天皇陛下とする上位者の言動に忠実であること)でした。

 ですから、「天皇を中心とする神の国」(現代においても森元首相が言明)では、一人ひとの対等な市民が話し合って物事を決め、その結果に責任を負うという思想は育ちませんし、国をつくり、守り、発展させるのは、市民の共同意志であり、市民の自由と責任によるのだという想念ー思想は生まれないのです。

 市民みなの共同意思と行為の上に、いつもその上にたつ「公」(おおやけ)という世界があるということになりますから、市民の共同意思=公共性は、「公」に従うもの、奉仕するものとなり、公共性は自立できないわけです。一人ひとりの国民は、公共性に従うのではなく、公(おおやけ)と呼ばれる天皇の意思=官僚政府の意思に従うことになりますが、これでは近代社会市民社会による国家(対等な市民がつくる社会契約による国)ではなく、予め決められている社会観や国家観に従う臣民としての存在にしかならないーなれないわけです。

 天皇に従う時にだけ人として国民として認めらるという国は、民主性・民主制・民主政ではなく、神聖国家です。

 明治の近代化が、このような世界に例を見ない国家宗教(現代の言葉ではカルト教)により超スピードで進められた結果、日本人は、極端なまでに効率第一主義・技術主義(技術偏愛)・形式主義=儀式主義に染め上げられてしまい、一人ひとりの心の内側から内的・内発的に考えを生み・行為するのではなく、外なる価値を追いかけることが人生だと思い込むようになったのです。

 生きている人間を神として崇めるという「禁じ手」を用いて、有無を言わせずに全国民を一つにまとめ上げ、強制的なスピードで近代化を成し遂げたわが日本は、その深い負の遺産(心の内からではなく外なる価値に従い生きる)を清算できません。清算できないどころか、現安倍政権は、過去の天皇主義をよしとする「日本会議」のメンバーであり、再び戦前思想への回帰を求めているありさまです。

 明治政府がつくった天皇ないし皇室中心主義という思想を続ける限り、わが日本という国には、みなの自由意志と責任でつくる「公共性」は赤子のまま成長できず、いつまでも公(おおやけ)という官僚政府が市民の上にたつ「主権在民」ならぬ「主権在官」の世界から抜けだせません。余談ですが、いまの天皇の明仁さんもこうした現状を批判的に見ているのはまちがいありません。

  みなで公共性をつくり、公共世界を拓きたいものですね。これは、たぶん、皆の本心だと思います。

 
 最後に、欧米のキリスト教は強い一神教ですから、イギリスのロックの思想のように、宗教の原理主義により民主制を基礎づける思想は、現代においては成立しません。宗教ではなく、フィロソフィーにより基礎付けなくてはいけません。
  ただし、英米においてはキリスト教原理主義である清教徒思想により民主主義がはじまったのでは事実ですし、そういう強い宗教=イデオロギーが必要だったのも確かです。それを見た伊藤博文が、日本の近代化にはそれと類似の宗教が必要だと思ったわけですが、あらゆる人間と人間の営みを超えた「超越者としての神」という思想と、現実に存在する天皇家という家と天皇を神格化するのでは、根本的に思想が異なります。超越者として置くのを人間であり一家族であるとしてしまうと、その現人神という権威主義は、一人ひとりを「個人」(自由と責任をもった主体者)として自立させず、豊かな内面宇宙をつくらせず、集団主義の価値観=外なる世界に合わせるだけの存在に人間を貶めてしまいます。

 それでは、根源的な人権侵害となりなり、幸福をつくらないシステムをつくることになります。
フィロソフィー(恋知)の生をはじめたいものです。