中さん

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日記(3.7)

2022-03-07 11:51:04 | 日常
3月7日(月曜日) 晴れ 風冷たい

9時、三輪医院にて2回目の帯状疱疹ワクチンを接種する。
前回は昨年の12月であった。
聴診器検査の後・・肩に近い場所の腕に打つ、ちょっと痛い!

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今回は大分、間が空いた。
第3回目コロナワクチン接種が入って、2週間は間を開けようということで
伸びてしまった。
今回受けてるワクチンは10年間の効果があるという”シングリックス”で
保険がきかないので高額だ。

この医院では1回分が25k円かかる。通常は8k円程度で受けるらしいが
昨年中に、家内が頼んできてしまったので仕方ない。まあ効果があれば安いものだ・・が・
このワクチン注射接種後は倦怠感・熱が出てくるので今日は静かに屋内でTVだ。
前回の経験から2日程で元に戻る。予定だ。

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新聞のコラム・・
〈ふるさとは遠きにありて思ふもの〉
 
と始まる室生犀星の詩は、
 意外にも古里金沢で書いたものだという。
 居場所を見いだしかね、また東京へと旅立つ。その心模様を思えば、切なくなる。

★犀星氏の本は何冊か読んだ。ご本人の生い立ちが凄いのでそちらに視点が行く。
 1889年(明治22年)、金沢市裏千日町に生まれる。
 加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と
 その女中であるハルという名の女性の間に私生児として生まれた。
 生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった
 室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、
 ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。
 住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、
 この際室生照道を名乗ることになった。
 私生児として生まれ、
 実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは
 犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。

 「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、
 生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた。
 『犀星発句集』(1943年)に収められた
「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」
 との句は、犀星自身50歳を過ぎても、
 このダブルバインドを引きずっていたことを提示している。
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★「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」。
  これは金沢三文豪のひとり、室生犀星の『抒情小曲集』に収められた一節。
  詩人として身を立てようと上京した若き日の犀星が、
  ふるさと金沢への思いを断ち切らんとする切なさを表現したものです。

   明治22年(1889)に私生児として生まれた犀星は、
  生まれて間もなく犀川ほとりの雨宝院に引き取られ、養子となりました。
  こうした複雑な生い立ちが、美しいふるさとへの思いや命を慈しむ心、
  家族愛を描く犀星文学に大きな影響を与えたといわれています。
  犀川の西に生まれ育ったことがペンネームの由来となったように、
  犀川の風景をこよなく愛した犀星。
 「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ」というように
  作品にもたびたびその名が登場します。
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次に・・
▲日本の原風景を追い、47都道府県を回った画家の原田泰治さんは、
 生まれ故郷の信州に長く住み続けた。
 旅先で郷土色豊かな風物をこまやかに描きながら、
 ふと浮かぶ古里の情景もあっただろう。訃報が届いた。81歳
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▲コロナ禍で外出もままならず、せめて旅行気分でもどうぞ―と
 原田さんはおととしから公式ブログに自作を載せていた。
 広島編の一つは、干しだこの揺れる漁師町。山口編の棚田にはレンゲが咲き、
 そよ風の気配さえ感じる

▲どの作品も画家自らの解説付きというのが面白い。
 線香作りに水車を使い続ける岡山の農家を描いた絵には、
 「こんな古い仕事…」と尻込みする主とのやりとりまで書き込んでいる。
 大人の絵日記を思わせ、味がある

▲旅に出る。人に会う。絵を描く。そんな繰り返しの中から、
 遠近感をもたらす「二つの目」を会得したらしい。
 離れて見渡す「鳥の目」と、そこに息づく命を忘れない「虫の目」と。
 絵日記が時を止めてしまったことが悔しい。
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★私が病気で長期入院中に
確か絵が好きだったねえ~と何冊か差し入れてもらった本の中に
原田泰治さんの作品もあった。彼は小児麻痺を患って歩けなかったとあった。
 1歳児の時小児麻痺にかかり、歩行困難になる。
 諏訪市立上諏訪中学校、長野県諏訪実業高等学校卒業後、
 武蔵野美術大学短期大学部商業デザイン科に入学。
 はじめは洋画家を志すも、途中でデザインに転向。
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★ハンデがあっても才能なのであろう
 ほんとに愛いらしい絵を描くのは、入院中の私には励みであった。
 今でも、どうしてあんなに穏やかな絵が描けるんであろうか?不思議だ。
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コメント
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