教科書などで舞踏会の浮世絵は見かけたが、
建物自体がどんな物だったかは知らなかった。
砂像ではあるが、今回初めてその形を目にすることが出来た。
そんな鹿鳴館 ( ろくめいかん ) は、
国賓や外国の外交官を接待するため、
外国との社交場として明治政府によって建てられた社交場である。
鹿鳴館を中心にした外交政策を 「 鹿鳴館外交 」、
欧化主義が広まった明治10年代後半を 「 鹿鳴館時代 」 と呼ぶ。
当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもあった。
建物は後に華族会館となり、1940年( 昭和15年 ) に取り壊された。