ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

セレンディピティ その2

2017-09-16 | 系図のこと

系図に於けるセレンディピティについて書かれているハンク・Z・ジョーンズの著書 

 

夫の父方の家族には、家族に伝わる伝説のようなものがあって、それはアメリカ原住民が混じっている、というものであった。夫の五代前の祖父母が東部からテネシー南部の土地を求めて住み始め、農場を開拓していた1800年代初頭である。元々そこはチェロキー族のテリトリーで、一家は何度も何度も焼き討ちにあった。

一家には多くの息子と娘がいて、チェロキーのリーダーがある日やってきて、焼き討ちをされたくなかったら、息子の一人と彼の娘が結婚することだ、と言った。たび重なる焼き討ちで疲弊していた先祖は、家族で話し合い、長男が、チェロキーの娘と結婚することになった。それ以降一家の農場と家屋は焼かれることがなかった。

ところが、災いは、チェロキーの娘と結婚した長男にあった。Trail of Tears(=涙の道;ここを参照)を妻と彼女の人々と共に行かされたのである。陸路を取らされたのか水路だったのか、不明だが、アンドリュー・ジャクソン大統領によって執行されたインディアン強制移住によって、後にオクラホマ州となる地へ移らされたのである。陸路なら徒歩で、最小最低限の私物を持って、1万5千人ものチェロキーは移らされた。

その旅が如何に過酷であったかは、4,000人のチェロキーが道中亡くなったことを見ても明らかである。チェロキーには、軍隊の使い古した汚れた毛布が与えられたが、それらは、洗濯も消毒もされていなかったから、主に赤痢に罹患して、人々は亡くなったのだ。住み慣れたジョージアやテネシーから、なにもないオクラホマへ移らされた背景には、ジョージア州での金鉱発見も一因であるが、土地をいくらか所有していた一部のチェロキーは移住せずにすんだ。だが、その数は1,000人ほどである。

その5代目祖父母と二人の間にいた子供達について調査したところ、次男だった4代目祖父(夫の直系)や他の兄弟には白人との結婚証書があり、国勢調査にも名前を残してきたが、只一人行方が不明なのは、長男だった。その長男についてどうやって調べようかと考えながら、家族の歴史センターへ行った晩、ディレクターが、今晩はパトロンも少ないから、本棚の掃除をしよう、と提案した。壁一面の戸棚には書籍があり、きちんと分類はされているが、誰かが使うと元に戻ってないことも多い。

私は壁に向かって左からチェックすることにした。戸棚の戸を開け、最初に目に付いた棚に倒れ掛かっている二冊の大きめな書籍を取り上げた。ふと表紙を見ると、それはDawes  Rollsの1896年版と1906年版ではないか!Dawes Rollsというのは、文明化五部族についての、居留地関係の記録書である。アメリカ原住民の居留地記録は、Dawes Rolls の他に、Guilon Miller Rollというのがあり、どちらもチェロキー族の記録である。センターにあるのは、Dawes Rollsだけだったが、今まで蔵書のうちにあったとは、気づかなかった。

まず整理整頓してから、そのDawes Rolls二冊を机の上に置いて読み始めた。私が仮定していたチェロキーの娘と結婚した先祖の長男は、もちろん夫と同じ姓だから、そのイニシャルのページへ行くと、63,773番目に使われていて、たった5022人しかその姓を名乗っているだけなのに、載っている! 1896年版にしても1906年版にしてもその姓を持つ人は、5代目祖父母の長男(仮定)の3、4代後の子孫であろう。故に夫の直系ではないが、家族の伝説は必ずしも伝説ではない、と実感したものだ。後のDNAテストで夫は100%ヨーロピアンと出たので、この長男の妻が、”アメリカ原住民”の先祖にあたるのであろう。

この時チェロキー族と共にオクラホマに強制移住させられた先祖の一人について調査の方向性がついた。あとはオクラホマ州のその町・村の国勢調査を調べると分かると見当をつけた。これもセレンディピティである。こうした例はたくさん起こる。ここに載せた写真の本はそうしたことを書いている。著者たちは、それぞれ系図調査に長い年月を費やしてきたベテランのプロである。下の本は、そのプロたちが集めた系図調査にあったセレンディピティを載せたものである。秋の夜長、おひとつどうでしょう? 

 

 

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