ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

悲しい現実

2018-11-04 | アメリカ事情

 shutterstock.com #408978352

 

 

 

 

ノースダコタで、私の母と叔母のエルシーは、孤児院で知り合い、仲良しだった少女とで、アパートを借りた。その少女は黒人だったが、その明るい肌のために、彼女は白人として「合格」したのだった。彼女には孤児院で一緒だった彼女より肌が黒かった兄がいて、彼はベーカリーで仕事を得ていたのだった。ベーカリーの持ち主は、店の奥に彼を住まいさせ、よく残りのパンを彼にあげた。夜になると彼は妹のいるアパートに、パンやそのほかの焼かれた物を、分け合うためにもってきて、妹と妹のルームメイトたちとで一緒に夕食をとった。


母は、その四人が一緒になると常に多くの話をし、そしていつもそこには笑いがあったと言った。彼は愛すべき兄で、乏しい給料の一部を妹に渡し、彼女が看護学校に進むために貯蓄できるようにしていた。


ある日、母たちの家主がドアに来た。彼は怒っていた。少女たちが黒人男性とパーティーをしている、と隣人たちが、文句を言っている、と彼は言い、彼女たちはここから出るべきだ、と続けた。


私の母は、いつもこの話のこの部分で、涙を浮かべた。


母たち三人が別のアパートに引っ越した後、少女の兄は妹を椅子に座らせて、迷惑をかけたくないので、もう彼女に会いに来ないから、安心して、と告げた。 


私の母の友人は悲しみに打ちひしがれたが、彼女の兄は言ったことを守った。兄妹は、妹が看護婦になることができるように、その後も資金を送り続けたが、二度と再び会いには来ることはなかった。


そして彼女は看護婦になったのだった。

 

-マージョリー・ドデロ、rd.com


この実話は、1800年代のアメリカのものではなく、1950~1960年代のことである。私の勤める大学院には、何人かアフリカ大陸の様々な国から、留学生がやってくる。その誰もが非常に勤勉で、学業に励み、優秀だ。良く澄んだ瞳で、国に戻ったら、エンジニアになって、自分の故郷の人々を助けたい、生化学の学位で終わらず、これから医学校へ進み、医師になり、国の人々を救いたい、とよく話してくれる。この学生たちの将来に、欧米が経験し、あるいは彼らの本国のある大陸であった白人コロニストたちによる人種差別という過去が二度と起こらないことを切に願う。

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