つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

城址や 兵どもが 夢の跡。

2024年03月31日 08時19分19秒 | 日記
                           
津幡町から中能登町の災害ゴミ受け入れ現場へ向かう際、
必ず通過するのが「宝達志水町(ほうだつしみずちょう)」だ。



宝達志水町の場所は、石川県の中部。
上掲地図画像を見てお分かりのように、能登半島の付け根---旧能登国最南部に近く
「口能登」(くちのと)に位置する。
北は羽咋(はくい)市、南はかほく市と津幡町。
西は日本海、東は富山県氷見(ひみ)市と高岡市に隣接。
平成17年(2005年)3月1日、
羽咋郡志雄町(しおまち)と押水町(おしみずまち)が合併して発足した。



行き帰りの道すがら、常々気になっていたのが「末森城跡」の大看板。
よく晴れた先日、陽が西へ傾き始めた頃、城址を訪問した。
歴史ファン、戦国ファンならご存じの通り、ここは戦いの舞台となったところ。
「前田利家」と「佐々成正」の軍勢が刃を交えた「末森合戦」である。



『末森山(標高138.8メートル-3等三角点)にある中世から近世初期の山城跡です。
 現在は本丸門の礎石、通称「本丸」、「二の丸」「若宮丸」のあった跡や、
 空堀が草叢ながら歴然と遺っています。
 天正12年(1584)越中富山城主 佐々成政による攻撃を受けましたが、
 城主 奥村永福がこれを死守し、前田利家の来援により落城を免れています。
 この戦いが加賀百万石の基礎となったと伝わる「末森合戦」です。

 昭和59年度から城郭分布踏査を開始。
 60年度から3カ年で城域の踏査・測量、城郭の一部発掘調査を国庫補助を得て実施し、
 約36ヘクタールの踏査範囲の内、主要郭の本丸から若宮丸部分が
 石川県の史跡指定となっています。
 城郭南側国道沿いに案内板、本丸に説明板を設置し、
 登山道(個人作業用林道)に道順案内表示と、主要郭である、
 「本丸」「二の丸」「若宮丸」にそれぞれ標柱を設置いたしました。』
(※『   』内、宝達志水町HPより引用/原文ママ





元々「前田利家」と「佐々成政」は、どちらも「織田信長」の精鋭部隊に属し、
信長の下で何度も死線を搔い潜ってきた、いわば同僚で戦友だった。
しかし、本能寺の変で「信長」が倒れ状況は一変。
「豊臣秀吉」と「徳川家康」による天下取りのせめぎ合いが始まると、
「利家」はかねてから親交のあった秀吉側に加担。
「成正」は家康側に同調し、2人は敵対関係となる。
そして「末森合戦」で両雄が激突。



天正12年(1584年)年9月9日(※日程諸説アリ)、
「成政」が1万5000の大軍を率いて末森城を包囲。
翌10日から攻撃を開始した。
これに対し、城を守る前田兵は籠城して必死に抵抗。
成政軍の猛攻により、二の丸や三の丸は落とされたが、
本丸だけは死守し、現地に踏みとどまる。
末森城ピンチの一報は10日午後には、金沢城にいる「利家」の耳に届く。
もし加賀・能登・越中の国境にある交通の要所が落ちれば、
領土分断の憂き目に遭う。
急ぎ援軍を出すことを決定した。

利家軍は金沢からの進軍途中、わが故郷の母校が建っていた場所「津幡城」に立ち寄り、
息子の「前田利長」の軍と合流。
総数2500は「成正」軍に対し数の上では劣勢。
津幡城内で軍議を開き、作戦を練ったという。
9月10日深夜、城を出て雨の中海岸沿いを北上。
翌11日未明、成政軍の背後をつき奇襲をかけた。
本丸籠城中の味方も援軍に呼応し、挟み撃ちの恰好となった「成正」は、
末森城を諦め、越中に退却した。

死傷者は両軍合わせて2000近くになると伝わる末森合戦。
特に、寡兵の前田勢の損害は相当のものだったという。
激戦だったのである。





そんな城址を登ること20分あまり。
ようやく山頂付近の本丸跡に立つ。
兵(つわもの)たちの鬨の声も、ここで流された血と汗も時の彼方に消えてしまった。
ただ春のそよ風が吹き抜けるのみ。
僕は日本海に沈みゆく夕日を眺め感慨に浸ったのである。


                           

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