つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

俳聖、やはり旅人也「松尾芭蕉」②。

2024年05月12日 14時14分14秒 | 手すさびにて候。
                           
同カテゴリーの先回は「俳句」と「松尾芭蕉」について投稿した。
執筆のキッカケになったのは、先月(2024/04)出かけた西美濃への小旅行。
訪問地の1つ岐阜県・大垣市は「芭蕉」と縁が深い。
貞享元年(1684年)秋。
元禄元年(1688年)春。
元禄二年(1689年)秋。
元禄四年(1691年)秋。
履歴を時系列に沿って並べると、僅か7年ほどのうちに都合四度も来訪している。

うち三度目のそれが、あの大旅行の結び。
江戸・深川~関東~東北(奥州)~北陸と延べ2,400km、
およそ150日を費やした『奥の細道』のゴールに選んだのである。
大垣に「格別の思い」を抱いていたであろう事は、想像に難くない。

当時の大垣は、城主の文教奨励もあり俳句をたしなむ気風が充満。
しかも、大垣俳壇のリーダーは自分の弟子で俳友。
早くから「芭蕉」が編み出したスタイル---「蕉風」を受け入れてくれていた。
また、舟運(しゅううん)の拠点で、各地へのアクセスが便利。
旅をするにも滞在するにも、何かと都合のいい場所だった。

そんな経緯から、大垣には「奥の細道むすびの地 記念館」がある。


(※大垣 「奥の細道むすびの地 記念館」正面入口/りくすけ撮影)

施設オープンは平成24年(2012年)。
「奥の細道」の解説をはじめ、俳聖の人となりや人生を紹介する「芭蕉館」では、
各種展示やAVシアターを通じ、旅の概略を学び追体験ができる。
館内は撮影不可の為お披露目できないが、なかなかの充実ぶり。
貴方が歴史ファン、江戸ファン、俳句ファン、芭蕉ファンなら、
楽しいひと時を過ごすことが出来るだろう。

さて、ここからは記念館常設展示で個人的に気になった
「人間・芭蕉」コーナーにモチーフを得た拙作を紹介したい。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十六弾「大原女(おおはらめ)」。



芭蕉門下の1人に「野沢凡兆(のざわ・ぼんちょう)」という人物がいる。
金沢出身で京都に暮らし、医の道を志していたが、
「芭蕉」の作品に感化され文芸にのめり込んだ。
彼が遺した俳文(はいぶん/歌に関するコラム・エッセイのようなもの)「柴売ノ説」に、
師匠が戯れにこんなことを語ったと記録がある。

『身のいやしさを思へば 官女もかたらひがたし
 心の鈍きを思へば 傾城もなほ交わりがたし
 もし妹背をなさむに このおなごをなむ』

■「官女(かんじょ)」は、
宮中、将軍家・大名などに仕える女官。
身分が確かで眉目秀麗なVIP専用女性スタッフといったところ。

■「傾城(けいせい)」は、
紀元前の中国王朝「前漢」の歴史を著した「漢書」に由来。
色香で君主を惑わせ、国政を蔑ろにさせ城を傾けてしまうほどの美女のこと。
江戸期の日本では、太夫や天神などの最上級遊女を指す。

■「妹背(いもせ)」は、
兄妹・姉弟・夫婦の仲、ひいては睦まじい男女をいう。

■文中の「このおなご」とは、
京の山里・大原の女性たち「大原女」。
紺の着物、赤の襷(たすき)掛け。
白手拭を吹き流すのが定番の装束。
柴(しば)や炭、薪などを頭に載せ、
往復20数kmもの道のりを歩き、都まで行商にやって来た。
 
補足を交えたうえで前掲の芭蕉談を、
フランクな話し言葉に現代意訳するなら、こんな感じになるかもしれない。

『凡兆ぉ~、俺って元々農家の次男坊で田舎者だろ。
 だからぁ、いい匂いのするお女中っていいなぁ~と思うけど、高根の花なんだよな。
 じゃあプロでいいじゃんってなるかもだけど、ピンとこないんだよ。
 色っぽいハナシで盛り上がるんなら、やっぱフツーの娘(こ)が---
 ほら!あそこを歩いてる柴売りの大原女なんかがイイんだよ。 
 よく見れば、結構カワイイぜ。』


---「芭蕉」先生、失礼しました!

大原女は、古くから京都の名物の一つ。
江戸時代には彼女たちをモデルにした美人画が流行ったとか。
華やかな都大路にはいない、純朴な雰囲気がウケたと考えられる。
また、僕は人気の一因として、一種の“神秘性”を帯びていたとも推測。
大原の位置は、京都市左京区の北東部。
比叡山の麓にあたるそこは「延暦寺」の影響が強く及ぶ所だった。
幕府による政(まつりごと)、御所の威光とは違う、
仏の力に護られたパワースポットからやって来る涼し気な瞳の女性たち。
大原女には、そんなイメージが備わっていたかもしれない。

ともかく弟子の書にある一幕は、文学史上の偉人として持ち上げられがちな「芭蕉」の
人間臭いエピソードではないだろうか。

もう一つ「奥の細道むすびの地 記念館」常設展示「人間・芭蕉」コーナーから紹介したい。
「芭蕉」は、故郷で造り酒屋を営む門人「宗七(そうしち?)」へ宛て、
こんな手紙を出しているという。

『から口一升 乞食(こつじき)申したく候』
(伊賀へ帰ったらアンタのとこの旨い酒、分けてね。一升だけでいいから)

何しろ「芭蕉」は自らの創作活動を優先するため、
苦労して手に入れた俳句レッスンプロの座を捨て、収入の道閉ざしている。
名声を得て以降も暮らし向きは楽ではなく、借金、もらいもので日々を繋いでいた。
ちなみに酒の句も少なくなく、呑兵衛の傾向が見え隠れ。
俳聖はアーティストらしく、わがままで、だらしなく、自己中心的な面がある。
でも、才能の輝きにいささかの翳りなく、弟子たちから慕われ愛されたのだ。
それは、大旅行を結んだ時の様子からも窺える。

元禄2年(1689年)8月21日(現在の暦では10月4日)、
「芭蕉」は敦賀まで出迎えに来た弟子を伴い大垣に着いた。
およそ2週間の滞在中、多くの親しい人たちが尋ねて来たという。
ある者は急ぎ足で、ある者は早馬を飛ばして、あるものは土産持参で。
皆「芭蕉」の無事を喜び、労わりたいと思い集った。

---『奥の細道』という長編ロードムービーのハッピーエンディングである。
そして、ラストシーンで主人公は意外な台詞を口にした。

『旅は終わらない』


(※大垣 船町湊の句碑「蛤塚」/りくすけ撮影)

『蛤の ふたみに別 行秋ぞ』
(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)

過ぎ去ろうとしている秋に別れを告げ、手を振る諸君に別れを告げる。
貝の身と殻とを二つに引き裂く様に、再び悲しい別れの時が来たのだ。

旅の疲れを癒やした「芭蕉」は、歌を残し川港から舟に乗る。
目指すは、伊勢の二見浦。
伊勢神宮の遷宮へ参上するため、
多勢の見送りを受けながら、栖(すみか)に帰ってゆくのだった。

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり
                  
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俳聖も、同じ人也「松尾芭蕉」①。

2024年05月09日 20時00分00秒 | 手すさびにて候。
                           
先月(2024/04)、僕は西美濃へ小旅行に出かけた。
訪問地の1つ、岐阜県・大垣市は「松尾芭蕉」が、有名な旅を終えた地である。

326年前のちょうど今時分。
元禄2年 旧暦3月27日に門人を伴い江戸深川を出発した「芭蕉」は、
関東~東北(奥州)~北陸と、和歌の題材になった名所・旧跡「歌枕」を訪ね歩いた。
およそ150日間、2,400kmに亘る大旅行の紀行文が『奥の細道』。
そこに収められた60余りの歌の幾つかは、
発表から長い時を経た今日(こんちに)でも、容易に思い浮かべることができる。

『夏草や 兵どもが 夢のあと』
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』
(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
『五月雨を あつめて早し 最上川』
(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
『無残やな 甲の下の きりぎりす』
(むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)

個人的には、序文冒頭も忘れ難い。

『月日は百代の過客にして 行き交ふ年もまた旅人なり
 船の上に生涯を浮かべ 馬の口とらへて老いを迎ふる者は
 日々旅にして旅を栖(すみか)とす
 古人も多く旅に死せるあり』


時は永遠の旅人。
歩みを止めず巡る季節も旅人だ。
一生の殆どを水の上に浮かべて過ごす船頭、
馬のくつわを引くうちに老いてゆく馬子などは、毎日が旅そのもの。
彼らにとって旅はねぐらである。
未練を残し道半ばで倒れた先人達の例を引き合いに出すまでもなく、
人生はゴールのない旅のようなものかもしれない。
(※現代意訳/りくすけ)
--- とまあ、少々拡大が過ぎる気もするが、ずい分若き日にそう解釈をした僕は、
「旅の空の下で死ぬ自分」にヒロイックな憧れを抱いたりした。
オッサンになって思い返せば面映い限りである--- 。

さて、後の人々が「松尾芭蕉」に冠した称号は“俳聖”。
“古今に並ぶ者のない俳句の大名人”だ。
そう聞くと近寄り難い印象かもしれないが、出自は庶民階級。
伊賀上野(現/三重県・伊賀市)の下級武士(実態はほゞ農民)の次男で、
城主に仕え俳諧の心得を学び、文芸で身を立てようと大都会・江戸へ出た。
まだ、俳句は歴史の浅い新ジャンル。
いわば「芭蕉」は、地方出身のハングリーな前衛芸術家だったとも言える。

日本橋に居を構え、様々な俳人と交流を持ち句会の審査員や指導をする傍ら、
土木工事などに従事して糊口をしのぎつつ腕を磨いた。
およそ6年間の下積み生活後、見事、宗匠(そうしょう/師匠格)になる。
いよいよ大活躍か!?--- と思いきや、せっかく手に入れた地位を捨て、
草深い江戸の外れへ転居し粗末なあばら家に籠る「芭蕉」。
世俗と距離を保ち、自然に包まれ、時の流れに身を任せ、
やがて心眼に映る「風流」をこう詠んだ。

『古池や 蛙飛びこむ 水のおと』
(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)

当時の俳壇の主流は、複数人が即興で歌を連ねてゆく言葉遊び、洒落、笑いなど。
それとは明らかに一線を画していた。
古典の美と身辺の日常を重ね合わせ、十七音の向うにある世界を考えたくなる詩的な表現。
独自のスタイル「蕉風」を確立。
そして彼は創作の旅を重ね、各地に多くのフォロワーを生んでいった。

では、ここからはアーティスト人生集大成となった紀行文『奥の細道』から、
俳聖の人間味が窺える一作にスポットを当ててみたい。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十五弾「市振(いちぶり)にて」。



『一家に 遊女もねたり 萩と月』
(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)

『奥の細道』には、この句に関する挿話が綴られている。

暑さに焼かれ、雨に打たれながら北陸街道の難所を越え、
ようやく辿り着いた「市振の関」(現/新潟県・糸魚川市・市振)。
疲れ果てた「芭蕉」は草鞋を脱ぎ、早々床に就いたが、
隣から聞こえてきた年老いた男と2人の若い女の会話が気になった。
女はどうやら越後の遊女。
一夜の契りを重ねる罪深い暮らしを嘆き、前世の因果応報を憂いているようだ。
その話を耳にしながら「芭蕉」はいつしか寝入ってしまうのだった。
夜が明けて支度をしていると、遊女たちが涙ながらに頼み込んでくる。
女だけの旅は心細い。
後追いで構わないから、随行させてもらえないだろうか。
気の毒に思わないではなかったが、所々で滞在することも多いからと申し出を辞退。
歩き始めたものの、後ろ髪を引かれる気持ちが残り一句を創った。

--- という事らしい。

名所旧跡「歌枕」以外を題材にした句は、どことなく艶っぽい。
耳をくすぐる襖越しの声。
未練を残した早朝の別れ。
袖触れ合った遊女は、容姿端麗だったのではないかと空想してしまう。
俳聖といえど美人に弱く、人情にほだされ、人恋しい男の顔が垣間見えるのだ。
そもそもこのエピソード、
「芭蕉」に帯同した弟子の日記に記録がないことから、フィクションとも考えられている。
楽しくも苦しみ多い旅に、作者が添えた「彩り」かもしれない。

季語は秋の七草の一つ「萩」。
また一語だけの「月」も秋の月を指す。
地球と38万km離れて寄り添う大きな天体は、夜空が澄む秋こそ存在感が増すからだ。
2つ以上の季語が同居する「季重なり」の訳は何だろう?
季節感を強調している。
萩と月が主従の対を成している。
そんな捉え方もできるが、個人的には遊女の「境遇」を表していると考える。

燃えたぎる発光体が空を支配する日中(ひなか)より、
清光を放つ反射体が宙に浮かぶ時間、夜の方が似合う。
また、小さな蝶に似たつつましく美しい萩の花も、
影を纏う女性にしっくりくるのだ。

西美濃への小旅行に起因する「芭蕉」関連投稿は続く。
同カテゴリーの次回をお楽しみに!

<付 記>

「芭蕉」が活躍した江戸時代、
5・7・5のリズムで編んだ十七音の短文定型詩は「俳諧」と言われていた。
「俳句」と呼び名を変えるのは明治以降なのだが、
今投稿は読み易さを考慮優先し「俳句」で統一した。
                        
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あの日のスイッチ。

2024年05月01日 10時00分00秒 | 日記
                            
本日(2024/05/01)「令和6年能登半島地震」発災から4ヶ月が経つ。
節目にあたり、各種メディアやネットで話題になる機会は少なくない。
当然だが、その露出回数、度合いは徐々に縮小している。
時は決して止まらず、何事も次第に過去へと押し流されてゆくのは避けようがない。
僕自身も以前に比べれば、地震について考えていない時間が増えた。

だが「あの日」--- 僕の心には「スイッチ」ができた。
「あの恐怖」を思い出させる真にもって厄介な装置である。
・何度も襲い掛かってくる大地の震え。
・何度も繰り返し耳にした大津波警報。
・音を立てて軋む中で物が倒れる光景。
・ただ無事を祈るしかない無力な自分。
--- それらの記憶は、呼び覚ますと少しだけ動悸を早くする。

『おい、忘れるんじゃねえぞ』

まるで普段は心の牢獄に閉じ込めた魔物が、そう囁いているかのようだ。
奥能登全域や、液状化が激しい隣町の比ではないが、
わが津幡町でも散見できる地震の爪痕に近づいた時などに、
突然スイッチが入ったりする。




(※津幡町内跨線橋のひび割れ 2024/04/28撮影)

令和6年4月末現在、
石川県内の避難者数内訳は、学校や公民館など1次避難所に2千人以上。
被災地から離れたホテルや旅館など2次避難所に2千人近く。
断水は、被害が大きかった奥能登のおよそ4千戸あまりを除き解消。
しかし家屋内の配管損傷が激しく通水できないケースが多い。
また、自治体が所有者に代わり建物を解体・撤去する「公費解体」は、
審査・申請があまり進んでいないという。


(※津幡町役場裏で給水に並ぶ行列 2024/01/05撮影)

さて、先日、輪島に住む知人女性と電話で話をした。
度々スマホに登録してある番号をタップしようとしたが、躊躇していた。
果たしてどんな状況にあるのか?
そもそも無事でいるのかどうか?
安否も確認できていなかったが、SNSが更新されているのを見て電話をかけた。
すると、今も避難所にいるとの事。
復興はおろか復旧にも程遠い暮らしぶり、発災からの心情を聞き、胸が痛んだ。

話を終える間際、
大変な状態に置かれているにも拘わらず---
『わざわざありがとう。嬉しかった。健康に気を付けて』
---と優しい言葉に落涙しそうになり、
慌てて素っ気なく電話を切ってしまった。
そして「スイッチ」が入った。

牢獄の鎖から解き放たれた魔物が、脳裏を暴れまわる。
周囲が揺れているような気がしたのは、そいつのせいばかりではない。
嗚咽を漏らす僕の身体が小刻みに震えていた。
                           
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小品、花曼荼羅。

2024年04月28日 16時31分31秒 | 日記
                              
本日(2024/04/28)は、本州付近に暖かい空気が流れ込み各地で気温が上昇。
全国的に「夏日」。
今年初の「真夏日」となったところも少なくない。
この先、明日・昭和の日も暑さが続く予報。
体が暑さに慣れていない時期は、熱中症に注意が必要と聞く。
最高気温が25℃程度でも体内の熱を放出しにくく、体調を崩す要因になり得る。
大型連休中は屋外で過ごす時間が長くなりがち。
お互いに熱中症対策を疎かにしたくないものだ。



さて、そんな陽気のお陰か---
津幡町内では「サツキツツジ」が盛りを迎えている。
名前からも分かる通り、本来の開花時期は皐月。
現在の暦では5月半ば以降にあたる。
撮影したのは今投稿の5日前。
一足早く咲いた格好だ。



何と鮮やかな紅(くれない)だろうか。
その主張の強い咲きっぷりは、
「花曼荼羅」とでも形容したくなるのである。
                
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企画展「あそびの道具」に寄せて。

2024年04月21日 13時13分13秒 | 日記
                    
わが津幡町の施設「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて、
企画展「あそびの道具」が始まった。

<昔から、土地の風土や文化に根付いた多くの玩具が作られてきました。
 縁起物として子供に買い与えられたり、身近な素材で作ったりと、
 玩具の文化から子供たちへのやさしいまなざしが感じられます。
 木製のコマやガラス製のおはじき、
 手作りの木馬やブリキ製のおもちゃなどが中心であった昭和時代。
 そして平成に入ると電子機器を利用した遊び・おもちゃの道具へと様変わりしてきました。
 今回は、大切に使われたおもちゃや手作りのおもちゃなど、
 貴重なものをお借りできました。
 主な展示品は、手作りおもちゃ、動かして遊ぶおもちゃ、カードゲームやミニカー、
 テレビゲームなど263点余です。
 懐かしいおもちゃや今でも使っている、遊んでいるおもちゃがあります。
 時代によっておもちゃを使った遊び方が違っていること、
 移り変わってきていることを感じていただければ幸いです。
 どうぞごゆっくりご覧ください。>

(※   >内、企画展リーフレットより引用/原文ママ)



上記のとおり、展示室内には昭和を中心に明治~平成と、
近現代150年に亘り町民が使ってきた玩具の数々が並ぶ。
来場者の年齢・人生のバックボーンにより、
感情や感慨を抱く対象、度合いは違う。
よって、今投稿は僕(りくすけ)個人の視点で、幾つか紹介してみたい。



画像奥が「任天堂ファミリーコンピューター」(昭和58年)。
手前に陣取るのは「任天堂スーパーファミコン」(平成2年)。
両機共に稼働していて体験可。
遊んだ思い出の多い方にとっては、過去を追体験できるだろう。
--- 僕は「直撃世代」という事になるのだろうが、正直余り馴染みはない。
ファミコンが世の中を席巻していた1980年代半ば~90年代初頭、
漫画や本、映画、お絵描き、旅などに時間を費やしていた。



「木製トラック」と「ブリキ製飛行機」(共に昭和30年代)。
僕の子供時代(昭和40年代)、類する玩具はあったが少数派の感。
おもちゃの素材は、ビニールやプラスチックなど石油由来がメイン。
ソフビ怪獣人形、プラモデル、レゴブロックなどが遊び相手だった。



「凧」と「ゴム動力模型飛行機」。
年代特定はされてないが、昭和少年の僕はコレでよく遊んだ。
どちらも天候・風に影響を受けた事をよく覚えている。
往時の遊び場は基本屋外。
田畑など空が開けた場所が多く、自動車の交通量も少なかったのだ。





ハンドメイド「複葉飛行機・スクーター・三輪車・自転車模型」(竹製)。
ハンドメイド旧海軍艦船模型(戦艦陸奥・駆逐艦朝霧/空母加賀・伊号潜水艦)。
この2つは、今展示の白眉。
完成品はもちろん、部品一つ一つに至るまで手作りなのだから恐れ入る。
僕には到底真似できない。
見て楽しむ意味で玩具に分類されるかもしれないが、立派な「作品」である。
微に入り細に亘って、暫くしげしげと見入ってしまった。



「東京名家名物入電車案内双六(すごろく)」(明治43年発行)。
広告を兼ねた沿線マップのようなものと推測。
中央「上り」が皇居ではなく「宮城」と表記されているのも「時代」なのである。

---と、ここで少し話題は逸れる。
上掲の双六が世に出た頃、こんな詩文が発表された。

【長二(ちょうじ)は貧乏の家に生まれて
 おもちゃも持たずに死んでしまった。
 美しいガラス張りの店頭(みせさき)に、
 西洋のぜいたくな小間物や、
 赤、紫に、塗ったゴムまりや
 ぴかぴかと顔の映る銀笛(ぎんてき)や、らっぱや、
 なんでも子供の好きそうなものが
 並べてあるのを見ると、
 店のガラス戸を砕いて
 それらのものをめちゃめちゃにたたき壊してやりたくなる。
 隣に住んでいた、
 あの貧しかった、哀れな長二のことを思い出したときに。】

(※  】内、「おもちゃ店」/作:小川未明)

幼くも熱い友情。
若さゆえの衝動。
貧富と格差社会。
硝子張りの憧れ。
西欧への劣等感。
短い文面に込めた光景は実に多彩だ。

「おもちゃ店」が読売新聞に掲載された明治40年(1907年)。
日本は日露戦争後の恐慌にあえいでいた。
国家予算数年分に相当する戦費と多大な犠牲を払い大国に辛勝したが、
見返りが少なく国内景気がダウン。
乱暴に言うなら---暗い時代である。
詩文の語り手と友人(長二)に象徴される当時の少年少女とって、
おもちゃは希望や光明に思えたのかもしれない。



--- 閑話休題 ---

「津幡ふるさと歴史館 れきしる」の企画展「あそびの道具」は、
この後、七夕(2024/07/07)まで開催。
もうすぐ大型連休もある。
時間と機会が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
同施設、直近は5月5日(日)ナイトミュージアムとして20時まで開館。
5月5日~11日は、児童福祉週間に即し親子来館は入場無料。
おススメである。
                       
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