山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

武田から徳川への変遷語る「蔵雲院」/「ぷぶふの日」②

2018-11-11 20:13:21 | 歴史・文化財

 次に向かった場所は、天方城主・天方通季(アマガタミチスエ)が1505年(永正2)開創した「蔵雲院」だった。禅の曹洞宗らしく境内はきれいに清掃されている。

                   

 立派な山門への道は急階段だった。石段はかなり老朽していたので迂回路から山門に向かう。山門前には「山門禁葷酒」(葷酒、山門に入るを許さず)の石碑があった。「葷酒」(クンシュ)とは臭みのある野菜・肉や酒の持ち込みを禁ずるもの。つまり、修行の邪魔になる刺激のあるものは通行できないという禅宗らしい掟だ。住職だった鈴木俊隆老師は、アメリカで禅を広め、アップル社のジョブスが彼の本を読んで影響を受けるなど、海外で有名だ。

     

 その足で、天方城主三代の墓を訪れる。中央に開創の天方通季、左右に通稙(ミチタネ)・通興(ミチオキ)の「宝篋印塔」が鎮座している。通興は今川家に忠節を尽くした関係で武田側についていたが家康側の軍門にくだる。通興の子「通綱」は、吉良上野介の三女を正室、家康の嫡男「信康」の自刃を介錯したことで有名だ。

                 

 境内には100年を越える大木を伐採した跡が残されている。むかしは鬱蒼とした木立に囲まれた山中にあったように思われた。寺の裏は真っ直ぐな杉林を上に見る。

 寺の高台から森町を一望する。連続する長い丘陵に圧巻される。とてもカメラには収まらない。近くにある天方城は武田・徳川軍の激しい攻防があったことで知られている。森町には参戦して討死した武将や兵士の塚があちこちある理由もわかった。家康も敗走したこの界隈で勝利を得られなければ徳川時代はなかったかもしれない。そんなつわものどもの血と汗と夢とが緑なす山間地に刻まれている。

 

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