宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

時は進んで

2005年12月31日 | Weblog
時差のためこちらはまだ30日ですが、間もなく今年が
終わる事、そして今年一年の自分や周囲を振り返る
と、慌しき中にも様々な変化を実感する一年となった
様に思います。

新しく迎える来年の個人的な予定、目標などは具体的に
考えていませんが、社会には子供に安全な社会の実現を
願います。

先日姉から届いたクリスマスカードと手紙に、子供の登下校時に
おける悩みが書かれていました。教師達だけで子供を守るには
限界があり、現在は可能な限り集団下校をさせていて、今後は
親達が常に付き添わねばならないという話しが出ているそうです。
その話題に紙数が多く割かれ、また朝元気に登校して行った子供が
帰宅せず、変わり果てた姿となって路上で発見されるかもしれない
としたら、不安を感じない親はいないであろうとも感じました。

そして彼女はアメリカの様なスクールバスの用意を願っているようです。
それは児童達の登下校中の安全を保証するでしょうが、日本の伝統的な
風景や文化に微妙な変化を与える事になるかもしれません。
わたくしは児童を狙う犯罪そのものがなくなる事を願っています。
コメント (4)

二つの湖

2005年12月30日 | Weblog
「死海は周囲から水は流れ込むものの出口がなく蒸発する
だけなので、長年月の間に少しずつ塩分の濃度が高まり、魚や
生物は一切棲めない文字通り死海になっているのに対して、
ほんの少し北にあるガリラヤ湖は、同じように周囲から水は
流れ込むものの何箇所か出口があるため、水はいつも循環
していて、清浄で魚や水草が生息しています。」

これは某メールマガジンで紹介されていました言葉ですが、
受け入れるばかりでなく、出すこと、与えることの必要を
教えている一つの表現であるそうです。
送り出す事なく受ける事のみではいずれ不毛となってしまうと
いう意味なのでしょう。息を吐き続けるだけでは生命を維持
出来ませんが、息を吸い込み続けるだけでも同様に維持する事は
不可能です…。

この言葉はわたくしにアシジの聖フランシスコの「我々は与える
から受け、赦すから赦され」の祈りを思い起こさせました。
また丁度"ホリデーシーズン"で物流の多い時期ですが、こうした
事を想起しますのも良い事かもしれない、と思いました。

そして何よりわたくし自身が"死海"になってはいないか、
省みる良い機会を提供されました様に感じます。
コメント (2)

「賽銭泥棒」

2005年12月29日 | Weblog







昨今は 東南アジア系の賽銭泥棒も出没しているという話しですが、

ふざけて賽銭泥棒をした後から 奇怪な現象が続いたので
賽銭を返した人がいるそうです。

以下 ネットに投稿されていた体験談のコピペです。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

十年以上前の3月、俺は高校を卒業したばかりだった。
取ったばかりの免許に浮かれて、兄貴の車であちこちを走り回っていた。

ある時、俺は2人の後輩を連れて深夜にドライブしていた。
グンマーに住んでたから峠道には事欠かない。
長野との境を走る峠を、当時はまっていた頭文字Dの真似をして攻めていた。

県境をまたいで長野に入ってしばらく行くと、道端に地蔵がたくさん並んでいた。
真っ暗な中に立ち並ぶ地蔵の群れは不気味な眺めだったけど、目につくものがあった。
脇道に見える鳥居と賽銭箱。
お供え物のまんじゅうや花があったから賽銭も入ってるんじゃないか?
そんなことを話しながら俺たちは路肩に車をとめた。3人で連れ立って車を降りた。
賽銭箱には錠前がかかっていたけど、賽銭箱自体は古びていたから壊せそうだった。
近くに落ちていた石を何度か叩きつけると賽銭箱は壊れた。
中身は全部かき集めると5000円近くになったと思う。
俺たちは上機嫌でその場を去った。
バカだったから、バチが当たるとかそういうことは考えもしなかった。


日が昇ってきたからドライブは終わりにして、金を3等分して持ち帰った。
一人頭1500円くらいか。確か、タバコを買って帰った。
兄貴が仕事に出るまでに車を返さないといけないから、
ガレージにとめて、俺は自分の部屋に直行してすぐ寝た。

目が覚めたのは昼頃だったと思う。
下の階からドンドンって物音がして起きた。
大の大人が地団駄を踏んでいるような音がずっと鳴ってた。
ドンドン!ドンッ!ドンドンドン!って感じで。
親も兄貴も仕事に行ってるはずの時間だった。
ペットの猫が暴れてんのかと思って見に行ったけど、呼んでも出てこない。
音をたどっても場所がわからなかった。
ドンッ!ドンドン!って鳴ってはいるんだけど、俺と一定の距離を開けて移動してる感じがした。
玄関の方で鳴ったと思って玄関に行ったら、今度は風呂の方から鳴る。
風呂の方を見に行ったら、今度は台所の方で鳴る。そんな感じ。

怖くなって家を出ようと思ったら電話が鳴った。
マジでビックリしたけど、ナンバーディスプレイには兄貴の会社の名前が出てた。
電話取ったら兄貴が『てめぇふざけんなよ!』っていきなり怒鳴ってきた。
『お前アレどこから盗んできたんだよ!気持ちわりぃな!ふざけんな!』
「は?何が」
『何がじゃねーよ!てめぇ俺の車でどこ行ったんだよ!?』
「いやだから何がだよ?」
『車に地蔵乗せたのてめーだろ!』



一瞬で血の気が引いた。
地蔵がいる峠に行ったことは兄貴には言ってない。
なんで地蔵?
車に乗ってる???
「いやちょっと待って、意味わかんねー、どういうこと?」
『とぼけんなよ!足元に地蔵載せただろ!?』
「ほんとにやってねーって!」
怒っている兄貴に事情を説明して、向こうの話も聞いた。
兄貴が言うには、助手席の足元にボロい地蔵が乗っていたらしい。
朝、出勤する時に気付いて降ろそうとしたけど、重くて持ち上がらず、
時間もないから仕方なくそのまま出勤したらしい。
もちろん俺はやってない。
後輩たちがそんなことをした様子もなかった。
第一、俺がガレージに車を戻した時には、確かに地蔵なんて乗ってなかった。
兄貴は俺の言い分を信じてくれなかった。
俺が悪ふざけでやったと思ってるようで、ずっと怒っていた。
「ちゃんと始末する」って言ったら、やっと電話を切ってくれた。

地団駄のような音は電話の最中もずっと続いてた。
ドンッ!ドンッ!ドンッ!!!て、少しずつ激しくなってた。



2人の後輩に電話した。とくに変わったことはないって言ってた。
なんで俺だけ…という気持ちで電話を切った。
家にいるのは耐えられないから、チャリで外に出て、公園で時間をつぶした。

夜になって兄貴が帰ってきた。俺の顔を見るなりひっぱたいてきた。
いつもだったら俺も応戦するけど、今日はそんな気になれなかった。
ドンドンって音は家族がいる時は鳴らなかった。

深夜、後輩2人を家に呼び出した。
2人は地蔵が乗ってる車を見て、「すげ~w」「いつの間にwww」なんて大笑いしてた。
俺の気持ちも知らずにのんきだった。
地蔵は重かった。2人がかりでやっと持ち上がる重さ。
「センパイこれ持てるとか怪力じゃねwww」とか言ってた。
この期に及んで信じてないらしい。

車から降ろした地蔵を、群れの端に戻した。
パクった賽銭も返したかったけど、もう使った後だったし、後輩も同様だったから、
俺が財布から5000円出して、壊れた賽銭箱に入れといた。
手をあわせて「すみませんでした、すみませんでした」って心の中で何回も謝った。

車で家に戻って、怖いから猫を抱いて寝た。
次の日から地団駄のような音はしなくなった。

金欲しさだろうが粋がってだろうが、賽銭泥棒はしないほうがいいぞ。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
コメント (2)

「風の精に祈る」

2005年12月28日 | Weblog





(ネオ・バベッタ)
ζ~(  `m´)~ζ 「…さて 西洋魔術の中で
            一般的に 風の天使や精霊を呼び出して願望を命じるという作業は

            すなわち 自己の風=奇魂の一部を削って
            風の精として 願望成就に働かせるという事になります。」


(ネオ・バベッタ)
ζ~(  `m´)~ζ 「…以下の方法は 風の象徴である
            鳥の羽根や 鳥の置物などを置いた祭壇を
            東側に設置して行う方法で
            自己の奇魂を引き出して 削る方法になりますが

            逆に 東や風を象徴する天使や精霊の図像を加えて
            灯明や香や供物を捧げて行えば
            自己の奇魂を増長させる事ができたり
            小さな願望であれば 奇魂を削らずに 奇魂に関する願望を叶える事ができます。」



★「東の精霊 風のいにしえの者よ
  我と繋がりたまえ
  我と共にまし この魔法円のうちにて我を守りたまえ。」


(ネオ・バベッタ)
ζ~(  `m´)~ζ 「…ここで祈願を行い
            終えたら 退去の許可を出します。」


★「東の精霊 風のいにしえの者よ
  我と繋がりたまいしにより 御身に感謝せん
  完全なる愛と 完全なる信頼のうちに去りたまえ。」
コメント

求めさえすれば…?

2005年12月27日 | Weblog


性的描写の頻出する某漫画が
映画化されるというニュースを見たためです。またそれに
よって女子小学生に読まれる漫画雑誌がレディースコミック、
もしくはそれ以上の内容になっている現状を知って驚きました。

こうした点について、単に道徳律に反する、不潔である、社会的
禁忌であるという意味においてではなく、別の面での問題を感じました。
特に小学生は様々な知識や言葉遣いを習得し、また思考や判断の基礎を
培う時期であると感じます。
昔の漫画は全てではありませんが、様々な知識や情報に溢れ、
知的好奇心を満たし、また漫画を離れての更なる研究、学習に向わせる
ものが多かった様に思います。
もしこうした時期に毎月ただのうっふん漫画ばかり目にするならば、性情報には
聡くなり、また近い将来にそうした行為に衝動的に駆り立てられるかもしれませんし、
またただ利用されるだけになる可能性も否定出来ませんが、それ以上の寄与する
ものが存在するかは疑問的です。

またネット上で一人の方が発言されておられました言葉に共感致しました。
「自信や自身がない少女達が物凄く増えていて、強く求められる事を愛情と
錯覚してしまうのではないか、ということです。で"強く求める"のごく簡単な形として、
"体"が描かれているんじゃないかなー、と。ほんとの"愛情"、"求める"って事は、
そういう事じゃないだろー、と思うんだけれど。こういうのを見ると、もっと自信と
自身を持って、自分を大事にしようよーと思うです。そんな形で"愛情"を感じるのは、
ごめんですー!」

わたくし個人としましては、単純に「無菌室培養」にしてしまう事にも問題を感じますが、
現在の流れは一部の方も指摘されておられますが、売れるために売るの商業至上主義
のためである様に思います。
人々が自主的に選択し行動しなければ、自ら思考し判断する事を放棄して、
単にそうした姿勢に追従するのみの零落した社会しか生み出さないと思うのですが…。
コメント

「紅欲帝明王の加持を受ける」

2005年12月26日 | Weblog


(紅欲帝明王)

紅欲帝明王は
チベット仏教のサキャ派の中で特に重視されている明王で

紅欲帝明王の加持を受ける事で
一切の魔が調伏され
悪縁が除かれ 善縁を増し
更に敬愛と寿を増すとされます。

愛染明王に非常に似ている明王で
同一の明王という説もありますが 未だ結論は出されていないようです。


(眞言)

「オン・タッキラジャ・ウン・パッタ。」


コメント

「平和のうちに生きる事を…」

2005年12月25日 | Weblog
本日夜中の教会に行きました。
照明を少し落とした聖堂内の沢山の蝋燭の
美しい火がとても印象的でした。
コメント

「地には善意の人に平和がありますように」

2005年12月24日 | Weblog
ローマ法王の今月の説教の中で、本来のクリスマスの精神が
ゆがめられてしまっていると指摘され、子供達に信仰を教える
効果的な手段として、各家庭においてキリストの生誕について
語り合い、ゆりかごを飾ってキリストが世界で最も貧しい所で
生まれた事を教える様に言われました。

我が家には飼葉桶の中に眠るキリストの像はありませんが、
"ホリデーシーズン"の商戦の時期の中で静かに貧しさについて
考える事も悪くない様に思いました。

今月特に驚きましたニュースと言えば、「極悪サンタ世界で
大暴れ!」でしょうか…。
「ドイツ南部のルートビヒスハーフェンでは17日、サンタ姿の
男が銃を持って家具店に押し入り、プレゼントではなく現金を袋に
詰め込んで逃走した。」
「同じドイツでは、北部のある町で制限速度50キロの車道を
150キロで走っていた"爆走サンタ"が警察に制止された。」
「スウェーデンでは火をつけた矢を放ち、建物に火をつけた
"放火サンタ"も。」

サンタクロースは聖ニコラウスがモデルと言われておりますが、
そのギャップに打ちのめされました…聖夜が平和である事を祈ります。
コメント (4)

「ボン教における 加持を願う祈祷文」

2005年12月23日 | Weblog




「行者鹵脈大楽界宮内(ぎょうじゃろみゃくたいらくがいきゅうない)
祈求恩情根本上師宝(きぐおんじょうこんぽんじょうしほう)
講明行者心是称為仏(こうみょうぎょうじゃしんぜしょういぶつ)
加持我們知見心性体(かじがもんちけんしんしょうたい)。」
コメント (2)

"私の口を開いて下さい"

2005年12月22日 | Weblog


キリスト教(カトリック)では祝日の前に式を行って、
精神的に準備をして祝日を迎える事があります。
コメント (2)