宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

ガーディアン・グリーン

2007年09月30日 | Weblog
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緑色に関して、某書では以下のように書かれています。
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古代エジプトでは、植物は枯れても、また再び芽を出し
成長するその姿を見て、死者は再生する神だと考え
られていました。
その神は、緑色をした顔をしており、ミイラを収めた
棺にも緑色を施したものが存在しています。

植物の回復力は、その葉緑素の緑色にあると考えられ
ました。
緑色は確かに、人の気持ちを落ち着かせ、安定した気分に
させます。
工場の室内が緑系の色で塗られるのはそのためです。

また非常口(非難口)の表示は世界共通の緑色が用いられて
います。
事故があってもパニックを抑え、本能的に緑色に進もうとする
心理を利用しています。
緑色を安全な色とするのは、植物の色にも原因があるのかも
しれません。
パニック時は赤色や黄色からは本能的危険を察知して、
遠ざかろうとします。

緑色は赤色の補色ですが、補色同士はハレーションを起こさせる
ほど、お互いが輝いて見えます。
この効果を利用して、赤い刺身や肉のそばに緑色を沿え、
刺身や肉を生き生きと見せようとしています。
赤色は肉体の色、そばに緑色があれば、肉体は生き生きと
してくるのです。
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魔女の哲学

2007年09月29日 | Weblog
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近年も「魔術」に関する本は出ていますが、どちらか
というと即物的に願いを叶える方法の紹介が非常に
多く、人間の実存の探究というものにはそれほど関心や
方向が向けられていないよう思います。
個人的にはそうした個人の願望成就にしか焦点を当てていない
本には少々食傷気味です。

これは80年代に出された、一冊の児童用の魔女の本から
です。
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「魔法というのは、おなじないで恋人を作ったりする事ばかりでは
ないのです。
むしろ、人間とは果たして一体何なのか、何のために生まれ、
どんな力を持っているのか、こうした事を考えてゆくのも
高等魔法の大きな課題となっています。

それではちょっと一緒に考えてみましょう。
人間はどこからきたか。
こういう質問に対しては、お母さんのお腹から、とすぐに答え
られます。
でもお母さんのお腹にあなたの生命が宿るという事は、実は
何億分の一という幸運なのです。
大学入試や就職試験など問題ではない競争率の中から、たった
一つの生命の灯がともるのです。

そして人間はたった一人で闇の空間から生まれてくるのです。
闇の中から光の中にやって来る時、人間は両手をしっかり握り
しめていますが、その中は空っぽです。
人間は何一つ生まれながらに身につけているものはありません。
あくまでも無一物で孤独です。
それから喜怒哀楽の人生を終え、いよいよ魂がその肉体を
離れる時、人間は闇の彼方へ何一つ持っていく事が出来ません。
富も名声も去り行く魂にはむなしいものです。

そうです。
人間は闇の中から光の中に、たった一人で来て、そしてまた、
闇の中にたった一人で帰って行くのです。
魂が闇の中にいる長さから比べれば、人間が生きている間など
ほんの短いものでしかありません。

よく私達はセミの生命の短いのを哀れみます。
一年以上も地の底にいて、やっと這い上がって空を飛び、辺りを
ゆるがすように鳴いたかと思うと、一週間もしないうちに死んでしまう。
そんなセミの一生を哀れに思います。

でもよく考えると、宇宙の営みの中ではセミの生命も人間の生命も
大差はありません。
セミにとっても人間にとっても闇の中にいる時の方が長いのです。
それがわかっているから、セミは力の限り鳴き通し、鳥は空を
飛び続けるのです。

私達人間も、この光の中にいる短い間をどう力一杯生きるか、
それが大きな課題です。
出来ればむなしい欲望の追及に走らず、自分の精神と知性を
鍛え、高い霊性を養うように心がけたいものです。

魔女は人間はどこから来て、どこへ行くのかを考える事によって、
どんな生き方をすればいいのかを学ぶのです。」

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ある通学路の話し

2007年09月28日 | Weblog
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今日読んで、不覚にも感動してしまった話です。

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会社のそばが小学生の通学路なんだが、子供達が一人を
いじめながら帰っていた。

「ハーゲハーゲ」

ハゲって言われた男の子は帽子を深くかぶってくやしそうに
していた。
俺がここで出て行って色々言うのも無粋だしなー、と思っていると
社長が出て行って、

「ハゲって俺のことか?うん?今ハゲって言ったな?」

と、ニヤニヤしながら子供たちに絡んでいる。

「違うよう、おじさんじゃないよ」
「いや、ハゲって言ったな。言ったよな」
「ごめんなさい」
「俺はハゲてても社長なんだぞ?」
「マジで社長!?」

子供達は急にしおらしくなって歩いていった。
いじめられてた子が涙をためたまま社長を見てニヤっと笑った。
小さい会社だけど、社長マジで尊敬してます。
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小天使と小悪魔

2007年09月27日 | Weblog
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某少女雑誌でのかつての妖精シリーズ・天使シリーズでは、
必ず善良な妖精の陰に悪い妖精や悪魔がいました。

善良な妖精が、心を美しく保ち努力している少女達を応援し、
力づける存在であるのに対し、悪い妖精は意地悪や嘘つきな
少女を好んでその心に住み着こうとするとか、人を怠惰に
誘うとか、そのような説明がありました。

画像の方は小天使シリーズの小悪魔のカードです。
向かって左側が暗い心をもたらすジグマ、右側が愛を壊す
ボーロンです。
それぞれの説明は以下のようにあります。
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【暗い心をもたらす小悪魔 ジグマ】

臆病で暗い部屋の隅でコソコソ生きているので、ジグマは
明るい人が大の苦手。
それでいつも堂々としている人を見かけると、その人に
嫌がらせをして、自分と同じように暗い心にしてやろうとするの。
イヤな事があったからといって、クヨクヨしているとジグマの
思うつぼ。
ケチで神経質でいつもビクビクして生きる人になっちゃうわ。

【愛を壊す小悪魔 ボーロン】

コウモリの羽でもの凄いスピードで飛び回り、あちこちにトラブルの
種を蒔くのが大好き。
ひねくれた心の持ち主をいらいらさせては、いじめや喧嘩、
争いをどんどん起こさせるの。
その上、仲良くしている友達同士や、愛しあっているカップルを
仲たがいさせてニンマリ。

ボーロンは"信じる心"が苦手なので、友達や恋人を信じる事を
忘れないでね。
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説明にはまた、「私達が良くない心でいたり、スキを見せたり
すると、ヒョイと不幸に陥れられますから注意しないといけない
ですね。」などとありました。

この絵の通りの小悪魔が実在するかはわかりませんが、言って
いる事は的を射ているように感じました。


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「帰ってきたパメラ」

2007年09月26日 | Weblog
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アメリカで仏教に関心を持つ人が少しずつ増えていると
いっても、わたくしが見ている中ではキリスト教文化の中で
育った西洋人にはまず「輪廻転生」という概念が受け入れ
られない人がやはり多いようです。
もしこの概念を受け入れる西洋人が一定の数にまで
達したら、西洋文化もまた異なる質を帯びるのでは
ないかと思います。

西洋人において、「輪廻転生」を説明する場合は、実際に
あった転生の確認の実例や例証を挙げて説明するという
事が多いようです。

これはわたくしが小学生時代に読んだ、60年代に胸に奇妙な
傷跡を持って生まれた英国の女児の話です。
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1961年イギリスのスコットランド地方にある小さな町、
バラターでの事です。
生まれたばかりの女の子の赤ちゃんを見て、父親は思わず
驚きの声をあげました。
赤ちゃんの左胸の心臓の辺りが、刃物で刺された傷のように
赤黒く盛り上がっていたのです。

赤ちゃんはサリーと名付けられ、病気もせずにスクスクと育ち
ました。

サリーが3歳になった頃、キッチンのテーブルでお絵かきをして
いました。
お母さんが絵をのぞいてみると、それは一本の木とその下に
ねている人のようでした。

『サリー、何を描いているの?』
『あたし、ここにいるの。森の中よ。
木の根元の深い所……』

それ以来、彼女に絵を描かせると、決まって同じ絵を描くのです。

しかし成長するに従って、そうした絵も描かなくなりました。
また左胸の傷跡のようなものは何度か病院で治療を受けても
消えませんでした。

サリーは12歳になりました。
ある日一人で町を歩いていると、30歳ぐらいの背の高い男と
すれ違いました。
サリーは全身に電流が走るようなショックを感じ、『デビット!』
と叫びました。

男は驚いて立ち止まり、サリーをふりかえってじっと見つめて、
『俺を呼んだ?君は誰?どこかで会ったような気がするけど…』
そう言いながらサリーに近づいて来ました。

サリーは『人違いでした、ごめんなさい!』と言ってその場を
逃げ出しましたが、突然左胸のアザが痛み出し、またなぜ
初めて会った人の名前がわかったのか、またとても恐ろしく
感じたのかはわかりませんでした。

その晩サリーはその男に左胸を刺される夢を見ました。
目が覚めると、自分がいつか彼に殺されるように感じて不安に
なりました。

次の日曜日、サリーは両親と一緒に教会に行きました。
礼拝を終えて外に出ると、あのデビットが道を歩いていました。
サリーはまた身体にショックを感じ、無意識に『デビット!』と
叫んでいました。

デビットが立ち止まり、二人の視線が合った時、また左胸が
痛み出しました。
またこれから先の事はサリーは全く憶えていません。

両親はびっくりしてサリーの様子を見ていました。
サリーはデビットを睨み付けています。
デビットか驚いたものの、無視して行こうとすると、サリーは
また『デビット!』と叫びました。

デビットは彼女に歩み寄り、『一体俺に何の用だ?』と言って、
肩をつかみました。
するとサリーは、
『私はパメラ、パメラ・オースチン…!』

デビットはそれを聞くと、ハッと手を離し、サリーを見つめました。
彼の顔はみるみるうちに青ざめていきました。

サリーは彼の鼻先に指を突きつけて、大声で叫びました。
『私はこの男に殺された!
12年前、ナイフで刺し殺された!私の死体は森の中に
埋められている!』

デビットの顔に脂汗が浮き出てきました。
かれはその場を逃げ出そうとした所、サリーがいきなり
教会の戸口に立てかけてあった草刈用の鎌を取り、
デビットに振り下ろしました。
鎌はデビットの肩に深々と刺さり、彼は悲鳴を上げて
その場に倒れました。
サリーは再び鎌を振り上げましたが、周囲の人間が必死に
なって取り押さえました。
サリーはしばらく魂が抜けたようなうつろな目をしていましたが、
しばらくして我に返りました。

デビットの傷は深かったのですが、幸い命に別状はありません
でした。
そこで彼は警察に呼ばれ、全てを自白しました。

デビットは12年前、別れ話のもつれから、恋人だったパメラ・
オースチンをナイフで刺殺し、森の中に埋めたのです。
彼の自白通り、パメラの死体は森にある大きな樫の木の
根元から発見されました。

デビットは警察にこう言ったそうです。
『パメラの胸にナイフを突き刺した時、彼女が"生まれ変わって
復讐してやる!"と叫んだ顔は今でも忘れられません。
あの女の子が鎌を振り上げ、襲ってきた時の顔は、まさに
パメラのあの顔でした。』

サリーは現在二児の母として、幸せに暮らしています。
左胸のアザは今でもうっすらと残っていますが、彼女はこう
語っています。

『小さい頃はこのアザが嫌でたまりませんでした。
でもあの事件があってから、人間の生まれ変わりの証拠として、
とても大切なものと思っています。
不思議な事に、パメラのお墓に行くと、今でも少し左胸が
痛みます…。』
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小さな天使

2007年09月25日 | Weblog
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某少女雑誌におけるシリーズで、過去に少女達の間に
小さな妖精ブームがあったものの、反対にこの「妖精
シリーズ」の終盤当たりに若干登場した「天使シリーズ」の
方は殆ど注目されないまま終わってしまったように
記憶しています。

画像の方は、その中の小天使の一人、「ヴェルベル」のカードです。
この天使シリーズの中で、「小天使」は一般の天使を大人と
すると、丁度「子供」に相当する存在と説明されています。

このシリーズの中で、(小)天使について説明されています。
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"てんし"という漢字は「天の使い」と書くでしょう?
その字の通り、天にいる神様の心を伝えたり、人間のお願い事を
神様に伝えたりという、お使いの役目についたのです。

人間は神様を直接見る事は出来ません。
恐れのあまりに死んでしまうからです。
だから、神様との間を取り持ってくれる存在がどうしても必要なのでした。

小天使達は、私達の精神面や生活面で、事細かに見守っています。
彼らは目には見えにくいでしょう。
でも、あなたが何かに頑張っている時は、必ずそばで応援して
いてくれます。
小天使達は頑張る人が大好きなんですもの。

カードに登場するのは、女の子ととても相性のいい小天使ばかり。
小天使とお友達になりましょう!
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80年代後半~90年代初頭に全盛を迎えたこの雑誌の妖精
シリーズも、90年代も中頃になると、時代も変わってあまり
注目されなくなったようです。

現在ではそうしたものの面影がないほどこの雑誌も変貌して
しまいましたが、90年代まではまだ妖精や天使が登場して
少女達に美しい心を保つ努力の必要という事を教えていました。

この「ヴェルベル」という小天使というのはわたくしにはあまり
わかりませんが、マイバースデイの本には以下のような説明が
ありました。

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【小さな試練を与える天使 ヴェルベル】

人間は、いい事ばかりでは成長しません。
時には苦しい事を乗り越えるのも、必要です。
ちょっぴり落ち込む事や残念な事を起こして、私達の心を
鍛えてくれる天使の一人がヴェルベルなの。

手に持つユリは試練に耐えようとする人の純粋な心を表して
いるの。
雨上がりの午後、窓からヴェルベルにお祈りすると、苦しい事に
耐える勇気が得られるはずよ。
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このカードの絵柄などは、わたくしから見て非常に90年代的
ですが、それでも言っている事などは正しいように感じます。
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猫のタロット

2007年09月24日 | Weblog

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日本ほどタロットや解説書が発売されている国も他にないのでは
と思います。

こちらアメリカでも大型書店などに行けば数種類か有名な
カードが置かれていますが、それでも日本に比べれば
ずっと少なく、またキリスト教から離脱する動きが加速し、
テレビ番組中でどこかの占い師がタロットを使用している
様な場合があっても、まだまだ「異端的な業」という認識が
根強く残っている様です。

日本では、現在はわかりませんが、少なくとも90年代までは、
しばしばタロットカードは少女雑誌や本などに付録としてくるほど
で、また店頭では専用の一角が設けられていたような事も
少なくなかったです。

タロットカードはそれぞれ一枚ずつ、決まった名前や象徴が
あって、各カードにはそれが描かれますが、日本の新しいものや
児童用のものでは、そうしたものを多少踏襲しながらも、
斬新なデザインや発想をカードの図柄に取り入れているような事も
あります。

画像のものは「猫のタロットカード」で、一つの本の付録でしたが、
人間を全て猫に置き換えてしまった、比較的珍しいものではないかと
思います。
画像の向かって左側のカードが「(0)愚者」で、右側が「(1)魔術師」
です。

この「愚者」と「魔術師」について一つの本には以下のような解説が
あります。
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その絵には袋を棒の先に通して担ぐ道化師の旅人の姿が
描かれている。
彼には昨日も今日もなく、そして明日もない。
ただひたすら永遠とも思われる荒野を旅してゆくのである。

人はその姿を眺めて、男を「愚者」あるいは「痴人」と呼んだ。
村里に近づけば犬が吠えついて、彼のズボンを噛み破るだろう。
しかし男はそんな事は意にも介さず、淡々として村を過ぎてゆく。

たまたま、人々は男の担いでいる袋の中身に興味を持つ事がある。
ある者は下らぬガラクタが入っていると言い、ある者は何処かで
見つけた金貨が詰まっていると言う。
またある者は、鉛を金に変える薬が入っているのさ、とも言う。

しかしその答えはいずれも的を射ていない。
例え人がその中をのぞいても、多分永久に何も発見出来ないだろう。
なぜなら男が担いでいる袋の中は空だからである。
ただ、むなしいその袋の中には、目には見えぬ、旅人のたった一つの
宝が入っている、
それには「失われた真実」という、この世における「0」の象徴である。

愚者と呼ばれる男の旅は続く。

あるカードでは、愚者は断崖に向かって晴れやかに歩を進めて
いる。
さよう、人々の輪を抜けて久遠の旅に出た男の運命は決して明るい
ものではあるまい。

この世の中で、知ってか知らずか「失われた真実を担ぐ旅人」の
一寸先は闇である。
人々から見れば男はその旅する「行為」によって愚かしく、宇宙
から見れば、未だ「求め得ぬ」事によって愚かしい存在なのだ。
愚者の旅、すなわち魔術師の旅はこうして続いてゆくのである。

タロットカードの「1」という札は、「魔術師」と呼ばれている。

しかしこの札の「魔術師」はこの世の中を手玉に取る男であり、
真の「魔術師」のあり方には遠い。
タロットカードの魔術師は、広範な知識と熟練した手管とによって、
世の中のあらゆる階層の人々を巧みに操ろうとする人物である。
魔術師すなわち、世間の目をたぶらかす手品師こそ、あなたの
一番身近に居て、一番もっともらしい話をする人物である。

もしあなたが魔術師というものに対して、今までのような世間
一般の先入観を持っているとしたら、是非この際、二つの
まなこをしっかり開いて、真偽のほどを見つめて欲しいと思う。

少なくともタロットカードに例をとるなら、愚者は愚者にあらず、
魔術師は魔術師にあらず……である。
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ベジタリアンバナナプリンレシピ

2007年09月23日 | Weblog

最近ミルクの代わりに豆乳を入れるミルクティーを
飲んでいますが、豆乳で出来るバナナプリンの
レシピを見つけたので、本日作ってみました。
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こないだラジかるでやってたバナナプリンが
メチャメチャ簡単でおいしかったよ。
ゼラチンも寒天も使わないのに
ホントに3分ぐらいで固まって驚いた。
フライパンに砂糖チョットと豆乳200cc入れて
ちょっとあたためて、
つぶしたバナナ1本入れて
チョイ混ぜたらすぐ火を止めて
カップに入れて終わり。

こんなカンジの作り方。
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豆乳は少し温める程度の温度がポイントのようで、
またバナナを加えてからも、あまりかき混ぜ過ぎない
方が良いようです。

卵や牛乳を使用しませんが確かに固まり、また
食し易いように感じました。




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ギリシャのベジタリアン白インゲン豆スープレシピ

2007年09月22日 | Weblog
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(材料)

白いんげん豆 450g
缶入りトマト 1缶
(みじん切)玉ねぎ 2個分
(みじん切り)セロリの葉 二分の一個分
(みじん切)パセリ 大さじ2
(みじん切)にんじん 3本分

オリーブオイル 五分の三カップ
塩・胡椒 適量

(作り方)
①一晩水につけた豆を洗って鍋に移し、水10カップを
加えて火にかけます。
煮立ったら弱火にして1時間煮込みます。
②更に残りの材料を加えて1時間煮込み、塩・胡椒で味を
調えて出来上がりです。
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こちらでは缶詰入りの豆を使用するのが一般的なので、
本日は缶入りの白いんげん豆を使用しました。

味は塩・胡椒だけですが、塩は精製塩ではなく自然塩を、
胡椒は普通のものではなく粗挽き胡椒を使用する方が
美味しいように思います。

ギリシャ料理という事ですが、日本人の口にも非常に
合っているように思いました。

 

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「永平清規」

2007年09月21日 | Weblog
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某書からです。
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中国に百丈禅師という僧がいて、かなり高齢であったが、
若い僧に混じって同じように作務をしていた。
しかし若い僧からみると老師が作務をしているのを気の毒で
見ていられない。
そこである朝。老師の掃除道具を隠してしまった。

老師の方は道具をさんざん探したものの見つからない。
仕方がなく座禅を組んで過ごした。
そうして朝食の時間となったが、老師は食事に手をつけようと
せず、こう言った。

『私は働かずに食べてよいという徳は持ち合わせていない。
だから一日仕事をしなかったので、一日食べないのは当然の
事だ。』
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個人的にはこうした話しから、西洋キリスト教での『働かざるもの
食うべからず』を思い出しますが、この『働かざるもの~』の
言葉は戦後、残念ながら特定の政治運動の思想において
都合よく利用されてしまったそうです。

現在は食事や飲食店の情報が氾濫していますが、一方『何故
食べるのか』という見方や問いかけは欠落しているように
感じます。

禅の中では食事に関する教えが多く、それを見ると食事の
重要性や心がけについて考えさせられます。
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『一つには功の多少を計り彼の来処を量る』

(功を計るとは、食事が自分の前に出されるまでにどれほど
多くの人々の手が加わっているかという、その苦労を推し量り
なさいという事であり、彼の来処を量るとは、その食べ物が
天地の恵みによるものである事を自覚しなさいという事。
食事は日常的なものなので、食事を支えているものについて
鈍感になりがちである。
しかしそのような態度は人々を怠慢の極みに引きずり降ろし、
煩悩の赴くがままの生活に埋没させてしまう。
人は誰でも仏性を備えているが、それを目覚めさせるためには
日常の物事に対して感謝の心をもって接する事が肝要なのである。)

『己が徳行の全欠をはからって供に応ず』

(供とは食事の事で、自分の修行のあり方が食事を頂くに相応しいか
どうかを反省しなさいという意味。
自分は一個の生命体であるが、食物も同じく尊い生命体である。
それを意識し、自分がその生命体を食べるのに相応しい生き方を
しているかどうかを考えて、行動し反省していくなら、それは自己を
高めていく事になる。)
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