いわゆる聖書「外典」「偽典」と呼ばれるものの中から予言を見つけ、
人類の行く末を読み取ろうといった記事や本は80年代ぐらいには多く、
そのため「外典」「偽典」というものへの関心も、オカルトの世界の中では
比較的高かったのですが、現在はオカルトの世界でも個人の開運と
商業的なもの、娯楽的なものが殆どになってしまい、聖書「外典」「偽典」に
関してもまず聞かなくなりました。
この聖書「外典」「偽典」について、「聖書の常識」という本の中で
山本七平氏はこのように説明されています。
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聖書は正典に対して、外典・偽典がある。
外典・偽典については、カトリックとプロテスタントとは規定の仕方が違う。
偽典といっても、別に「ニセモノ」という意味ではない。
ただ正典から外されたというだけで、読むと面白いものが多い。
だから、外典・偽典をあわせて典外書と呼ぶ方が妥当だろう。
理由はそれだけで、資料的な価値という点では、正典も典外書もあまり差はない。
これらすべてが聖書であって、どこで正典・典外書の線を引くかは、それぞれの
宗派、あるいは宗教の立場による。
………………
その「典外書」の一つに「バルクの黙示録」というものがあります。
これは一般的に、バビロンとユダヤの行く末、メシアと人間の罪の関係を
説いたものと言われますが、実はこの黙示録が人類の創生から終末までを
予告し、そしてバルクがフェルマという名の天使に導かれた天体の一つが月で、
世界の終末に月が大きく関わるという解釈が85年に一度発表された事が
ありました。
当時ノストラダムスの予言の解釈本のブームから、1999年に対する危機感が
煽られていましたが、それを85年の時点で否定し、黙示録の予言としての
解釈を試みるなど興味深い所もありますので、今回抄掲させて頂きます。
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【「終末」は間近に迫っている】
聖書は人類に対する神の計画書であり、いまだ未完結のシナリオ台本だったのである。
その底流には一貫して「終末思想」が流れている。
終末とは世の終わり、人類の滅亡と人々に信じられてきた。
しかも聖書だけでなく、仏教や回教でも同じように、終末について述べている。
どうやら大河の如き人類の歴史は、「終末」という形で、ジ・エンドになるらしい。
聖書は回りくどい表現で構成されており、終末についてはあまりストレートに
書かれてはいない。
しかし、極めつけと言える文もある。
「隠された奥義としての神の智恵は、神が私たちが受ける後の世の栄光のために、
世の始まらぬ先から定め置かれたものである。
目が見ず、耳が未だ聞かず、人の心に思い浮かばなかったことを、神は皆のために
あらかじめ備えられたのである。」
「われわれは今や神の子である。
主が現れる時、私たちは主に似る者になることを知っている。」
「あなた方に奥義を伝えよう。
私たちは全て眠り続けるのではない。
終わりのラッパの響きと共に、瞬く間に、一瞬のうちに変えられる。
この時、聖書の言葉が成就する。」
問題は、この終末がいつ起きるかだが、巷間流布されている1999年ではない事は
確かである。
この噂の元凶はノストラダムスであろうが、大体どんな占いや予言でも、
死期を明確に占うのはタブーである。
また聖書のどこを見ても、終末がいつ起きるのか具体的に書かれた箇所は、
当然とは言え、全くない。
キリストでさえもわからないと言っているのに、ノストラダムス風情に判るわけも
ないだろう。
ただ、終末が間近に迫っていることは間違いないようで、それを暗示する表現は
ある。
それも、1999年が何事もなく過ぎて、人々が「やはり何も起こらなかった。
だから予言などアテにならない」と安心した後になって、イキナリやって来るようである。
その最も判り易い記述は、「マタイの福音書」の中での、イエスと弟子の問答である。
「世の終わりには、どんな前兆がありますか?」
「世の多くの者が、自分がキリストだと名乗って人を惑わす。
多くの偽預言者が現われ人を惑わす。
不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。
戦争の噂も聞く。
民は民に、国は国に敵対し、またあちこちに飢饉や地震があるが、
これは産みの苦しみの始めである。
慌ててはいけない。
終わりは必ず起こるが、まだ終わりではない。
注意していなさい。
それから最後が来る。
その日、その時期は誰も知らない。
父のみが知っている。
終わりの日はノアの時のように、盗人のように突然来る。
2人の者が畑にいると1人は取り去られ、1人は残されるであろう。
イチジクの木は、枝が柔らかくなり、葉が出ると夏の近いことが判る。
目を覚ましていなさい。
その時は、あなた方には判らないからである。
終わりの時には、世の初めから現在に至るまで、かつてない、今後もないような
艱難が起きる。
もしその期間が縮められないのなら、救われる人は1人もいないであろう。
しかし選民のために、その期間は縮められるであろう。」
大事な事は、「その期間が縮められないのなら、救われる人は1人もいない。
しかし選民のために、その期間は縮められる。」と述べられている事である。
これは第3次世界大戦の勃発によって、そのまま放っておけば人類は全滅の
危機にさらされる。
つまり、救われる者は1人もいない。
そのため、地球外超知性体の介入によって戦争の期間が縮められ、
選民が行われる。
以上のような意味としか考えられない。
「終末」が迫りつつあることは、「バルクの黙示録」でもハッキリ判る。
バルクは人類の創生から終末に至る歴史上の大きな出来事を、
12の区切り(澄んだ水と黒い水が交互に流れる)でもって神から啓示されたのである。
「外典・偽典」と言っても、その内容は軽視できない。
正典では暗示的に述べられているにせよ、具体的な記述が皆無の出来事が、
「外典・偽典」ではズバリと述べられているからである。
例えば「バルクの黙示録」には、ヒトラーのユダヤ人抹殺計画がはっきりと記述
されている(12の水が年代順になっているので、間違いは無い)。
その「バルクの黙示録」の最後の12の水の意味はこうである(第68章)。
「君が見た、澄んだ第12の水の意味はこうである。
その後、君の民は苦境に陥り、こぞって全滅の危機にさらされる時が来る。
だが彼らは救われ、敵は彼らの目前で倒れるであろう。
そして皆は大きな喜びに浸るであろう。
シオンはほどなく再建され、昔ほど賑やかでないにせよ、祭司たちは勤めに
戻るであろう。
その後に来る黒い水についての解釈を聞くがよい。
見よ、世界の時が熟する時がやって来る。
主による、種の収穫の時が到来する。」
シオンもほどなく再建された(現在のイスラエル再建は1948年)。
人類の終末は、そのわずか後に来ると述べられているのである。
【人類にとっての成人の儀式】
しかし直感的におかしいと思うのは、唯一至高の神が、人類滅亡という悲劇的なことを、
頼みもしないのに、なぜ我々に教えようとするのかという事である。
これでは神の非情さを恨むだけではないか。
そんな仕打ちの一方で、なぜ神に対する敬虔さ、心のあり方などを
説かねばならないのだろう。
これは根本的に変である。
こうした疑問が生じるのは、終末を人類滅亡と考えるからである。
聖書の神が地球外超知性体ということと、彼らが人類を絶えず監視してきたという
事実を考え合わせれば、疑問は氷解する。
地球外超知性体は、なぜ監視していたのか、
人類がサナギの状態で滅亡することのないように、その成長を見守っていたのだ。
なぜ人類が滅亡しては困るのか。
植えつけた種が、時期が来て大輪の花を咲かせられるようにである。
つまり立派な大人になって、超知性体の仲間入りが出来るようにと思っての事である。
その成人の儀式こそが、「終末」なのである。
このような視点を元に聖書を通読すると、そこには明確な意図が貫かれている事に
気づくはずである。
つまり聖書とは人類のルーツである神(地球外超知性体)によってなされる、
人類が成人式を迎えるための心構えを説いた書ということだ。
成人式によって、マユ(地球)にくるまっていたサナギの時代に終わりを告げ、
毛虫から蝶に変態するように、閉ざされていた人の本来の機能が全開される。
つまり、「終末」とは人類の「滅亡」ではなく、「再生」なのである。
聖書ではそれを、「女性が子を産む苦しみ」に例え、「その後に大きな喜びが来る」と
強調しているが、これはそのような意味だったのだ。
むろん終末に際しては、人類始まって以来の試練が待ち構えている。
時期は近未来、淘汰される人類は3分の2に達する。
淘汰されずに成人式を迎えるにはどうすればよいか。
それを説いているのが聖書である。
聖書では、「神の国の価値観は、あなた方と根本から異なる」と再三に渡って
述べている。
その基準はよく判らないが、「富める者、おごり高ぶる者、嘘言を吐く者が
神の国入るには、ラクダが針の穴をくぐるよりも難しい」というから、
今の日本の政治家など、全部失格だろう。
いずれにせよ、「旅の恥はかき捨て」的に現世を生きていては、大きな
しっぺ返しが来るのは間違いないようだ。
こう見て来ると、マユに例えられた地球は、どうも病院の心地よい保育器でも
なさそうである。
われわれは、毒草や雑草の繁茂する畑にわざと種を植え付けられ、
正常に育つか、枯れてしまうかどうか、試されているようなものと言える。
聖書ではそれを、次のように端的に述べている。
「毒草も麦も、収穫までにそのままにしておく。
収穫の時、毒草は束にして焼き、麦は倉に入れよう。
収穫とは、世の終わりのことである。」
神が人類を育成する手法は、人が子を育てるやり方とは根本的に異なるようだ。
園芸に、「飢餓栽培」という手法がある。
若芽のうちは、枯死しない程度にギリギリの水を与えるもので、こうする事によって
根はシカと生え、幹もドッシリと太くなり、多少の風水害にも負けない、
強靭な抵抗力がつく。
人類は、この「飢餓栽培」に近いやり方をされていると思えばよい。
それも、精神面での「飢餓栽培」で、世の悪に負けず、人以上に人生を
悩み苦しんでこそ、道が開けると教えているのが、聖書や仏教書である。
過保護極まる今の子育てでは、モヤシっ子のような、抵抗力のない若者が
多くなるのも仕方あるまい。
どっちが真に子を思う親の愛情かは、改めて言うまでもないだろう。
「イザヤ書」に次の章句がある。
「人の子よ、彼(預言者たち)の見る幻は、多くの日の後に起こることである。
それゆえ彼らに言え。
主の言葉は延びない。
主の語る言葉は必ず成就する。
私は終わりのことを初めから告げ、未だなされていないことを昔から
告げて言う。
私のはかりごとは必ず成り、目的はことごとく成し遂げる。
私は語ったゆえ、必ず来させる。
わたしははかったゆえ、必ず行う。」
終末は必ず訪れる。
だがそれは「人類滅亡」ではなく、「再生」なのである。
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「2010.11.23「尖閣諸島を守ろう!」神戸デモ&UFO?」
http://www.youtube.com/watch?v=ogb9uV51dbw
今月23日の神戸デモの様子です。
参加者の皆さん、御疲れさまでした。
途中空に、小さな円盤のようなものが映っています。
………………
12.1 国会・首相官邸包囲&倒閣宣言!国民行動
http://www.youtube.com/watch?v=whkZIpP0cJY
………………
16日午前8時45分ごろ、神戸市兵庫区兵庫町の国道2号で、
オートバイで通勤中の神戸海上保安部職員、
東尚平さん(20)=同市兵庫区=がトラックと接触して転倒した。
東さんは左足を打つなどして軽傷。
トラックはそのまま逃走し、兵庫署はひき逃げ事件として捜査している。
同署によると、東さんのオートバイに、後方から走ってきたトラックが
追い抜きざまに接触したという。
東さんは、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突をめぐる映像流出事件で、
映像の投稿を告白した主任航海士が乗船していた巡視艇「うらなみ」の乗組員。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/101116/dst1011161222004-n1.htm