ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

ヴァイニング夫人の教え

2015-01-12 16:40:00 | 皇室報道

 4月4日にオフ会・・・というか、講演会を予定しております。

テーマは「女帝と11宮家」です。

過去2度のオフ会に参加された方は、今までの形式とちょっと変わるので違和感あるかも。

でも絶対に後悔させませんので、参加希望の方はメールをください。

その際は返信できるアドレスを必ず添付して下さいね

さて。

土曜日にBS系で「秘蔵写真で見る天皇皇后両陛下」とかいう番組をやっていて

何気なく録画して何気なく見ていました。

今まで放送された皇室特番の切り貼りみたいな内容でした。

でも、大きなテーマは「天皇陛下とヴァイニング夫人」だったようです。

戦時中、那須に疎開していた陛下が飢えに苦しみながら敗戦を知り

「父が戦犯になるかも」という恐怖の中で過ごし、やがてヴァイニング夫人に出会って

「民主主義への扉」を開いていった・・・というような内容でした。

 

今まで何度も見て来た映像や話だったので、さほど興味なく聞いていたのですが

次第に「何かおかしくないですか?」という気持ちになってきて。

私達はマスコミの手によって、かなり長い間印象操作されてきたんだなあと。

 

 ヴァイニング夫人はクエーカー教徒。GHQに請われて来日。

皇太子の教育を受け持つ事に。

皇太子に「ジミー」という名前をつけて呼んだ・・・という有名な話がありますが

彼女的には「教室の中にいる時だけは皇太子という身分を忘れて自由に生きて欲しい」という

思いがあったようです

 

 ヴァイニング夫人の教え

THINK FOR YOURSELVES (自分で考えよ)

彼女の目に皇太子は他力本願的に見えたようです。

橋本明氏の言葉

皇太子は侍従の顔をちらちらみていた。

どう答えたらいいか確認していた。

それを見た時、ヴァイニング夫人は「これじゃだめだ」と。

自由に考え、自由に判断し。自由に行動するという自主性を重んじだ」

ヴァイニング夫人のキーワード「自由」ですが

これは戦後の民主主義の最大思想であったと思います。

けれど、「自由」というのは「個人」が確立されていなければありえない思想です。

そして「個人」を確立するには親なり回りの価値観に学ぶ事も多いのです。

そう思ってみると

 皇太子が侍従の顔を見たのは「自分が間違った事を言ったりしたりしていないか」の確認

 なぜなら皇太子は間違ってはいけないからです。

  将来の天皇としてどう振る舞ったらいいか、それを教えてくれるのは侍従なり大夫なりです。

  何度もそういう事を繰り返して、やがて一つの「自由」を確立する筈だった。

  だけど、ヴァイニング夫人は、まだ小学生か中学生の子供に「自由に考え自由に判断し

  自由に行動せよ」と教えたわけですね。

  今まで子というのは親に従い、親の教えを受け、それに従う教育をされたいたのに

  いきなり「自由にせよ」と言われたらどうなるでしょうか。

 アメリカにおける「自由」は「個人としてどのように生きても構わない」という事です。

  しかし、皇太子は「天皇になる」という義務を持っている。

  伝統を継承していくという義務もある。

  そこに「自由に判断して自由に行動しろ」という思想は危険ではありませんか?

  要は「好きで天皇家に生まれたわけじゃない。自分は人生のレールを決められている

  可哀想な人間だ。人間なら自分が将来どう生きるか、自分で考えて自分で行動すべき。

  天皇になりたくないなら、ならなくてもいいのではないか

  と、教えられたのではないかと思うのです。

 

 「皇太子の窓」

ヴァイニング夫人が書いた「皇太子の窓」という本に、こんな記述があるそうです。

天皇のご一家が、お堀のうちに一緒に住んでいらっしゃらないという事実を知ったのは

私にとって一つの驚きであった

ここでまた橋本明氏の回想が入ります。

ヴァイニング夫人にその当時の話を聞いたそうです。

ヴァイニング夫人は葉山に静養中の昭和天皇を訪ねて、直接

「なぜ一緒に住まないのか」と聞いたそうです。

その時の昭和天皇の言葉は

あなたのおっしゃる事はわかります。

私はあの戦争の開始を阻止する事ができなかった人間です。

こんな人間に父親として子供を教える資格はありません」

橋本さんは、これを聞いた時「おかしい」と思わなかったのでしょうか?

私は「おかしい」と思いましたよ。

 

 皇居に一緒に住まない理由

これは単に「身分が違うから」としか言いようがない筈なんです。

戦前、内親王方は「呉竹寮」に、皇太子と義宮はそれぞれの御殿に住み

専任に侍従や内舎人に囲まれていました。

香淳皇后はお子様を産むと、ある程度までは自分で御育てになっていました。

別に美智子妃が最初という事ではなく。

「天皇」「皇太子」「親王」として最初から独立して育てられた・・・と考えるべきではないかと。

それを一般家庭のように

「一緒に住んで一緒に食べて一緒に寝るのが幸せ」と教えたのがヴァイニング夫人です。

 

 昭和天皇の答え

これは・・・私の勘ですけど、別な問いに対する答えだったのではないかと思っています。

ヴァイニング 「私はGHQに請われ、皇太子殿下の教育を任されました。

         最善を尽くしますが、本来、息子の教育を担うのは父親の役目ではありませんか。

         陛下も父親として皇太子殿下に教えて頂きたい」

昭和天皇 「私はあの戦争の開始を阻止する事は出来なかった人間です。

        こんな人間に父親として子供を教える資格はありません」

これならすっきりするでしょう?

通常「なぜ一緒に住まないのですか」と聞かれたら「それが慣習ですから」と答えるに

決まっていたのです。

「慣習」と言われたらヴァイニング夫人だって「それは間違っている」とは言いづらい。

いえ、もしかしたら「それは間違った慣習です」と言ってしまったのかもしれません。

でもそれはアメリカ人としての価値観の「押しつけ」に他ならないわけで

昭和天皇の言葉は非常に練られています。

これは夫人への答えというより「アメリカへの答え」だったのではないかと。

ヴァイニング夫人の後ろにはGHQ、すなわち、アメリカがいるわけですから

下手に答えたら密告されて、拘束されてしまうかも。

そう思った昭和天皇はわざと「開戦を阻止できなかった」とおっしゃったのです。

 

ナレーションでは、橋本さんの感想として

「昭和天皇は開戦の責任を感じていると思った」とつづられています。

 

とにもかくにも、皇太子は新しい「価値観」に出会って、「自分は不幸だ」と思っただろうと

いう事は十分にありえます。

私が物心ついたころには、昭和天皇はもうおじいちゃま、皇太子は中年になっていた

わけですけど、たまに儀式等で顔を合わせる二人に「親子の親密感」を感じた事は

一度もありませんでした

でもそれは「皇室だから仕方ないんだろうな」と思っていました。

昭和天皇と皇太子の間に漂う微妙な空気感。

今思えば、それは立場の違いというより、思想の違いだったのかなと思っています。

正直、大葬の礼の時、

 

明仁謹んで御父昭和天皇の御霊に申し上げます。

崩御あそばされてより、哀痛は尽きることなく、温容はまのあたりに在ってひとときも忘れることができません。

櫬殿(しんでん)に、また殯宮(ひんきゅう)におまつり申し上げ、霊前にぬかずいて涙すること四十余日、

無常の時は流れて、はや斂葬の日を迎え、轜車にしたがって、今ここにまいりました。

顧みれば、さきに御病あつくなられるや、

御平癒を祈るあまたの人々の真心が国の内外から寄せられました。

今また葬儀にあたり、国内各界の代表はもとより、世界各国、国際機関を代表する人々が集い、

おわかれのかなしみを共にいたしております。

皇位に在られること六十有余年、ひたすら国民の幸福と平和を祈念され、

未曾有の昭和激動の時代を、国民と苦楽を共にしつつ歩まれた御姿は、

永く人々の胸に生き続けることと存じます。こよなく慈しまれた山川に、草木に、

春の色はようやくかえろうとするこのとき、空しく幽明を隔てて、今を思い、昔をしのび、

追慕の情はいよいよ切なるものがあります。誠にかなしみの極みであります」

と御誅を読まれた時は「やっぱり親子なんだな」と感じたくらいで。

っていうか、明治も大正も、この「御誅(おんるい)」は形式として同じような事を

おっしゃるわけですが。

今上は文語調ではなく、口語体で話されたのでした。

 

 美智子妃との結婚

 正式な婚約発表の10日前、ニューズウイークが報じる

ここらへんは小和田雅子氏との婚約が決まった時とよく似ているというか。

反対勢力に有無を言わさない為には、報道協定を持たない外国から

流して貰って「既成事実」を作ってしまうというやり方でしょうか。

 

 美智子妃のお考え

昭和35年9月19日、生後9か月の浩宮を残して訪米される皇太子夫妻の記者会見が

ありました。

この映像を流す前にナレーションでは

美智子さまは子育てと公務の両立という難しい問題を抱えていらっしゃった」と流れました。

だけど、昭和の時代、皇太子夫妻が「子育てと公務の両立」で悩んでいた・・・とは

全く感じた事はありません

だって、東宮御所には沢山の女官や侍従や傅育官がいましたから。

浩宮も礼宮も紀宮も両親と一緒の時より、お付の人と一緒に公の席に出る事の方が

多かったでしょう。

今の東宮家みたいに、狭い車の中に無理やり3人が横並びなんてありえなかったのです。

両立に悩んでいたわりには、教育方針はきっちりと持っていらして、回りは全部

その通りに動いていたと思いますけど。

 

まあ、それはいいとして。

この記者会見で美智子妃はこうおっしゃっています。

一番大切な事は、負かい愛情と忍耐とを持って子供の心を大事に大事に

育てていく事だと思います。

私は何よりも、やはり本人が幸せになってくれることを一番望んでおります」

当時は「ご立派だなあ」と聞いていたこのセリフ、今、50を迎えた私が聞くと

何やら胸がざわつきます

この時、美智子妃は多分25歳か26歳くらいですよね。

最初の子供を産んでまだ9か月目。

何を偉そうに言っているんだよーーって・・・(笑)すみません。

普通なら、初めての育児に右往左往して「回りの意見を聞きつつ」とかおっしゃれば

可愛げがあるものを、育児のプロみたいなおっしゃり方をするので。

しかも、「本人が幸せになってくれる事を」とおっしゃっている。

将来の天皇を育てるというより、一般家庭の子供を育てているのと同じ事を

お考えになっていらっしゃるわけで。

「預かれる玉」と歌に詠んだんだけどな・・・・・と私などは思いました。

私はここに、形は違うけど雅子妃と同じメンタリティを感じてしまうんですよね。

すみません。

 

「将来の天皇」を育てるというのは、非常に責任が大きいし、「本人が幸せであれば」

などと軽々しく言えるものではない筈。

美智子妃のこの言葉を聞いて、当時の昭和天皇と香淳皇后はど思ったかなと。

 

結果的に現在の皇太子は「本人が幸せであればそれでいい」状態になっているわけですし。

皇太子の心の中からは「将来の天皇」としての意識がすっぽり抜け落ちてしまっています。

 

最後のナレーションは

家庭のぬくもりを知らなかった一人の少年が幸せな家庭を築いている事に

(ヴァイニング夫人は)喜んでいた」

というものでした。

これを聞いた多くの国民はあらためて「天皇とは孤独」と思ったでしょうし

今上が幼い頃は家庭のぬくもりを知らず、不幸で可哀想な少年だったんだなと思った筈。

こうやって「印象」は「操作」されているのでした。

 

 

コメント (17)
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