2026年10月20日 美智子皇后誕生日行事を欠席
2006年10月20日。その日は皇后様のお誕生日でした。
各皇族は参内し、お祝い申し上げ東宮家と秋篠宮家は夕食会にも招かれていました。
東宮家は最初、3人で参内する予定だったのですが、実際に現れたのは皇太子様一人。
あまりの事に、皇后様はいたく失望され「どうしたの」とお聞きになりました。
「雅子は喪中なので失礼します。愛子は幼稚園の行事が続いて疲れたみたいで」
しらっとそういう皇太子様に、誰もが怒りを抱きました。
というのも、愛子内親王はちゃんとその日は幼稚園に行っていたからです。
雅子様としては「もし愛子と皇太子だけで参内させたら私についてあれこれ聞くかもしれない。悪口を吹き込むかもしれない」
そう思うとたまらなかったので、内親王も行かせなかったのです。
そうだろうなというのは、両陛下にも宮家にもわかってはいた事です。
でもこの世で孫に会いたくない祖父母がいるでしょうか。
雅子様はついこの間、江頭家のおじい様を亡くされました。
オランダでは小和田家のご両親に内親王を預けたりされていました。
なのに両陛下にはほとんど会わせないのです。
愛子様は5歳。本来であれば着袴の儀をなさらなくてはいけません。
しかし、そのスケジュールについて、皇后陛下が何度尋ねようとも返事もしなければ、ご相談もしませんでした。
仕方なく皇后陛下はお誕生日の文書で「愛子の可愛い着袴の姿を見る事ができるでしょう」と書き、やっと回りも「そう言えば・・・」と思ったのです。
すでに、内親王には両陛下より装束を賜っていました。
けれど、こういう儀式が大嫌いな雅子様はずっとほおっていたのです。
雅子様にとって「儀式」「習わし」「しきたり」は禁句でしかありません。
なぜなら準備が面倒なのと手順を覚える事が出来ないからです。
週刊誌は散々「愛子さまを天皇に」と書いているのですから、それを考えれば着袴の儀を盛大にすればより箔漬けになる筈です。
けれど、着袴の儀は神事で、内親王がそれを出来るとはとても思えませんし、ぎゃあぎゃあ嫌がる娘に無理に装束を着せるのも嫌でした。
お祝いをしてくれた方々に配るボンボニエールなどを選ぶのも嫌いで、出来ればスルーしていたかったのです。
お誕生日に参内しなかったのはそういう理由もありました。
けれど、皇后様の方が一枚上手で、これは必ずやらなくてはいけないという事になってしまいました。
それを小和田家に相談すると
「あら、盛大にやったらいいわ。姫の装束ってえびちゃで地味よね。本番ではそれを着せるとしても、皇居に行く時くらいはもっと可愛いのにすればいいわ。おばあちゃまが見立ててあげるわよ」
と母君は大乗り気になってしまいました。
2006年11月7日 着袴の儀習礼
そして、とうとう着袴の儀の習礼の映像を残す事になりました。
内親王の袴は未婚の場合は濃き色、既婚は赤と決まっています。
福迫他、沢山の女官の手を借りて着付けを行うのですが、古くからの女官があまりいなくなっている東宮御所では、その手順を行う事が大変でした。
おまけに内親王は黙っている事が出来ず、身体をくねくねさせたり、叫んだり、ぶつぶつ言ったり、走りだそうとしたりとそれはもう大変な事でした。
漸く、1枚の写真は撮影出来たのですが、すぐに体が崩れてしまいます。
それでもまあ、金屏風の前で両陛下からプレゼントされた装束と檜扇を持って立つ娘はそれなりに可愛らしく、威厳があるような気がします。
2006年11月11日 内親王着袴の儀
そして本番が来ました。
親王の場合は碁盤から飛び降りますが、内親王はそれをしません。
この時も神事に向かう為の着替えに手間取り、うまくいかなかったのですが撮影されるわけでもなかったので、そこらへんは適当にと言いました。
そして、無事に着袴の儀を終えた事報告する為、両陛下にご挨拶する時、愛子様が着ていたのは費用は東宮、デザインは小和田の母君と雅子様で決めた前代未聞の「道中着」でした。
下の袴は濃き色に見えますが、染めが安っぽく、上着は蛍光色のピンクに裏地が黄色という、何ともコスチューム感満載のもので、得意気に見せてはいましたが、いわゆる「古典色」とは別物です。
見る人が見れば「これは・・・」と思う筈です。
しかも、一緒に参内する雅子様はシルクとはいえスーツでした。
こういう時はローブモンタントでなければいけないのに、裾長ドレスは気にくいとPTAスーツになってしまったのでした。
愛子内親王の装束に両陛下は驚き、特に着物にうるさい皇后陛下はまたも失望させられました。
でも何よりも哀れなのは、自分の娘が安物のまがい物を着ているというのに、全くそれに気づかずにこにこ笑っている皇太子殿下です。
皇太子様はきちんとモーンニングを着用しているのに、雅子様はPTAスーツ。いつまでたってもTPOがわからない嫁に、ひたすらため息しか出ない皇后陛下。
それでも、皇后様は慈愛の人ですので、突き放したり𠮟りつけたりはなさいません。
やさしく「可愛いわね。愛子。気に入ったの?どう?」と優しく語りかけられました。
内親王はなぜ自分がここにいるのかさっぱりわからず、ぽかんとしています。
(この子は一生皇室で面倒を見なければ)皇后さまはそう思いました。
頭には「ねむの木」学園や旭出学園の子供達の姿が浮かんでいたのです。
2006年11月17日 多摩動物園遠足
オランダから帰国すれば、公務復帰されるだろうと期待された雅子様でしたが、そんな約束はしていないとの如く、生活はどんどん愛子様中心になり、公務にはお出にならなくなりました。
雅子様は愛子様と一緒に遠足や芋ほりを経験する度に、自分の子供時代を取り戻しているような気がしてとても楽しいのです。
国民の為とか、国家の為とかそんな話は雅子さまには通じません。
皇室に入って皇太子妃という立場なのだから、その地位を使ってより有利に物事を運びたいと思うばかりです。
遠足にもついていくし、送り迎えもされるし、ママ友たちとお茶もする。
そんな「専業主婦」のような生活が好き・・・とはいっても雅子様は家事はなさいませんし、育児とはいっても、内親王の面倒は福迫出仕が見ていますので、いわば「ママごっこ」のようなものでした。
2006年12月1日 愛子内親王5歳
2006年12月9日 雅子妃43歳
雅子さまは12月9日に43歳のお誕生日を迎えました。
実は、お誕生日文書というのはお誕生日の朝1番に新聞に載るように事前に手渡されます。
つまり12月7日にはマスコミの手に渡っていなくてはならないのです。
しかし、その年は違いました。
7日が終わっても手渡されず、8日になってやっと渡されたのです。
雅子様が文書を大幅に書き直しているのではないか、具合が悪いのではないか・・・等々憶測が飛び交いましたが、書き直しというより、締め切りを護れない雅子様は7日の夜になって書き始めたというのが正直なところです。
ご優秀な雅子様はコミュニケーションをとる事が苦手であると同時に、文章を書くことも苦手です。実際、あまり本を読まないし、自分の心を正直に文章にする事も、飾る事も出来ません。
ゆえに大野医師による「認知行動療法」はさっぱり進みません。
そもそもご自分を客観視する事が出来ないのです。
国民は40年ぶりの「親王殿下」誕生になにかしらコメントがあるだろうと楽しみにしていたのですが、雅子様の文書は「愛子にも可愛いいとこが増えました」とだけ触れました。
そして恒例の医師団見解は
「妃殿下におかれましては、徐々にではありますがご快復に向かわれており、今後も焦ることなくひとつひとつ可能な活動を積み重ねていただくことが重要だと考えております。
今年は、まだ体調に波がおありの中、日常のご活動に加えて、オランダのご静養や奈良県への地方行啓など、活動の範囲を広げるようにご努力いただいたことは、治療を進めるうえでとても有意義でありました。
また、今年から愛子内親王殿下のご通園が始まりましたが、幼稚園生活をはじめとして育児に心を配られていることは、妃殿下の心身のご健康にとっても大きな意味があるものと考えております。
なお、妃殿下のご活動の幅はこのように広がってきてはいらっしゃいますが、ご活動の後に予想以上の疲れが残られるために、ご自身が思っていらっしゃるようには行動がおできになれないこともあり、引き続きご治療が必要な状態でいらっしゃいます」
医師団は何を目指しているのか、この文章ではさっぱりわかりません。
当然、全て雅子様が考え出した文章ですから。
「元気だけどそんなに元気ってわけじゃない」という絶妙な間合いが大事なのです。
自分を客観視は出来ないけど、自分を持ち上げる事は出来るというのが雅子さまの得意技ではありました。