今朝の読売新聞の経済面に、
【 邦銀復活へ転換点 】
バブル絶頂から15年
「脱金利収入」目指す
という記事があった。
その中の一部で、15年前って・・、と囲み記事かあった。
《 ジャパンマネー 世界を席巻 》
と見出しがあったので、読み込んだ。
1990年3月期決算(89年4月~90年3月)は、
日本がバブル経済に酔いしれた時期だった。
日経平均株価(225種)は、史上最高値の3万8915円(89年12月29日)まで上昇し、
一般家庭でも「財テク」がブームとなった。
金余りを背景に、日本企業が海外の企業にM&A(企業の合併・買収)をかける動きも活発で、
ソニーが米映画会社コロンビア・ピクチャーズを買収、
三菱地所もロックフェラーセンターの所有会社を買収するなど、
『ジャパンマネー』が世界を席巻した。
日本国内を見ても、89年4月に消費税(3%)が導入されたにもかかわらず、
トヨタ自動車の「セルシオ」、日産自動車の「シーマ」などの超高級車や、
宝石や毛皮といった高額商品が飛ぶように売れた。
という全文だった。
あの頃、私は家の庭の草むしりをしながら、
製造業を押しのけて金融業の大躍進に、腹を立てていた。
製造業の躍進の基で、金融業はちょっとした利益をあげる、
というのが私の企業に対する基本的な信条であった。
会社の同僚でも、あの株上がったね、と言う会話がしばしば耳にした。
私は、心に節度を、と社会に向けて、呟いていた・・。
母はJRと私鉄が交差する駅から、徒歩五分の所で、
モルタル造りの木造で程々に大きい賃貸のアパートを経営していた。
農家に嫁ぎ、母は32歳の時、夫が42歳の厄年の時に死別され、
五人の残された子供を育てるのに、
実家から離れたこの場所を生活基盤としていた。
バブルがはじまり掛けた頃、最寄の大手銀行より、
アパートの立替えの話が持ち込まれ、悩んだ末、決断した。
鉄筋の五階建ての洒落た賃貸マンションとなった。
この頃の銀行は、土地の担保さえ取れれば、甘く融資した時代だった。
結果として、X億の借り入れ額となった。
入居も順調だったので、返済も予定通りとなり、
母は念願の絹のブラウスを身につけた。
私が45歳で、母が69歳の時だった。
こうした中で、母は亡くなる78歳までダンスを覚えたり、
女友達と旅行などして、やっと晩年でご自分のしたかったことに対して、
時をすごしてくれた。
ここ数年、ときたまバブル期を振り返る時もある。
くたばりかけたモルタル造りの木造アパートから鉄筋マンションに変われたのは、
ひとえにバブルのお陰で、
母の晩年は母なりに多少満足した時代を過せたのは事実である。
私はバブルに対して、複雑な想いで、
今日を迎えている・・。
【 邦銀復活へ転換点 】
バブル絶頂から15年
「脱金利収入」目指す
という記事があった。
その中の一部で、15年前って・・、と囲み記事かあった。
《 ジャパンマネー 世界を席巻 》
と見出しがあったので、読み込んだ。
1990年3月期決算(89年4月~90年3月)は、
日本がバブル経済に酔いしれた時期だった。
日経平均株価(225種)は、史上最高値の3万8915円(89年12月29日)まで上昇し、
一般家庭でも「財テク」がブームとなった。
金余りを背景に、日本企業が海外の企業にM&A(企業の合併・買収)をかける動きも活発で、
ソニーが米映画会社コロンビア・ピクチャーズを買収、
三菱地所もロックフェラーセンターの所有会社を買収するなど、
『ジャパンマネー』が世界を席巻した。
日本国内を見ても、89年4月に消費税(3%)が導入されたにもかかわらず、
トヨタ自動車の「セルシオ」、日産自動車の「シーマ」などの超高級車や、
宝石や毛皮といった高額商品が飛ぶように売れた。
という全文だった。
あの頃、私は家の庭の草むしりをしながら、
製造業を押しのけて金融業の大躍進に、腹を立てていた。
製造業の躍進の基で、金融業はちょっとした利益をあげる、
というのが私の企業に対する基本的な信条であった。
会社の同僚でも、あの株上がったね、と言う会話がしばしば耳にした。
私は、心に節度を、と社会に向けて、呟いていた・・。
母はJRと私鉄が交差する駅から、徒歩五分の所で、
モルタル造りの木造で程々に大きい賃貸のアパートを経営していた。
農家に嫁ぎ、母は32歳の時、夫が42歳の厄年の時に死別され、
五人の残された子供を育てるのに、
実家から離れたこの場所を生活基盤としていた。
バブルがはじまり掛けた頃、最寄の大手銀行より、
アパートの立替えの話が持ち込まれ、悩んだ末、決断した。
鉄筋の五階建ての洒落た賃貸マンションとなった。
この頃の銀行は、土地の担保さえ取れれば、甘く融資した時代だった。
結果として、X億の借り入れ額となった。
入居も順調だったので、返済も予定通りとなり、
母は念願の絹のブラウスを身につけた。
私が45歳で、母が69歳の時だった。
こうした中で、母は亡くなる78歳までダンスを覚えたり、
女友達と旅行などして、やっと晩年でご自分のしたかったことに対して、
時をすごしてくれた。
ここ数年、ときたまバブル期を振り返る時もある。
くたばりかけたモルタル造りの木造アパートから鉄筋マンションに変われたのは、
ひとえにバブルのお陰で、
母の晩年は母なりに多少満足した時代を過せたのは事実である。
私はバブルに対して、複雑な想いで、
今日を迎えている・・。