夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

バブルの頃の想いで・・♪   《初出2005.5.26.》

2008-04-20 20:59:55 | 現役サラリーマン時代の想いで
今朝の読売新聞の経済面に、

【 邦銀復活へ転換点 】
    バブル絶頂から15年
 「脱金利収入」目指す

という記事があった。

その中の一部で、15年前って・・、と囲み記事かあった。

《 ジャパンマネー 世界を席巻 》

と見出しがあったので、読み込んだ。


1990年3月期決算(89年4月~90年3月)は、
日本がバブル経済に酔いしれた時期だった。

日経平均株価(225種)は、史上最高値の3万8915円(89年12月29日)まで上昇し、
一般家庭でも「財テク」がブームとなった。

金余りを背景に、日本企業が海外の企業にM&A(企業の合併・買収)をかける動きも活発で、
ソニーが米映画会社コロンビア・ピクチャーズを買収、
三菱地所もロックフェラーセンターの所有会社を買収するなど、
『ジャパンマネー』が世界を席巻した。

日本国内を見ても、89年4月に消費税(3%)が導入されたにもかかわらず、
トヨタ自動車の「セルシオ」、日産自動車の「シーマ」などの超高級車や、
宝石や毛皮といった高額商品が飛ぶように売れた。

という全文だった。


あの頃、私は家の庭の草むしりをしながら、
製造業を押しのけて金融業の大躍進に、腹を立てていた。

製造業の躍進の基で、金融業はちょっとした利益をあげる、
というのが私の企業に対する基本的な信条であった。

会社の同僚でも、あの株上がったね、と言う会話がしばしば耳にした。

私は、心に節度を、と社会に向けて、呟いていた・・。


母はJRと私鉄が交差する駅から、徒歩五分の所で、
モルタル造りの木造で程々に大きい賃貸のアパートを経営していた。

農家に嫁ぎ、母は32歳の時、夫が42歳の厄年の時に死別され、
五人の残された子供を育てるのに、
実家から離れたこの場所を生活基盤としていた。

バブルがはじまり掛けた頃、最寄の大手銀行より、
アパートの立替えの話が持ち込まれ、悩んだ末、決断した。

鉄筋の五階建ての洒落た賃貸マンションとなった。
この頃の銀行は、土地の担保さえ取れれば、甘く融資した時代だった。
結果として、X億の借り入れ額となった。

入居も順調だったので、返済も予定通りとなり、
母は念願の絹のブラウスを身につけた。
私が45歳で、母が69歳の時だった。

こうした中で、母は亡くなる78歳までダンスを覚えたり、
女友達と旅行などして、やっと晩年でご自分のしたかったことに対して、
時をすごしてくれた。

ここ数年、ときたまバブル期を振り返る時もある。
くたばりかけたモルタル造りの木造アパートから鉄筋マンションに変われたのは、
ひとえにバブルのお陰で、
母の晩年は母なりに多少満足した時代を過せたのは事実である。

私はバブルに対して、複雑な想いで、
今日を迎えている・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子由香利に魅了された頃・・♪   《初出2005.5.21.》

2008-04-20 20:44:21 | 音 楽
         第一章

バルバラに惚れこんで、シャンソンに夢中になり、
ダミヤの『暗い日曜日』、『人の気も知らないで』、『街』とか
リュシエンヌ・ボワイエの『聞かせてよ、愛の言葉を』、『ロマンス』を聴き込んだりしていた。

不動の名声を築いた人は、端的に言って一曲聴いただけで、うなるより他になかった。

あるいはラテン・ヴォーカルのグロリア・ラッソが、
シャンソンに挑戦したアルバムは、
美声で伸びのある甘い声にはこの世にこうした方がいたとは、信じられなかった。

『そして今は』、『ラ・ノヴイア』、『ラ・セ・ラムール』、
『急流』、『去っていった人』、『恋人よおやすみなさい』等は、
退社後、家で毎夜聴き込んだりした。


後にカンツォーネの女王・ミルバがシャンソンのアルバムを聴いたが、
グロリア・ラッソの衝撃が大きく、それほどの評価が出来なかった・・。

そして【銀巴里】に行った時、
それぞれの歌手は上手かったが、ちょっとしっくりこなかった。

三回ぐらい、通いつめた頃、何気なしに聴いていたら、
人生観が声にのっている人と思った。

この人が金子由香利であった。



         第二章


それから【銀巴里】にいくたび、この人の歌を家で聴きたいと思った。

数ヶ月後、他社から『初めまして』のアルバム・タイトルで発売された。
A面
 ①『愛の砂漠』
 ②『詩人の魂』
 ③『ランデブー』
 ④『暗い日曜日』
 ⑤『すみれの花咲く頃』
 ⑥『人生は過ぎてゆく』

B面
 ①『ミラボー橋』
 ②『ロマンス』
 ③『小雨降る径』
 ④『スカーフ』
 ⑤『私は一人片隅で』
 ⑥『とってもいいわ』

この選曲は唄う金子由香利の特徴を最大限に生かしきったアルバムである。

特に『愛の砂漠』と『スカーフ』は、
わが生涯の最も気に入った20曲の中で、選曲している。
プロデューサーの作本正五郎、ディレクターの永田守弘、両氏に感謝したい。

そして、【銀巴里】に続き、【蛙たち】にも行き、
リクエスト曲が採用されるたびに酔いしれた。


私の新婚時代にこのアルバムを良く聴いた。

千葉県の学園都市にある賃貸マンションで、
高台にあるお寺の森を眺めなから、ワインなど新妻と呑んだ。

そして、この中の『ミラボー橋』を特に聴いた。

こうした折、東銀座の東急ホテルでディナー・ショウが行なわれた。

家内と連れ立って行ったが、テーブルでワインを呑み、食事をしながら、
近くで唄う金子由香利には、感銘を受けた。

次作レコード化もあったので、
自信を付けて、勢いがはじまるスタート時期だった。



         第三章


そして次作のアルバム『めぐり逢い』が発売された。
A面
 ①『めぐり逢い』
 ②『愛の幕切れ』
 ③『ラ・ボエーム』
 ④『じっとこうして』
 ⑤『愛は燃えている』
 ⑥『バラ色の人生』

B面
 ①『おお我が人生』
 ②『イレーヌの店』
 ③『枯葉』
 ④『想いでの瞳』
 ⑤『愛の讃歌』
 ⑥『聞かせてよ 愛の言葉を』

作品自体には、佳作であったが、レコード会社の経営に問題があり、
レコード会社の移籍となった。

新たなレコード会社より、アルバムが次々と発売された。

『時は過ぎてゆく』

『夜よさようなら』

『巴里の屋根の下』

そして別のレコード会社より、
『いつ帰って来るの』~銀巴里ライブ~

そしてこの頃になると、大手のホテルで高額なディナーショウが、
度々行なわれる様になった。
世に言う、ひと回り大きくなったスターとなった。

私はこの頃になると、住宅ローンの負担が重く、
ディナーショウに観に行く余裕がなくなり、
レコード、カセットテープの世界に落ち着いた。

現在の私は、ときたまCDで聴き、
夢中になった30前後を懐かしいと思ったりしている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ナントに雨が降る』の想いで・・♪   《初出2005.5.21.》

2008-04-20 20:28:23 | 音 楽
私は大学を中退し、映画青年、文学青年の真似事をして、
先行きのない生活をし、
自分を立て直すためにコンピューターの専門学校に行ったのは、
満24歳の昭和44年4月だった。

そして一年が過ぎて、ある会社に知人の推薦のお陰で入社できた。

この会社は、レコード部門があり、私のたっての願いがとおり、
この部署に配置された。

その後、レコード部門のひとつが独立会社となり、
私は独立したレコード会社に移動した。
まもなくして、私はコンピューターの専門職となり、
恵まれた職場の一員となった・・。


夜、残業をしていた時、
夜の闇からつぶやくような神秘性のあるフランス語が聴こえてきた。

私は仕事の手を休め、煙草を喫いながら、聴き入った・・。

♪Il plent sur Nantes
  Donne-moi la main
  Le ciel de Nantes

洋楽販売促進課の誰かが掛けたのだろう・・。

私はレコードプレイヤーに近ずくと、
レコードのジャケットがそばに置かれていた。

バルバラの『私自身のためのシャンソン』

とタイトルは綴られていた。


私はそれまでのシャンソンの知識は、
越路吹雪、岸洋子ぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、
ダミアの『暗い日曜日』が私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としてである。

このバルバラの『ナントに雨が降る』には、
私の屈折の多い青春と
父を幼児の時に死去された想いか、傾倒した。


   『ナントに雨が降る』

           訳詩・永田文夫

♪ナントに雨が降る
 私を放ってほしい
 ナントの空は 私の心を悲しくしてしまう

 ちょうど一年前の
 そんな朝
 ナントの街は やはりどんよりとして
 私が駅から出た時
 今まできたことがなかった街は
 私にとっては見知らぬ街
 メッセージが来なければ
 旅行などしなかったでしょう

 ”マダム、グランジュ・オー・ルー通り25番地へ
 お越し下さい
 忙いで! 希望はあまりありません
 彼の最期の時に
 あなたに会いたいといいました”

 長い長い放浪の後
 やっと彼は私の心の中へ戻ってき
 彼の叫びは沈黙を破り・・
 彼が去ってしまってから
 長い間、私はこの放浪者、この不明者を
 待っていた

 ああ ついに彼は私のところへ戻ってきた
 グランジュ・オー・ルー通り25番地
 私はあの出会いをなつかしく思い出し
 廊下の奥にあったこの部屋を
 思い出の中に深く刻みこんだ

 私が行くと、暖炉のそばに座っていた
 4人の男が立ち上がり
 部屋の明かりは寒くて白く
 彼等は晴れ着を着ていた

 その見知らぬ人たちに
 何も質問せず
 何も言わず、ただ彼等をみただけで
 私はすでにもう遅すぎたことが解った
 それでも私はそこにいた

 グランジュ・オー・ルー通り25番地に
 彼はもう決して私に会うことなく
 すでに世を去っていた

 さあ これがあなたの知っている物語
 彼がある晩戻ってきて
 それが彼の最後の旅
 最後の岸辺になってしまった

 彼が死ぬ前に
 私の微笑で暖まりたがっていた
 けれどその夜のうちにこの世を
 去ってしまった彼

 別れの言葉も ”ジュ・テーム”もいわないで・・
 海に続く道にある
 石の庭に横たわって
 安らかに眠ることを祈ります
 私は彼をバラの花の下に横たえた
 神よ、神よ・・

 ナントに雨が降る
 そして私は思い出す
 ナントの空は
 私の心を悲しくしてしまう・・


この歌は、父の死をしみじみバルバラ自身が綴り、唄ったものである。

この時のレコードから聴こえたのは、
フランスの原語であったが、何となく歌詞の概要は解り、
職場であったが、目頭が熱くなった。

その後、バルバラに傾倒して、
アルバムのレコードが12枚聴き込んだころになると、
『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。

いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりだった・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『かくも長き不在』の想いで・・♪   《初出2005.5.18》 

2008-04-20 20:06:08 | 映画・テレビ
         第一章


昨日のある女性から、
私の掲示板に『三つの小さな音符』という曲が好きです、と綴られてきた。

私はコラ・ヴォケールが、
ある映画の為に作られたシャンソンであることを思い出した・・。

この名曲は、人が生きていくため、人生とはを的確に表現し、
爽やかな歌詞であるが、
そして深く重い感動を与える作品である。

やはり映画のテーマでもある、
何年過ぎたところで消えない戦争の傷跡を残し、
現在と過去を交差するこの映画の余韻がもたらすからだろう。

この曲はそうした意味からして、
この映画の中で使われたシーンは、
涙を誘い、後に忘れることが出来ない名曲となった。

この映画が上映された後、本国のフランスの有数の歌手はもとより、
日本でも数多くの歌手が採り上げている。
私は日本の場合は、金子由香利を愛聴している。

そしてこの映画とは、『かくも長き不在』である。
フランスで1961年に製作され、日本で1964年に公開された。

私が二十歳の時だった・・。



         第二章


パリの郊外、セーヌ河畔の小さな町でカフェを経営する中年女性・テレーズは、
長距離運転手の若い男とときたま逢引をしていた。

革命記念日を過ぎた頃、店の前をいつものようにオペラのアリアを
口ずさみながら歩いている浮浪者を見て驚く。
16年前、ゲシュタポに捕らえられ、
死んだと思っていた夫・アルベールではないだろうか。

その後、彼女は男の後をつけて、川べりの仮小屋に行った。
彼女が男と話し、過去の記憶が無いことがわかった。
男は町のはずれのごみ捨て場から、
雑誌をかき集め、グラビアの写真をハサミで切り抜いていた。

やがて店に食事に誘い、男の記憶を呼び戻そうとするが、
男の反応はなかった・・。

そして思い出の曲をジュークボックスにかけてダンスに誘う。


♪Toi・・あなたと呼び お前と呼び
  むつみ合った
  Toi・・私達が 愛し合ったころの ワルツ

  La.la.la.la・・Javous.aime. 想いだして
  La.la.mon amour
  優しい愛撫をあの吐息を あの言葉を

  それは忘れかけた 三つの小さな音符
  Toi・・あなたが好き あたしが好き この調べの
  Toi・・いつもと同じ くりかえしが 懐かしい

         《略》

            訳詞・矢田部 道一


ダンスをしながら、彼女は男の後頭部に大きな傷跡を見つけた。

やがて男は立ち去っていく・・。

テレーズは、男の後姿に夫の名前を呼ぶ。
『アルベール・・!』

その時、自動車のサーチライトが男に向けられた。
男は立ちすくんで、おもむろに両手をあげた・・。

男の記憶を蘇らせたのは、
ゲシュタポの拷問で名前を呼ばれた忌まわしい記憶のかけらだったのか・・。

やがて男は立ち去り、残されたテレーズはつぶやく・・。

『寒くて行き場がない冬になったら、彼が帰ってくるかもしれない』



         第三章


この映画の最大の特徴は、
男が夫なのか、男は本当に記憶を失っているかは、
原作のデュラスは曖昧のまま終っている。

いずれにしろ、ありふれた日常生活の中で、
静謐な反戦の傑作である。

この女主人公を演じたアリダ・ヴァリは、
妖艶で綺麗だ、という印象が二番目に強かった。

私は、女の魅力は少なくとも30歳を過ぎてから、
ということをこの人とイングリッド・バーグマンから、
二十歳時点で教えてもらった。

私の拙い洋画の鑑賞暦5000本前後の中で、
私のベストテンの中のひとつの作品として、この映画を選定している。

私は惚れ込んだ映画について、少なくとも10年毎に鑑賞し、
その時々の思考を振り返り、
そして今は・・と自己の再点検をしている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昼寝から目覚めれば、快晴となり・・♪

2008-04-20 16:52:00 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む私は、
曇り空で、ときおり風が吹く午前を過ごした・・。

家内は独り住まいの家内の実家に今朝から出かけている。

私は別ブログの『年金青年のたわむれき記』を整理して、
7つばかり投稿した後、洗濯物を取り込んだ。

その後、昼寝をし、4時過ぎに目覚めたら、
晴れ間となっている・・。

私は顔を洗い、煎茶、コーヒーを淹れた後、
ぼんやりと音楽を聴いている・・。

ドミニク・ミラーのギターに寄る『アルビーノのアダージョ』、
アシュケナージが弾いている『ショパンの夜想曲』などである。

このような曲を聴きながら、
夕陽を受けている主庭の樹木を眺めている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この時代の現役世代を視る・・♪   《初出2005.5.15.》

2008-04-20 14:16:28 | 時事【団塊の世代】
私は昨年の2004年の秋、定年退職した身であるが、
昨今ますます現役の方達は大変だ、と痛感している一人である。
55歳の時、入社以来本社勤務であったが、出向となり、定年を迎えた。

今年の2月に、我々OBと現役の55歳前後の人々と有志会の会合で、
話し込んだが、
OBの人たちの方が元気であった。

終身雇用、年功序列が崩壊し、成果給がはびこる昨今、
一人一人にプレッシャーが重く肩にのしかかっているのだろう・・。

私もつい数年前、現役時代の頃にこの有志会に出席した時、
定年時までは何とか、と強い意志があり、内面は必死の形相だった。

私が昨年の秋の定年退職時、礼状を送った後、
一通のメールが着いた。

うちの会社は特に外資系なので、本社勤務で定年退職まで勤めるられるのは、
ほとんどいないと思います、

と綴られたのが着信した。

この時代の過激な競争社会の中で、それぞれの人が生き残りを賭けて、
一生懸命に業務に当たっている。

我々の先達者の70歳前後の人々は、現役時代の時は、幸福な時代であった。

その後、我々が続き、団塊の世代までは、振り返ったとき、
幸運な時代だったと思えるだろう。

最も大変な世代は、現在45歳前後の人々と推測する。
終身雇用と年功序列の時代に入社し、先達者の背中を見て、
無我夢中に業務に邁進してきたが、
成果給と急速に変貌し、戸惑っている世代、
と思わず心を寄せてしまうのである。

この下の世代は、成果給と言われても、若さでギア・チェンジがしやすい。

今、改めて振り返ると、この時代の現役の方達はいずれにしろ
過酷なプレッシャーの基で業務に当たっている。

我々以上の定年退職者は、現役の方たちに暖かいまなざしを持つ必要がある、
と思ったりしている。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母からのある時の想いで・・♪   《初出2005.5.8.》

2008-04-20 13:04:27 | 現役サラリーマン時代の想いで
昭和47年に母と同居となった。

母はこの頃、国鉄と私鉄の交差する駅から五分ほど歩いた所で、
アパートを経営し、隣り合わせの母屋に住んでいた。

国鉄の線路際に、木造の喫茶店があった。
そして電車が通過すると微かに揺れた・・。

店内はカウンターがあり、椅子が5席ほどで、
古びたテーブルと椅子席が7席の小さな喫茶店だった。
店内はクラシックのレコードが良くかけられていた。
ここでコーヒーを飲んだりしたが、何となく落ち着けるので、
会社帰りによく寄ったりした。

まもなくして、ここの経営者は30歳を少し越えたぐらいの女の人で、
音楽をきっかけに気があった。

この頃の私は、シャンソンに熱中していたが、
ときたまクラシックを聴いていたので、
クラシックを話題に話し込んだりしていた。

こうして一年の時が流れた。

ある時、若い女性が、お手伝い、云いながら、
この喫茶店の従業員として、隔日に見えた。
この人と話をしてみたら、国鉄の沿線にある大きな製造会社に勤め、
アルバイトでここに来ている、との事だった。

まもなくして、この女性と私的な話をするようになり、
休みの日に映画を観に行こう、という話になった。


母と私は、日頃からよく話しあった。
お互い、おしゃべりなので、時間を忘れる時も合っりしたぐらいである。

ある時、母から、
『遊ぶのはいいけれど・・
素人の方には責任が有りますからね。・・いいわねぇ・・』
と私にさりげなく云った。

女遊びは、玄人の水商売と素人のお嬢さんと区別しなさい、
という事であった。

この母の哲学を、後年になっても私は忠実に守った。

この若い女性とこの後、半年ぐらいして、
私としては家庭的なタイプでなかったように感じがして、
私はやむ得なく別れた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五月の旅の想いで・・♪   《初出2005.5.5.》

2008-04-20 12:47:00 | 旅のあれこれ
旅行の場合、映画、本、音楽と同様に、
行く前、観る前、読む前、聴く前にそれぞれの期待感に想像を膨らむ。
その後、残念ながら大方、期待はずれに終る事が多いのである。

旅行の場合、本とかCD、DVDのように形の残らないので、
特に想像していたより悪かった場合、落胆する。
一期一会の残酷さである。

或いは、思いがけずに心に沁みることに出会うと、
何時までも心のすみに深く残る・・。


20数年前、家内と高野山に行った時だった。
高野山に昇る曲がりくねった道をバスの車窓から見ていると、
里山の中にぽっかりとした野生の藤が見えた。
薄紫の花をひっそりと咲いており、
うっかりすると見過ごすようだった。
けなげにも里山の中で、
春の訪れのひと時を、見せてくれている・・。

伊賀に向かう時、高速道路の車窓から、
切通しの丘に潮躑躅(しおつつじ)の薄いピンクの花が群生していた。

こうした景観に出会うと、名所、旧跡に次第に興味が薄れ、
齢を重ねるごとに益々強まっている昨今である。

私はこうした《さりげない景観》に出会うため、
旅に出かけたりしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友の結婚披露宴の想いで・・♪   《初出2005.5.4.》

2008-04-20 12:24:14 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は25歳で社会人として、
昭和45年4月に大手のある会社に中途入社し、遅れたスタートをきった。

同僚たちは、入社時が同じような人と自然と交流したので、年下が多かった。
彼らは、団塊の世代である。


この中の友のひとりが42歳になった時、
『俺、遅ればせながら・・結婚することにしたよ』
私に云った。

まもなく、披露宴の招待状が自宅に着いた。

彼の実家、秋田県のある都市で付近のホテルで結婚式、披露宴が行なう、
と記(しる)されていた。

こうして、私達の上司と友人と三人で、
前日の夜から1台の車で駆けつけることにした。

夜、東京を出て、東北道を北上し、
早朝に湖を散策し、近くの温泉に行き、露天風呂をはしごし仮眠した後、
所定のホテルに午後3時に着いた。

黒のダブルに着替えながら、
上司は
『新婦さん、30歳だって・・』
と私に云った。

『・・ひと回り違いますよね・・』
と私は上司に云った。

まもなくして、主役の友と新婦が挨拶に見えた。
細身のすらっとした美人だった。

彼らが去った後、もう一人の友は、
『待ってたかいが、あるよね・・』
と私に軽い調子で云ったりしていた。

その後、彼が『XXさんと俺、祝辞の挨拶をするから・・
XXさん、お祝いの歌を歌ってほしい・・』
と私に云った。

『歌かょ・・』
と私は彼に微苦笑しながら云ったのである。


披露宴の会場は大きく、招待された人は百名以上だった。

私の席は友人と右隣は女性で、新郎の高校の同級生だった。
この秋田美人は、お酒の勧め方が上手で、直ぐに打ち解けた。

私のお祝いの歌の順番がやってきた。
新婦方の友人の男性陣に向かい、
『一緒に唄って欲しい・・』
と私は云った。

こうして舞台に行く途中、
中年の私と新婦の友人の30歳の3人の男達のグループが結成された。

『長渕剛の乾杯で・・いくからね、
いいよね・・』
と私は云った。

舞台は高かった。


♪かたい絆に 想いをよせて
 語り尽くせぬ 青春の日々

【 『乾杯』 作詞・長渕 剛 】


ここまでは、若き新婦の友人の男達は、
一緒に唄ってくれたが、あとは黙った。
私は少し酔いが廻っていたが、唄い続けた・・。


♪時には傷つき 時には喜び
 肩をたたきあった あの日

 あれからどれくらい たったのだろうか 
 沈む夕日を いくつ数えたろう
 故郷の友は 今でも君の
 心の中にいますか

    乾杯! 今君は人生の
    大きな 大きな舞台に立ち
    遙か長い道のりを 歩き始めた
    君に 幸せあれ!


この時、若き男達は肩を組合い、私と肩を寄せた・・。


♪キャンドルライトの中の二人を


こうして、男達も再び声を張り上げて、大きな合唱となった・・。


この後の二次会で、この男達と秋田美人とで話が盛り上がり、
お酒もしたたかに呑み、ホテルに戻ったのが、2時過ぎだった。


今、この新郎・新婦の友は、
女の子2人に恵まれ、中学1年生と小学5年生らしく、
年賀状の写真で可愛らしく映っている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉本 聰さま、人の心を洗うもの・・♪  《初出2005.5.3.》

2008-04-20 10:05:51 | 映画・テレビ
     第一章

読売新聞の朝刊の特集のひとつとして、
【時代の証言者】というコーナーがある。

本日まで、脚本家・倉本聰・氏の連載が続いていた・・。

すべて読んだかといえば、欠落した日もあったかも知れないが、
以前、『愚者の旅~わがドラマ放浪~』(理論社)が
2002年1月に発売されたのを読了していたので、
この内容を新聞読者に解り易く脚色している、と読み続けていた。

今回の最終回に於いて、わたしが気付かなかった点も含め、
このブログの読んでくださる方に知ってほしく、綴ります。


昔は原作者の小説家に比べて、脚本家の地位は低く、
新聞のテレビ欄にも名前が載らなかった。
向田邦子、山田太一さんはそんな現実に憤り、ともに戦った《戦友》です。

僕らが愛し、懸命に作ってきたドラマの水準は落ちている。
今の制作現場は、多くの先輩が培ってきた長所や技術を継承せず、
自分たちの流儀でよしとしているからね。
最も問題なのは、作り手のサラリーマン化です。

視聴者の好みに合わせて視聴率を取り、
局内で出世したいんでしょうか。
放送後は視聴率の話ばかりで、むなしくなります。

テレビは卑しい方へ、卑しい方へと向かっているように思える。
朝から人のうわさ話に席巻されている。
北海道・富良野の子供からも、テレビが流す品のない言葉を聞くと、
たまらないですよ。

連続ドラマ『北の国から』が放送された時、
富良野塾の塾生たちはまだ生まれていません。
彼らがいま見られるのはビデオのお陰だけれど、罪もある。

テレビが一家に1台の時代は、
多くの人が同時に共感できました。
1人1台に変わったうえ、VTRの浸透によって、
一諸に感動が味わえなくなった。

僕が塾生と芝居作りに力を入れてきたのは、
客席と感動を共有できるからです。

    略

ドラマは人の心を洗うものだと思う。
自分では「洗濯屋のオヤジ」と称しています。
表面だけでなく、心の奥まできれいにしたかどうか常に自問しながら、
これからも作り続けますよ。



このように綴られている。
注・原文を勝手ながら、改行を多くさせて頂きました。


私は以前、ライブドアとフジテレビが騒がれていた頃に、
テレビ局がある程度淘汰されても良い、と綴っている。

程度の低いドラマ、笑い番組が余りに多かったからです。
電波の無駄遣い、とかねがね思っていました。

日本の大衆文化は、程度の低い方に流れていると思ったからである。

従って私は、殆んど民間放送のテレビは、
ここ10年前後は視ません。

次章は創作者の中で、なぜ私が倉本聰・氏に敬愛したかを、綴る。


     第二章

私が倉本聰・氏の作品に初めて触れたのは、昭和50年1月過ぎであった。

『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と印象が残った。

この雑誌には、『テレビ事件簿』の特集があり、
倉本聰・氏が『テレビドラマに思うこと』を寄稿していた。



テレビは一回しか放映されない。

3年間暖め、大事に大事に育てて来たものでも、
たった1回、1時間に燃え、もうそれきりで消えてしまう。

そのはかなさが、僕は好きである。

しかしそのはかなさを空しく感じてか、
優れたテレビの作家たちが、次々と別世界へ去っていってしまう。

田村孟氏然り、井上ひさし氏然り、藤本義一氏然り。

せめてシナリオ誌上だけでも、
テレビシナリオをもっと優遇してやっていただきたい。

それだけに賭けている者達の為に。



と綴られていたのが、いまだに私の脳裏に残っている。

この昭和50年のシナリオの後、倉本聰・氏の作品は、
私にとって平成元年まで空白の時となった。


     第三章

平成元年の初め、昭和天皇が崩御された頃は、
私はコンピューターの専任者だったので、仕事で忙しかった。

昭和から平成と年号の変換、4月より消費税の対応で睡眠時間を削って働いた。

1月の日曜日の夕方、疲れきった私は、
パジャマ姿で家内が買物に行くのを見送った。

お茶を淹れた後、ラジカセにカセット・テープをセットした。
そして人の尊厳を問うかのように、流れ聴こえてきた・・。


♪エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい

【『エレーン』 作詞・中島みゆき】


私は目頭が熱くなり、涙があふれ出た・・。


このカセットは、私の勤務する会社から発売されていたので、
試聴用として頂いたのを、初めて聴いた訳であった。

倉本聰・監督・脚本の『時計』オリジナル・サウンドトラックである。

この映画に使用された音楽は、

金子由香利の『時は過ぎてゆく』、

五輪真弓の『恋人よ』、

中島みゆきの『エレーン』、

浜田麻里の『ハート・ライン』、

高橋真梨子の『モノローグの九月』、

北原ミレイの『石狩挽歌』、

森昌子の『越冬つばめ』

等であった。

このように各レコード会社の有数な歌手を使用したのて、
発売先が問題があったが、テーマ曲が金子由香利であったので、
私の勤務先の会社で決まった、と上司から聞いている。

中島みゆきを知ったのは、この曲からである。

勤務先の関係より、中島みゆきの名と曲ぐらいは、
当然知っていたが、心の中に溶け込んできたのは、
この『エレーン』をきっかけとなった。


私は今でも、人生のめぐり合わせ、改めて不思議な作用だ、
と思ったりしていた。

私は偶然に、
この『時計』が金子由香利の曲をテーマに選定した倉本聰・氏のお陰で、
私は中島みゆきを識り得たからです。

この後、倉本聰・氏のシナリオ、随筆・映画と、
中島みゆきの音楽と、
私のお2人に対する熱中時代が、
少なくとも平成5年まで続くのである・・。



     第四章

店頭に行き、倉本聰・氏の本を探し始めたのは、平成元年の春だった。

随筆の『北の人名禄』、『冬眠の森~北の人名禄 Ⅱ~』を購入した後、
『谷は眠っていた~富良野塾の記録~』、『ニングル』を入手にした。
そして古本屋で、『さらばテレビジョン』、『新テレビ事情』、
『新・新テレビ事情』等であった。

シナリオとして、『北の国から』。

そして映画としては、
『冬の華』、『駅~STATION~』のビデオを観たした。

平成2年以降は、すべてリアルタイムであり、新刊本が揃っていった。
そして、私の本棚には、34冊の本がある。

この中で映画に関しては、
私の拙い鑑賞暦に於いて、少なくとも洋画は5000作品、
邦画は3000作品あるが、邦画のベストワンは『駅』を選定している。

詳細に関しては、左側にあるカテゴリー【映画・テレビ】で、

『私の邦画のベストテン・・♪』、

『私の洋画のベストテン・・♪』 2005.7.30.発信

明示している。



このような結果。私は倉本聰・氏からは、
生活信条、創作の考え方、環境問題等で、多大なご教示を頂いています。

何はともあれ数多い創作家の中で、私が敬愛する10人の中のひとりある。

《完》


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸山健二の『安曇野の白い庭』を再読して・・♪  《初出2005.5.1.》。

2008-04-20 09:59:03 | 読書、小説・随筆
小説家の丸山健二氏の『安曇野の白い庭』を再読した。

この本は、新潮社より2000年4月25日に発売され、
本屋に買い求めに行ったが、在庫なく取り寄せたので、
たぶん5月初旬に読んでいるはずである。

最近、再読してみたが、最初に読んだより、
より一層この人の強靭な志(こころざし)が伝わってくる。


小説家のひとりが庭に関する限り、独力で創り上げる。

樹木、草花の選定、石の配置を独創を持ち、自己の信条を貫く格闘記である。

それには当然なこととして、自己の思想に基づいて、
誰の手立ても借りず、木を植え、石を運び配置し、
樹木、草花の手入れもする。

この間、自己の生活信条、考え方のうつろい、文学の考え、
一般社会とのかかわり等が散見できる。

こうした人が、現世のこの世にいる自体、驚くべきなことである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鰹(かつお)を食卓に・・♪     《初出2005.5.1.》

2008-04-20 09:48:08 | 青年時代の想いで
昨日、買物の途中、歩道と道路のグリーンベルトが
白の躑躅(つつじ)が咲いていた・・。

300メートルぐらいの長さにわたり、幅2メートルのグリーンベルトであり、
この周辺の風景を変貌させるようだった。

スーパーに入ると、鶏肉か牛肉かに迷って、後に決めようとして、
何気なし魚のコーナーに立ち寄った。

鰹が身の色が鮮やかな赤紅色だったので、夕食は鰹のたたきと決めた。

季節感を大切にしたいためである。

私は初物とかは、嫌いである。
旬のものを基軸して、感謝して頂く。


遠い昔、昭和43年頃、
私はアルバイトがてらに警備員をしていた・・。

派遣先がスーパーマーケットであった。

その中に、魚コーナーがあり、この責任者と直ぐに仲良くなった。

この頃は、私が実家にいたので、家族が8人いたので、
旬の鰹を家に持ち帰ろうとした。

『多少たかくても、鮮度の良いのを一本お願い・・』
と私は魚コーナーの責任者にお願いした。

数日後、朝方に退社する時、
声を掛けられ1本の鰹を手渡してくれた。
体長60センチを越えるくらいの縞模様がはっきりし、
身が締っているようだった。

私は礼を言い、給料の10日分に相当する額を支払った。

その晩、長兄が捌(さば)き、義姉に喜んでもらい、
独身の身であった次兄、私、妹の2人たち、皆な家族で
笑顔で頂いた・・。

あの頃の家族は、各人が独立し、
もうあのかぐわしい光景は戻らない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅寝、早起き、そして昼寝が元気な児・・♪

2008-04-20 04:59:00 | 定年後の思い
私は齢を重ねた63歳の身であるが、
原則として、日の出と共に起き、
若き日からの不摂生の悪い習性で深夜まで趣味の時間にたわむれ、
昼寝を少ししていることが、
退職後から多いのである。

一昨日は例外として深夜まで、このサイト【OCN Cafe】、
他ブログ・サイト【gooブログ】を整理に熱中したが、
いつものように早起きをした。

日中の例外として、昼寝をすることなく、
家事、他ブログの整理にかまけたりしていた・・。

さすがに昨夜は眠気を感じて9時前に布団にもぐり、
竹内一正・著の『グーグルが日本を破壊する』(PHP新書)
を読みはじめ、
10ページ前後読んでいるうちに寝付いた・・。

目覚めた時、朝の5時頃かしら、
とぼんやりと思っていたら、4時前であった・・。

熟睡して睡眠時間を補おうと思っていたが、
やはり習性は変わらず、戸惑っている。

私は遅寝、早起き、そして昼寝の三拍子リズムが、
相応しいのかしら、と微苦笑している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする