夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金青年のふしだらな大型連休の日常は・・♪

2009-04-26 11:57:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
我家は家内と2人だりの家庭であるが、
家内は独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

高齢者の家内の母は、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行っているのである。

今回は22日(水)~30日(木)となり、8泊9日で家内は孤軍奮闘しているのである。


私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、食べたりしている。

こうした日常を過ごしている中、ここ数日は読書をしたり、
或いは夜のひとときは、保有しているビデオテープで音楽を視聴したりしている。

セリーヌ・ディオンの『セリーヌ・ディオン・コンサート』(メンフィス公演)、
ニューヨークにあるラジオシティ・ミュージック・ホールに於ける『HOLY NIGHTU LIVE』を視聴したりしている。
或いは小柳ゆきの『KOYANAGI THE CHRISTMAS IN ORCHARD 2002』を視聴したり、
次の深夜などには、X JAPANの解散コンサート『X JAPANの軌跡 感動のドームライブ』を熱い思いで視聴したりしている。

そして、日中のひとときは、無料音楽の【You Tube】サイトを開き、
井上陽水、エデット・ピアフの数々の名曲を聴いたり、
沖縄に関しての多くの曲を改めて聴いたりいると、
やはり『芭蕉布』が一番私は心酔できる、と深く思ったりしている。


このような音楽を聴いたりしているが、
やはり私は読書を何よりも好きであるので、居間のソファーに座ったりして本を読んだりしているが、
少し疲れると、主庭のテラスに下り立ち、
簡易椅子に座り、樹木の新緑を褒めながら、煙草を喫ったりしている。
そして、微風に身をゆだねたりしていると、
私が昨今に於いて、最も心酔しているノンフィクション作家の佐野眞一氏の言葉を思い馳せているのである・・。


昨年の11月下旬に於いて、
氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』(集英社インターナショナル)を読了したが、
《はじめに》と題された序文が深く心に残ったのである。

【・・
(略)
沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。
だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取(くまど)られた“大文字”言葉で書かれており、
目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。

沖縄本を覆う違和感とは何か。
大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」
「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。

渡嘉敷島(とかいしきじま)の集団自決問題の論争で、
大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。

だが、大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、
そうした中で自分だけは疚(やま)しさをもつ善良な日本人だと宣言し、ひとり悦に入っている、
という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。

沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。
そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、
この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、
それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。

大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、
心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、
私は幾度となく遭遇した。


こうした跪拝(きはい)意識に“大文字言葉”が加わって、
沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、
といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、
うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。
いい機会なので、ここで私がよく便う[大文字」と「小文字」の違いについて、
少し噛み砕いて述べておこう。

「So what?」という英語の慣用句がある。
私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。
私が言う[大文字」言葉とは、
聞いたときにはわかったような気にさせるが、
あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。

テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、
だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。
私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび
「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」
という俗謡を思い出してにが笑いする。

彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。
何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、
こちらが情報を補ってやっているからである。

これに対して「小文字」とは、
活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。
それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。

物事を「説く」には「大文字」言葉が便利だが、
物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。
「語って説かず」。
それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

私は里見甫を書くときも、甘粕正彦を書くときも、
[大文字」の“満州論”にはせず、彼らの魅力と魔力を、
どんな読者の胸にもまっすぐ届く「小文字」で書いてきた。

(略)
・・】
注)原文にあえて改行を多くした。


私は著作者の佐野眞一氏に関しては、ここ数年、数多くの作品を拝読しながら、
作品の人物の深淵を極める為に当人はもとより、幾世代まで遡ったり、
徹底とした執念のような取材力と数多くの参考文献を読了した上で、
その人物をあぶりだすような構成力と圧倒的な筆力で、
誰しも難題と思われる日本の光と影を帯びた問題に挑む力量ある作品を明示してきた・・。


最近の私は、遅ればせながら未読だった『遠い「山びこ」 ~無着成恭と教え子たちの四十年~』(新潮文庫)を読み終えて、
『旅する巨人 ~宮本常一と渋谷敬三~』(文春文庫)をかみしめながら読書中なのである。

こうした本に深く読み込むと、その時代に導かれて、
いろいろと思索されるので、ページが進まなく、微苦笑したりしている。

そして、私は読書に続いて、書くことも好きなひとつであり、
このサイトに毎日数通は投稿してきたひとりであるが、
買物をしたり、新緑を褒めながらも《活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉・・》
と思索しながら散策したりすると、
つい投稿文を綴るのが躊躇したりしているのが本音である。



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