夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私なりの筍(たけのこ)の深い思いは・・♪  

2009-04-29 20:08:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている。

ときおり国内旅行で、孟宗竹の竹林を観た時も、
私は時間が許す限り、眺めたりしている。

私の幼年期は、実家が農家で竹林を保有していた時代もあり、
私なりに孟宗竹の筍、そして竹林には深い思いでがあるので、
こだわりがある。

このような心情なので、このサイトに於いて、
たびたび綴ったりしてきた。

先ほど、私は過ぎ去った幼年期に思いを馳せていた時、
孟宗竹の筍なども読み返していた・・。



2007年7月2日に於いて、
【 ひととき夢の中で・・♪ 】と題して、投稿していた。

【・・
昨日と同様に、昼過ぎに塩野七生・著の『ローマ人の物語』(新潮文庫)第23巻を読んでいるが、
居間で簡易ベットに横たわりながら、
1時間程過ぎた頃、眠りに付いた・・。


私は東北新幹線のある駅からタクシーで15分走り続けた場所で降ろされた。
周囲は里山を背景に放置された田畑が幾重にもあり、広大な荒地となっていた。

ひとりの年配の老人が私に、
『あんたかいなぁ・・竹の物狂いのお人というのは・・』
と言った。

私は煙草を老人に勧めた後、私は煙草に火を点(つ)けた。

私はこの老人の方に熱弁を奮(ふる)っている・・。

日本の古来から孟宗竹をこの地一面に植え、竹の文化村を作りたい。

平地の土地は、土壌を四尺ほど、改良し、
建物以外は公園のように遊歩道を設ける以外は、孟宗竹・・一色とする。

建物は筍(タケノコ)主体の専門料理店、筍の加工食料品所、
そして竹に関しての日常品から工芸品に至るまで加工所、販売店まで手がけたい・・。

お客さんは、駅からマイクロバスでお迎えして、
筍づくしの料理と里山で栽培した山菜を食べて頂いた後、
孟宗竹の中の遊歩道を散策して頂き、
お土産売り場で保存のきく筍、筍と山菜、そして竹細工の多種をお買い上げて頂く・・

『あんたぁ・・採算あうのかいなぁ・・』
と老人は私の言葉を遮(さえぎ)った。

『採算はギリギリですが・・
孟宗竹の四季の移ろいの美しさを観て・・その方なりに感銘をして頂ければ・・』
と私は老人に言った。

『そりやぁ・・そうだが・・
あんたに以前言った値段で・・売るよ・・
だけどもね・・あんたは・・夢を見るのがお好きな人だね・・』
と老人は苦笑しながら、私に言った。


私は目覚めた・・。
サラリーマンを定年退職し、年金生活の3年生の私には、
このように気力も資金もない。

私は庭に下り立ち、雨の舞い下りる庭の樹木を眺め、
煙草を喫いながら、どうしてあのような夢を・・
と思い返している。


私は東京の郊外で農家の子として生を受け、
父、祖父が亡くなる小学幼年期まで田畑、雑木林、竹林の中で育った。

竹林は、孟宗竹の専用とした2反程あり、5月頃には筍を青果市場に出荷し、
竹は秋の頃に竹細工の方達が買い求めに来宅していた、
記憶が鮮明に残っていたる。

ここ50年ばかり筍を作られている場所を見たり、
テレビで視聴したりすると、
あれは本物の筍じゃない、と思っているのである。

私の幼年期に観た竹林は、前年の秋に根が浅くなった所を最低三尺掘り下げて植え直し、
春先には地割れと土壌が固くなるので、私達の子供は近寄れなかったのである。

4月の下旬から5月の初め、
地割れの箇所をたよりに祖父と父が専用のスコップで掘ったりしていた。
すべて地中で育ち、根元は最低15センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、
商品価値が激減するのである。

私は地上から5センチほど芽がだした筍は皮が黒ずむので、
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。


このような想いがあったのか、ときには考えられない夢を見ることがある。

齢を重ねた私は、今でも夢は甘く、ときには苦いものである。

・・】



そして、2006年5月6日にも、
【 タケノコ、されど筍(たけのこ)・・♪ 】と題して、投稿していた。


【・・
   第一章

以前、筍については、私はたびたび綴ってきた。

私の幼少の頃、竹林があり、青果市場に出荷していたので、
鮮明な思い出とこだわりがある。

地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍じゃない、ということである。

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。

このような話をしたら、半信半疑の目付きをされたので、困っていた。


私の新婚旅行の時、京都の筍の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の実家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍かょ、と感じた。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、
と思い続けていた。

幸いにして、昨日の読売新聞で私の証言に近い記事があったので、
嬉しく感じ、記事を精読した。

      
     
   第二章

昨日の読売新聞の中、【彩事記】が随時掲載をされているが、
榊原智子・女史が綴られた記事を無断引用させて頂きます。


・・今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、
例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、
タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、
身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、
関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。

・・(略)・・



以上、引用させて頂きました。


東京の郊外の私の実家でも、程々にひろい田畑を耕していた農家は、
竹林を保持し、筍を青果市場に出荷していた。
竹になったのは、竹細工の業者が買いに求めに来た、記憶が残っている。

目黒方式と違うのは、秋になり、根が浅くなったのを、
最低50センチ前後、深く掘り、枯れた竹の葉、肥料を施して、地中に埋めた。

地上は生育した竹以外は黒土1色で、冬を越え、春の4月頃に地割れを見つけ、
専用のスコップで掘り出した。

この間は、子供は竹林に入ることは、足跡、靴跡が残るので、厳禁となっていた。

芽が地面より5センチ以上になったものは、柔らか味が薄れるので、
買取り価格が安くなり、家庭で食べたりしていた。

特にこれ以上伸びた筍は、竹の皮が黒ずみ、
子供の私さえ、カラスと呼び馬鹿にしていた。

東京の郊外は、地中でいかに大きく育てあげるかが鉄則であった。



   第三章

東京の郊外は、東京オリンピック以前にどの家も筍の青果市場への出荷は終えた・・。

わずかに竹林はあるが、かつてのような手入れがされず、
ただ伸ばし放題の竹林が残っている。


このような形の竹林は、まだ私が小学生の頃、
付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。

傾斜に竹林が密集し、下方に池があった。

私は小学3年ぐらいの時、下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが芸術家かょ・・難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと解っていないなぁ』
と子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は駅前の本屋に行った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなき武者小路実篤と明示されて折、
私はあのお爺さんが、と気づかされたのである。


私は筍を出荷した竹林は、ある程度に間引いた上、黒土の1色で春になると、
筍が出やすい状況のこだわりがあった。

孟宗竹が密集し、その間から筍が出てきて、
地上から10センチ以上に成育した時に、収穫するのは邪道と思っている。

こんな思いもあるが、
実家でもわずかに残した手入れが行き届かない竹林から、
毎年10本前後生えてくる。

子供の頃、カラスと馬鹿にしたのを実家から、毎年頂いている。

かってのような整備された孟宗竹の群生を旅行先で見かけると、
私は少し涙ぐんで、立ちすくんだりしている・・。
      
・・】



これ以前にも、2005年4月24日に於いて、
【 筍(たけのこ)が食卓に・・。 】と題して、投稿していた。

【・・
昨日、長兄の宅より大きな筍を頂いた。
家内は、早速台所で筍をむき始めた。

遠い昔、私が幼児であった頃、祖父、父が農家をしていたので、竹林が二反あった。

秋になると、地表に根が出そうになったのを三尺近く堀起こし、地中深く根を埋めていた。
次兄と私は、穴が掘られたのを子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。

柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍を掘り出すためであった。
この微かな地割れを二、三尺を堀り、やがて大きな筍を掘り出した。

芽が地表にだしたのは、柔らか味が出てしまい身が固くなるので、カラス、と呼んでいた。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
地中にあった良質の筍は、市場に出荷していた。

それから残した筍は、日増しに大きくなり、若い竹となり、子供心でも著しい成長を眺め、感嘆した心を躍らせていた・・。


夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。

この頃、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで何処の家も使われていた。

その後、昭和28年に父が亡くなり、まもなく祖父も他界した。


私の家は、この後に急速に変わり、竹林も無くなった。

今、長兄の宅は、五、六坪の竹林に留めている。
手入れも昔ほど出来なくなったので、地表に出た、カラスを掘り起こしている。


あの香(かぐわ)しい情景は、東京のこの付近の郊外では消え去ってしまった。

今、庭に出ると、紅梅の根元の周囲には、蕗(ふき)の葉が微風を受けて、揺れている・・。

・・】


このように数多い筍、竹林の多い中、たった三つだけを再掲載したが、
私はテレビなどで筍を掘り起こす情景を偶然に視聴したりする時、
遠い昔の幼年期に見た筍とは違う、と苦笑したりしている。



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改めて、ふるさとの旧街道を歩いたりする時は・・♪ 

2009-04-29 09:00:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
神奈川県の川崎市の登戸と千葉県の市川市の国府台の結婚前後の5年を除き、
調布市の片隅に60年近く住んでいる・・。

昨日も昼下がりに周辺を散策したのであるが、
幼年期、少年期に通学路の道だった旧街道を歩いたりした。
住宅街が密集された路から少し外れると、欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラなどの新緑を眺めたりし、
ときには立ちすくんで、見惚(みと)れたりしたのである・・。


この思いは、私は【ふるさとの旧街道を歩く時・・♪】と題して、
このサイトに2006年4月24日より数日間に投稿していたが、
あえて再掲載をする。

【・・
   第一章

1昨日、駅前の本屋に行った時、
帰路は小学校に通った旧街道を歩いて帰宅した。

私が実家の近くに、家を構えたのは、28年前であり、
この直後には家の周辺を家内とたびたび散策したが、
旧街道は何故かしら避けていたようだった。
それから、3年過ぎた頃、家内と旧街道を歩いた。

小学校までの道程は、15分程度であり、
旧家の道路沿いは多少変わっていたが、原則として昔からの面影はあった。

私の家は幼年期は農家であり、何か室町時代の初めの頃から農業を営んでいた。
戦前は農業学校の実習生を受け入れ、田畑を耕していて、
それ以外の田畑は10人前後の小作人に依頼し、助力を得て、
ほどほど広い田畑を保有していた。

戦後の農地改革に伴い、雑木林を除く田畑は2町歩以内と制限されたので、
小作人の方に安価で払い下げられた。

駅までの道程には、10数軒の地主がいたが、
こうして田畑は分散化となった。



   第二章

戦前、敗戦後にしても旧家の地主は、村の名誉職になると、
1日過ぎると、田畑は日毎に1作、すなわち1列分が無くなる、
と後日私は聞いたりしていた。

村の名誉職の村長、助役、会計の立場になると、
自身の収益より村の為に、持ち出しが多く、村民から慕われた・・。

中には、これとは別の話も聞いたりしていた。
実家より程遠い大河が流れている村に於いては、
護岸工事の完成する戦前の昭和でも、
洪水、台風等の被害に遭われ、わずかな土地持ちの家でも、
泣く泣くその地の大地主にわずかばかりで買い上げられ、
小作人となった人達の話も聞いたりしている。

地主の人達にも村を思う見識に差異がある、
ということである。


私は昭和19年の秋に農家の三男坊として生を受け、
昭和26年の春になった時、私は小学校入学した。
祖父、父、父の兄弟の叔母の2人、
そして母、兄の2人、妹の2人という家族構成であった。

祖父、父、母、叔母達は、田畑を耕し、
農繁期の時などは、農業大学の実習生の3名を受け入れ、
別棟に寝泊し、田畑の耕しをして頂いたりしていた。

祖父は、村の名誉職に就いていたので、
ときたまスーツに着替え、自転車で村役場に行ったりしていた。

私は祖父のこの姿を観ると、
うちのおじいちゃん、かっこいいし、偉いんだぁ、
と子供心に思っていた。

祖父と父は、大学まで通ったことのない学歴であったので、
せめて跡取りの長兄には、ともかく学がなければと、
長兄は小学5年生前後から家庭教師を付けたりしていた。

長兄はこの期待に応(こた)え、私の通った小学校の卒業生で、
国立の中学校に入学出来たのは、長い歴史のある小学校で初めてであったので、
特に祖父と父達は喜んだ・・。

秋の収穫を終える頃には、農地解放前の小作人の人達が、
何がしを持参して、祖父に手渡していた。

多分、農地解放のお陰で、安い価格で土地を取得でき、
自分達も地主になれた礼を込めて、謝礼として持参して下さった、と今は思う。

歳末の頃になると、旧家同士、餅つきを交互に手伝い、
正月用のお供え、年末年始ののし餅、と
その家族に見合った量を造っていた・・。

この頃の時代でも、旧家と旧小作人との交際は、
歴然として残っていた・・。

その後、我が家がまもなく没落の一途をたどるとは、
近所の方達を含め、どなたも想像が出来なかった。



   第三章

父が肝臓を悪く、黄疸症状がひどくなり、寝込んでいまい、
町医者が、ときおり我が家に来診に来たのは、
私が小学校2年になったばかりであった。

そして、3学期になると、父は死去した。

その後、2ヶ月後に、肝要な跡取り息子を亡くし、落胆したせいか、
祖父も亡くなった。

大黒柱の男手を失った農家は、没落の一途をたどった。
母、未婚の叔母2人、そして長兄は中学校2年、次兄は小学5年、
私は3年、妹は1年、そして末の妹は4歳だった。

農家の場合は、田畑の技術のノウハウは、
大黒柱の指示により、運営されていたので、
残された成人の女手では、なすすべもなくなって行く・・。

親族関係の人々の支援があったが、
農業の主体は、やはりその家の人々が行わざるを得ないので、
田畑を少しずつ手放していった。

こうして、私が中学1年になった時、
母はアパート経営を始め、何とか普通の生活水準となった

この間、周囲の人々から、風のうわさが聴こえて来た。
『あの家は駄目になったょ・・
今度、田畑を売って、アバート経営だと・・』

歳を重ねた今、私は旧街道を歩くと、複雑な心境になる。

東京の郊外は、昭和30年過ぎた頃から、急速に住宅地に変貌し始めた・・。
どの旧家も田畑を切り売りを始めたりしていたが、
落ち目になると、こうした噂(うわさ)は早く伝わってくるのである。

今、こうして旧街道を歩くと、旧家の宅地本体だけは、
幾分小さくはなっているが、
依然と私の実家同様に、昔の面影を残し、保持している。
・・】


私はこのように綴ったりしていたが、
ふるさとは限りなく愛(いと)おしくあり、ときには険悪な心情もあり、
この地を離れたい時もあった。

私は高校時代からは都心の学校に通ったので、
その時代の都心の光と影の空気も多少は学んできたが、
都心へのあこがれのような羨望と嫉妬が、
30代のなかばまであったがのが本心であった。

私は長年サラリーマンの苦楽の時代を終えて、年金生活を過ごしている。
実家の近くに建てた一軒屋は古惚け、30数年住んでいるが、
主庭、玄関庭の樹木を眺めたり、付近を散策したりしている。
そして、この地に愛惜が齢を重ねるたびに深まっている。

              


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