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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

【太宰と清張 生誕100年】を読みながら・・。 《下》

2009-09-10 18:16:21 | 真摯に『文学』を思考する時
前回に続き、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
【太宰と清張 生誕100年】が掲載され、
この記事に準じた内容が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、
一日遅れで掲載されていたので、転載させて頂き、
私は読みながら感じ、思いを馳せたことを記載する。


《・・

【太宰と清張 生誕100年】(下)更新され続ける作家像

見え隠れする「私」

作家には、作者の分身を作品に登場させるタイプと、
自分の影を消すタイプがいる。

<風景にもすれ違う人にも目を奪われず、自分の姿を絶えず意識しながら歩いてゆく人だった>
と、妻の津島美知子が回想した太宰は前者だ。

モントリオール映画祭最優秀監督賞に輝いた根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」、
来年公開の「人間失格」には、太宰の分身・苦悩の人がいる。


推理小説から古代史まで徹底取材し、歴史と社会の闇を追った清張はもとより後者だ。
「半生の記」のあとがきで
<いわゆる私小説というのは私の体質には合わない>と書いている。

しかし、そう簡単にも割り切れない。
太宰は1939年に結婚した後、
他人の日記をもとに「女生徒」「正義と微笑」などを創作した。
今秋公開の「パンドラの匣」(冨永昌敬監督)の原作も、「木村庄助日誌」をもとにした作品で、
結核療養所に入った少年の、死と背中合わせながら希望を失わない生活が生き生きと描かれる。
これまで脚光を浴びなかった1編だ。


冨永監督は中学生のころ「人間失格」など晩年の長編を読んで
「すぐ死にそうなことを書いて、たいして面白くないな」と思った。
ところが井伏鱒二作品をモチーフに長編デビュー作「パビリオン山椒魚」(2006年)を撮る際、
井伏と太宰の師弟関係を知り、
「黄村先生言行録」など太宰の中期作品の軽さと明るさに触れて「太宰を誤解していた」
ことに気付いた。
「キャラクターのキャッチーで、つかみやすいところは映画向き」という。
「演じてみたいと俳優をその気にさせる」


一方で、清張の私小説的側面に光を当てる動きも出てきた。
先月完結した「松本清張傑作選」(全6巻、新潮社)で、
直木賞作家の宮部みゆきさんが「月」「父系の指」「泥炭地」など12編を選んだ1冊。
副題は「戦い続けた男の素顔」だ。

苦労を重ねた父、学歴を克服しようと努力しても不遇だった下積み時代……。
<逃れられない宿命の悲しみと、つかみ得ない幸福への憧憬>(宮部さんの解説)などのテーマが通底し、
人間・清張の素顔がのぞく。

では、なぜ太宰のように苦悩する「私」を書かなかったか。
無名のサラリーマン、悪党や悪女、歴史上の人物などを作品ごとに登場させたのは
「自分のことを書くなら、それを虚構に発展させたい」
という小説観もあっただろう。

加えて宮部さんは
「清張には、自分も含めて一人の人間の存在は、小さく儚いものに過ぎないという断念、諦念があったからではないか」
と語る。
その断念、諦念こそ「圧殺される弱者を見過ごしにできない<追求者><告発者>松本清張の原動力にもなった」。
圧殺される弱者も、戦い続ける男も、実は清張自身だった。

そんな「私小説的作品であっても、ラストのどんでん返しでアッと言わせるのが清張の魅力」(宮部さん)とも言い添える。

太宰と清張。1909年に生まれた2人の作家像は、今もなお更新され続けている。
(おわり)

(2009年9月9日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は恥ずかしながら、宮部みゆきの小説は読んだことのない身であるが、
松本清張の作品としての確かな慧眼に思わず敬意をしたのである。

《・・
逃れられない宿命の悲しみと、つかみ得ない幸福への憧憬・・
清張には、自分も含めて一人の人間の存在は、小さく儚いものに過ぎないという断念、諦念があったからではないか・・
その断念、諦念こそ「圧殺される弱者を見過ごしにできない<追求者><告発者>松本清張の原動力にもなった。
・・》

私は数多くの読者と同様に、松本清張の発表した作品は半分ぐらいは読んできたと思うが、
いつも感じさせられるのは、まぎれもなく宮部みゆきの発言されたことである。
私は感じるだけで、的確に表現された宮部みゆきの批評眼は、優れた批評家でもある。

いずれにしても、太宰治、松本清張の両氏は、
各出版社で生誕100年称してイベントのように掲げられているが、
特に若い人に両氏の遺された作品の数々を読み、心の洗濯をされれば、
と齢を重ねた私は余計なことを思ったりしている。

そして、どの小説に於いても、少なくとも必ず一行は学ぶことがある、
と拙(つたな)い読書歴まもなく50年の私は確信している。


尚、私の綴った作家名は敬称を省略させて頂きました。


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【太宰と清張 生誕100年】を読みながら・・。 《中》

2009-09-10 17:04:15 | 真摯に『文学』を思考する時
前回に続き、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
【太宰と清張 生誕100年】が掲載され、
この記事に準じた内容が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、
一日遅れで掲載されていたので、転載させて頂き、
私は読みながら感じ、思いを馳せたことを記載する。


《・・

【太宰と清張 生誕100年】(中)森鴎外、菊池寛…を敬愛

「読んで面白い」文学志向

松本清張は生前、太宰治について、わずかだが言及している。
1度は、日本推理作家協会理事長に就任し、
不動のベストセラー作家だった1963年から文芸誌「文藝(ぶんげい)」に連載した「回想的自叙伝」に出てくる。
朝鮮戦争の頃を回顧していう。

<私は相変わらず印刷屋の仕事を内職にし(中略)小説も文学も私には一切無縁だった。
会社で太宰治を語る者がいたが、私はこの情死で世間的に有名になった作家の作品を何一つ読んでいなかった。
のちになって太宰の小説で感心したのは「ヴィヨンの妻」と「津軽」であった>

それが1976年11月の座談会「松本清張・人生と文学を大いに語る」では、
太宰を物語性を失った私小説・転向文学の系譜に位置づけ、否定的な調子に変わる。
<転向小説にみる自己否定、人格否定が虚無主義にもなり、
戦後の太宰治の小説にもなり、坂口安吾らの傍流にもなったと思います>。


この二つの発言に挟まれた1964年、
中央公論社(当時)が企画した80巻の全集「日本の文学」から清張が外れる“事件”があった。

当時、同社で清張担当だった宮田毬栄(まりえ)さんによると、
編集委員の三島由紀夫は
「清張には文体がない。文学じゃない」と収録に強く反対。

容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切った。
清張は激怒した。
「高等小卒の清張にとって、本は学校。
中でも全集は、最も輝かしいものだったでしょう。悔しさは計り知れません」(宮田さん)。
太宰は全集で1巻入った。


その直後の1966年、自叙伝の連載を単行本「半生の記」として出版する際、
清張は、〈太宰の小説で感心……〉の個所や、
三島について〈この作者のものを雑誌などでは一番に拾うようになった〉と書いた部分を削っている。
純文学への恨みではなかったか。


だが一方で、2人の文学的嗜好(しこう)は驚くほど似ていた。
清張が芥川賞受賞作「或る『小倉日記』伝」でモチーフにした森鴎外は、
太宰が最も敬愛した作家の一人で、生前の希望通り、
太宰の墓は、鴎外と同じ禅林寺(東京・三鷹)にある。

青春時代の芥川龍之介への傾倒も共通する。
注目すべきは、清張が「現実的な眼」「新鮮な着想」から
<芥川以上の才気>と評した戦前のベストセラー作家、菊池寛を、
太宰もまた高く評価。

太宰に師事した東京帝大生・堤重久に作家で誰が後世残るかと問われ、
「菊池寛が残ると思うね」と答えている。


清張は「自分も楽しみ、読者もまたそれを楽しむなら、純文学も大衆文学も無い」
という菊池の言葉を信条とした。


太宰もこう語っている。
<やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。
あのね、読んで面白くない小説はね、それは、下手な小説なのです>(「『晩年』に就いて」)。

太宰の評伝『ピカレスク』や菊池を描いた『こころの王国』の著者で作家の猪瀬直樹氏は、
「清張は、社会派と一括(くく)りにされるけど、
短編『部分』に鮮やかなように、日常にふとよぎる小さな驚きや疑問から、的確に観察し、心理描写している。
人間によって構成されている社会を見る視点がある」と指摘する。

太宰については「本当にいい小説を書くようになるのは結婚後。
『女生徒』『皮膚と心』『十二月八日』など、作品に生活がすーっと入ってくる。
そこから人間の心が見えてくる」。


清張には作家デビュー以前の、家族を背負った長く苦しい生活があった。
太宰は青春の文学的苦悩と彷徨(ほうこう)の果てに訪れた結婚生活で、文学を成熟させていった。

〈自分には人間の生活というものが、見当つかないのです〉という言葉を遺著「人間失格」に記した太宰は、
結婚した1939年に発表した短編「懶惰(らんだ)の歌留多」にはこう書いていた。
〈苦しさだの、高邁(こうまい)だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。
書け。落語でも一口噺でもいい。
(中略)働かないものには、権利がない。人間失格、あたりまえのことである〉。

(2009年9月8日 読売新聞)
・・》

注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は中央公論社の80巻の全集「日本の文学」に関しては、
次兄が駅前の本屋から定期購入し、私は精読し、日本の近代・現代の文学として、
あますところなく読んだひとりである。
この時になぜ松本清張は選ばれなかったのか、疑問に思ったひとりである。
少なくとも、、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』の作品は、
たとえ三人で一冊の本として編集されてもよいのではないか、と思ったりしていたのである。

今回、編集委員の三島由紀夫が、
《・・容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切り、
「清張には文体がない。文学じゃない」
と収録に強く反対・・》
と私は初めて知ったのである。

私は三島由紀夫に関しては、家柄もよく、文学少年が文学青年となり、
純粋に文学の道を歩まれ、やがて文壇の寵児として出版社から奉(たてまつ)られ、
やがて読者にも伝わり、読者層を増やしたスター小説家と思ったりしている。
そして、他者からの批判を何より嫌う人で、青年のままに死去された人と感じている。

三島由紀夫の一番の欠点は、他の小説家の作品を小説家自身の軌跡や心情で険悪し、
判断するきらいがあり、大人になりきれない批評眼である。
もとより、作品の良き悪きは、たとえ小説家自身の信条なく、作品次第である。


私も森鴎外に関しては、夏目漱石、島崎藤村より敬愛ひとりであるので、
太宰治、松本清張の両氏の深い思いは知ったりしていた。
改めて、この行に微笑みながら読んでいたのである。

                             《つづく》



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【太宰と清張 生誕100年】を読みながら・・。 《上》

2009-09-10 15:58:15 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
9月7日より、3日間に及び【太宰と清張 生誕100年】が掲載され、私も精読したひとりである。

この記事に準じた内容が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、
一日遅れで掲載されていたので、転載させて頂き、
私は読みながら感じ、思いを馳せたことを記載する。


《・・

【太宰と清張 生誕100年】(上)生の苦悩 交差する2人

太宰治と松本清張が今年、生誕100年を迎えた。
社会派推理の巨匠・清張のデビューは、無頼派・太宰の死の2年後。

活躍時期はすれ違い、作風も違うが、同じころ死の淵を彷徨った。
1909年生まれの2人を結ぶ“点と線”から、その文学を考える。


月給10円見習職人 ■ 仕送り月100円の学生

「金木(かなぎ)の殿様」と呼ばれた津軽の大地主の六男に生まれ、東京帝大在学中から文芸誌に執筆した太宰と、
高等小学校卒業後14歳で働き始め、
21歳のころ「生活のために、かねて夢として抱いていた文学を捨てた」清張では境遇は全く異なる。

「生まれてすみません」と苦悩する顔、「元気で行こう。絶望するな」(「津軽」)
と読者を励ます明るい顔の両極を揺れながら純文学を貫いた太宰と、
推理小説、時代小説、古代史ものからノンフィクションまで書いた清張とは作風も違う。

しかし、対照的な2人の人生は、奇(く)しくも2度重なり合っている。
最初は20歳のころ。
実家から月100円以上の仕送りを受け、芸者遊びもしていた旧制弘前高校生の太宰は29年、
「金持は皆わるい。金の無い一(せんみん)だけが正しい」
というプロレタリア独裁思想に染まり、最初の自殺を図る。

19歳になる年、月給10円の印刷所の見習職人になり、「最低に近い生活」をしていた清張も自殺を考えた。
「二十一、二くらいのときではなかっただろうか。
(中略)自分の前途、現在の境遇、そういうものに絶望を感じたからだったと思う」(「実感的人生論」)。

太宰が38歳で自殺したころ、清張もまた死の淵にいた。
当時、朝日新聞西部本社の広告部員だったが、出世の見込みはなく、
麻雀(マージャン)や将棋で気を紛らわす日々で、
「家族の多い家に帰るのがうんざりしていたし、外に出ても行き場がなかった。

もし、私にもっと直接的な動機があったら、あるいはそのとき自殺を企てたかもしれない」(「半生の記」)。
清張は、新聞社で働く38歳の男が学歴が低いことから将来を悲観し、
自殺を図る短編「背広服の変死者」を56年に発表している。

2人の生と死を分けたものは何か。
数度の自殺未遂、薬物中毒による精神科病院入院など波乱の青春を送った太宰は29歳で結婚。
体が弱く、召集されなかったが、戦火の下で、
「津軽」「お伽草子(とぎそうし)」など生を肯定する明るい小説を書き続けた。
しかし、没落貴族の女性の恋と革命を描いた「斜陽」がベストセラーになった戦後は生活がすさみ、
遺作「人間失格」では生きる苦悩をつづった。

このため、その死は、無頼派の象徴とされた。
これに対し文芸評論家の加藤典洋氏は
「何があっても生きていればいいという実存的考えと、
戦死した若者の純粋さへの後ろめたさとの分裂に持ちこたえられなくなった」と見る。

太宰は戦争末期の44年、小説「散華」で、玉砕する直前の若き友人から届いた手紙を紹介している。
〈無事、任地に着きました。大いなる文学のために、死んで下さい。自分も死にます、この戦争のために。〉

戦争賛美から、掌(てのひら)を返したように民主主義万歳が叫ばれた戦後、
太宰の戦死者へのうしろめたさと社会の欺瞞(ぎまん)へのやりきれなさは高まり、
「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」と書くに至る。
48年6月、妻と3人の子を残し、東京・三鷹の玉川上水に愛人と入水自殺した。

かたや戦争中、朝鮮半島で衛生兵をしていた清張は、
「出征中は、晴れて家族扶養の義務から解放された。
逆に言うと戦後は、家庭が重くのしかかってきた」
と評論家の関川夏央氏は指摘する。

しかし清張は、その家庭の生活を創作の出発点にした。
50年に懸賞小説に入選したデビュー作「西郷札(さいごうさつ)」を書いたのは、
両親と妻、4子を養う「賞金欲しさ」からだった。

太宰が渇望した芥川賞を53年に受けた遅咲きの清張は
「時間が足りない。書きたいものがありすぎる」が口癖。
旺盛に執筆し、約1000点の作品を残した。
家族に見守られ、82年の生涯を終えたのは、太宰の死から44年後だった。

(2009年9月7日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
大学を中退し映画、文学青年の真似事をはじめた身であるが、
1944(昭和19)年の秋に農家の三男坊として生を受けた。
小学校に入学した頃は、本らしき書物は農協の定期雑誌の『家の光』しか記憶がないのであるが、
長兄、次兄は学力は優等生であった。

小学五年の頃に、都心から引越しされた近所の家では、
応接間に本棚が数本あり、私は無知ながら本の背文字を見て、ため息をしたりしたが、
もとより通信簿『2』の多い劣等性であった。

私が都心の私立高校に入学して間もない時、
授業が面白<感じられ、読書に目覚め、新潮社の文庫本を中心に読みふけったり、小説の真似事の習作も初めたりした。

映画、文学青年の真似事した二十歳過ぎには、
太宰治の数々の作品を読んだりしたが、家柄もよいくせに作品の行間からは泣き言のような感じが多く、
何よりも妻子を残して、愛人と心中するなどは、小説家以前の社会人のひとりとして、許せなく、
総花的には好きになれなかった若い読者のひとりだった。
後年になると、太宰の家は狂気の人もいて、太宰の苦悩の心中を学び、
私も大人の階段の生活を過ごし、改心し、優れた作品に感銘を受けたりした。

松本清張の作品には、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』を読み、優れた文学作品と感じ、
『点と腺』を初めとする社会推理小説と称せられた一連の作品からは、
人の情念の深淵を描き、何よりも不条理的な動機に感銘したりしていた。
そして、松本清張が貧しき生活の中で、学歴もなく、社会人となり、
家族を養いながら小説を書き上げ、
芥川賞を受賞するまでの軌跡を知り、私なりの感動と勇気を頂いたりしていた。


しかし、この頃は純文学、中間小説、大衆文学と小説の世界では暗黙に区分されていたので、
私は太宰治は純文学、松本清張の作品は『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』等を含めた5作品を除き、
中間小説の多作する圧倒的な人と余りにも無知なひとりでもあった。


                               《つづき》




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ときには、おかしな日を過ごせば・・。

2009-09-10 12:53:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝は余りにも遅い朝8時過ぎに目覚め、まばゆい朝の陽射しを受けて、ぼんやりとしていた。
そして昨日は、おかしな日を過ごしたと微苦笑したのである。

昨日の朝9時過ぎに庭の手入れを始めたのであるが、
曇り空の中、樹木の剪定、そして草抜きをしたりした。

庭の手入れは我が家では私の責務となっているので、
独り草抜きをしていると、いつもながらサラリーマンの現役時代の人たちが蘇(よみがえ)ってくる・・。

私が人事異動し、不慣れな業務で孤軍奮闘し、苦戦している時、
私の所属していた部などを五つの部を統括されていた本部長のさりげない言葉、しぐさを思いだされたのである。
私としては初めて接したの上司であったが、お仕着せの言葉でなく、
まごころの秘そむ言動であり、私は素直に感謝した。

この本部長は、まもなく人事異動で左遷のような待遇をされて退社したが、
私としてはわずか半年ばかりで、さりげない言葉が確かなアドバイスと受け留め、
この時のさりげない言葉を思い出したのである。

こうした方が私の悪戦で困惑していた時であったので、
何よりの強力な援軍であった、と改めて蘇ったのである。
私はこの方に感謝の念で、今でも年賀状だけは送付している。


私は昼食も忘れ、三度ばかり汗をかき足腰も疲れを感じ、
作業を中止したのが午後3時過ぎであった。

そして風呂に入った後、家内に要望した餃子を主食とし、
ビールを呑みながら頂いたのである。
私は食事前、缶ビール350mlは少なくとも3本以上は呑めると思っていたが、
いつものように2本で満足となり、
『俺も弱くなったょ・・』
と私は家内にこぼしたのである。

『貴方は・・お勤めだった時は・・好きなだけ呑まれたのですから・・
今ぐらいが適量ですわ・・』
と家内は微笑みながら云った。
『そうかなぁ・・』
と私は苦笑したのである。

この後、疲れを感じ、寝室の布団にもぐったのが、夕方の5時半であった。
そして、嵐山光三郎・著の『不良定年』(ちくま文庫)を1時間ばかり読んでいる眠りについたのである。

目覚めたのは夜9時半過ぎで、寝ぼけまなこで夕刊を読み、
NHK総合の『歴史秘話ヒストリア』を途中からぼんやりと視聴し、
『姫路城 美と強運の400年物語~巨大迷宮の秘密を探る旅~』と題された番組で、
姫路城は観光周遊で一度ばかり観たことはあったが、あのような城になっていたの、
と感じたのである。

この後の11時からは、先週に続き『SONGS』で『コブクロ part2』を真剣に視聴し、
『ここにしか咲かない花』、『TO CALLING LOVE』、『蕾』、
『サヨナラHERO』を聴き惚れたのである。
そして初めて聴いた『TO CALLING LOVE』に感銘をしたが、
ロツクンロール調に苦手な私は『サヨナラHERO』を聴き、
コブクロもこうした面も発揮されるのかしら、と微苦笑を重ねたのである。

11時半過ぎると、ぼんやりと庭のない生活は・・と漠然と思ったりしたのである。
私達は子供に恵まれなかった夫婦であり、
どちらかが身体が不自由になった時は、止む得ず今の一戸建ての生活を断念して、
利便性のあるマンションに引っ越そうと話し合っている。

このようなことが根源となっていたのか、何気なしにネットでマンションの広告を見たのである。
もとより私はマンションの住まいとなったならば、
東京駅より一時間ぐらいの電車で、最寄駅より10分前後の徒歩となる。
そして樹木の多い公園が隣接になっている場所に住み、
少なくとも2DKにプラスとし書斎のような八畳以上の洋間が必要とし、
大学病院のような総合病院がバスなどを利用しても15分ぐらいで通院できるのが理想である。

このように身勝手な思いでいると、中々理想的なマンションが見つからず、
心の中で苦笑いをしたりしていると、深夜の3時となり、
私は玄関庭の軒下でタバコを喫ったりした。
そして蛍のようにあっちの水は甘いなぁ、こっちのよ水は辛いなぁ、
と彷徨(さまよ)ったりした心境に苦笑をしたのである。

この後の私は、歯を磨いた後、ひっそりと寝室に行き、布団にもぐりこんだのである。



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