夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去りし、定年後の私の9月19日の思いは・・♪  【上】

2009-09-20 06:24:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨日の午前中は年に一度の健康診断を総合病院で受診後、
帰宅して、遅い昼食後を頂いた後は梯久美子・著の『昭和の遺書 ~55人の魂の記録~』(文春新書)を読んだりしていた。

夜の9時過ぎに玄関の軒下で夜風に身をゆだねて、
煙草を喫ったりしていると、花梨(カリン)の実がゴルフボールより大きめがたわわになって、
夜風を受けて揺れていた。

私は毎年少しばかり剪定をしたり、周辺を草むしりする程度であるが、
今年は台風の影響もなく、百ぐらい実っているので微苦笑をしたのである。

この花梨の樹木は、私が実家の近くに家を建てたのは昭和53年の春であり、
その年の入梅の時季に公園の外れにあった園芸店で、
白い花が咲く梔子(クチナシ)の樹と一緒に購入したのである。

共に幼木で、数年後に少しばかり成長したので、梔子(クチナシ)の樹と花梨(カリン)の樹も移植したのであるが、
梔子(クチナシ)の樹は深植えせいか失敗し、花梨(カリン)の樹だけは驚くほどに成長し、
ときには大幅に剪定をしたりしてきた。

この花梨の実は、晩秋の勤労感謝の日の前後に、香ばしい匂いの黄色く大きな実をもいで、
ご近所の方が、できたら、と言われ差し上げたり、
我が家では蜂蜜入り、家内の母に砂糖漬けを要望されているので、家内が台所で数日かけて作ったりしている。

私は何にもしないのに百ぐらいなっている実を眺め、
これだったならば収穫の時は半分ぐらいは採れるかしら、と思ったりしたのであるが、
たんたんと毎年実の成る果樹に何かしら圧倒される思いで居間に戻ったのである。


この後、私はこの時節、定年後の生活はどのように過ごしてきたのか、
と漠然と思いながら、このサイトを開いたりした・・。



昨年の9月19日の朝には、
【 この1週間、台風13号に惑(まど)わされ・・。 】
と題して、投稿をしていた。

【・・
東京郊外に住む私は、年金生活をして4年生となり、
NHKのニュースと天気予報は、殆ど毎日視聴している。

1週間前頃から沖縄諸島に台風13号の影響で、暴風と知ったが、
お住まいになられる方は被災は最小限にと思い、天気予報を視聴していた。

この後、ゆったりと停滞もしながら、北上しているのである。

私は身勝手ながら、これは困った、という思いであった。

台風はこの時節は毎年到来するが、
できうれば日本列島の海上を3、4日で通過し、陸地には程々の雨をもたらし、
漁業関係者、海上保安に携わる方たちは海上警報に注視し、
通過を願うのが、私の思いである。

関東地方の南部に於いても、
この1週間は台風13号と北上の強い偏西風の影響で、
快晴の1日を除き、小雨が降ったり、止んだりしている日々であった。

私は傘を差しながら、買物と散策をした後、
殆ど読書をしていることが平素より多くなっている。

そして、テレビを視聴しながら、
台風13号で被災された地域、お住まいの方たちには、
大変お気の毒です、早く平常の生活に戻れますように、しか言葉が出ない無力な身である。
・・】


この投稿を読みながら、今年は今の時点に於いては、
私の住む街は台風の影響は少なく、雨が数日降った程度である。


そして、同じ昨年の9月19日の夕方には、
【 40数年ぶりに、瀬戸内寂聴の小説を読みだし・・♪ 】
と題して、投稿をしていた。

【・・
私は昨日の午後より、瀬戸内寂聴・著の『秘花』(新潮社)を読み始めて、
本日のひとときも読み、第四章の数ページで、小用の為にやむえず中断している。

私は民間会社を定年退職後、年金生活の身で、もとより能の素養がないが、
中世で能の大成者と知られいる世阿弥に興味を持ったのは、
東京オリンピックの頃からであった。


8月の初旬に3泊4日で、佐渡島に滞在旅行をする前、
瀬戸内寂聴・著の『秘花』を遅ればせながら本屋で購入したが、
あえて私なりの流刑となった世阿弥の佐渡の時代を思いを馳せたく、
未読としていたのである。


私は東京オリンピックの開催された頃、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた。

この当時の頃、瀬戸内晴美の『夏の終り』を読み終えて、
友人らに絶賛したりし、初期の作品の『女子大生・曲愛玲』、
『花芯』などの短編小説集を読み耽ったりしていた。

この後、『女徳』などで大衆文学を精力的に発表された後は、
私は瀬戸内晴美の小説から離れた。

私が25歳から民間会社に中途入社した後、
『美は乱調にあり』を本屋の店頭で見かけたが、
タイトルの命名に魅了されたが、購入する意志はなかったのである。

その後は、瀬戸内晴美は仏門に入った、と月刊総合雑誌などで知り、
私は有数の小説家なのにどうした心境なのか、
と思ったりしていた。
そして、のちに晴美から寂聴と改名され、
私は少し寂しさを隠し切れなかったのである。


私は平成16年の晩秋に民間会社を定年退職をし、年金生活に入った頃は、
瀬戸内寂聴ご自身は、既に20年近く法話などされて、賞賛された人となり、
稀(ま)れな著名人となっていた。

私の年金生活は、身過ぎ世過ぎの日常であるが、
小説、随筆、現代史、歴史書などを読む時間を優先としているので、
本屋に寄ったり、ときおり古本屋を訪ねたりすることが多いのである。

数年前、本屋の店頭で、
水上 勉との対談集『文章修行』(岩波書店)を見かけ、購入し、
両氏の純文学の深い思いに、思わず涙を流したのである。

その後、石原慎太郎との往復書簡の『人生への恋文』(文春文庫)を読み終え、
瀬戸内寂聴の人生の軌跡を改めて知った上、日常の思いも知り、
数多くの人生の機敏を学んだのである。


ただ、このお方の真摯な数多く発表された中期、後期、そして近年作の小説は、
私は本の愛好家のひとりとし、無念ながら未読となっている。

尚、このお方の真摯な『秘花』を拝読を終えた後は、
単なる感想文でなく、大人の評論を掲載する予定である。

・・】


確かに昨年の8月の初旬に3泊4日で、佐渡島に滞在旅行したが、
世阿弥の佐渡の時代を思いを馳せながら、
瀬戸内寂聴・著の『秘花』の作品を重ねていた時期だった、
と私は独りで苦笑したりしたのである。



一昨年(2007)の9月19日には、
【 私の定年退職後の現実は・・♪  】
と題して、投稿をしていた。

【・・
10月を迎えると、私は民間会社を定年退職後、丸3年となる。

ときおり、退職前の時期で予測したこと、
そして現実に過ごしてきた生活を振り返ったりすることもある・・。

現役時代は、時間が勝負、と思っていた。
ある程度の年収を得れば、責務と権限が伴うので、
定例業務は素早く終わらせ、改善策を色々と思考し、具進したりしていた。

これらに伴い、与えられる業務量は増したので、睡眠時間を削り、
ときには徹夜をいとわないで、勤務していたりした。

どなたでも同じと思われるが、会社の駒(こま)のひとつ、と空(むな)しさと感じたこともあり、
或いは達成感の喜びもあったりしてきた。

そして、自分の敵は自分である、という思いで、長年勤務をしてきた。

こうした理由もあり、定年退職の数年前から、
せめて退職後は、自分の好きなことで、時を過ごしたい、と切実に思ったわけである。


退職後の無職の年金生活は予定通りであった・・。
昭和19年に生を受けた私は、
満62歳を過ぎる2年間は報酬比例部分としてほぼ満額の6割弱で、
現在は満額を頂き、生活の基盤としている。

我が家は生活の諸経費は満額となった年金でまかない、
旅行費、思いがけない経費は多少の貯金を取り崩して生活している。

これらは退職前の想定どおりでにあり、
年金生活で時間が自由の身であるが、それなりに自身の趣味の世界で忙しいのである。

国内旅行は私達夫婦の共通の趣味であり、四季折々、各地を訪(おとず)れている。
私が予想外としては、家内が祭り好きなので、地方の祭りを観たりしている。
そして温泉滞在は3泊4日程度は予期していたが、
これ以上の滞在が多い時もあったりしている。

旅行はあくまで非日常生活なので、
月の大半を過ごしている肝要な日常生活に於いて、
予測していたことと差異があり、微苦笑をしたりしている。

私は文章を綴ることが好きなので、
電子メール、或いはホームページを開設する予定であったが、
退職後まもない時に、ブログの世界を知り、これ以上最適なことはないと思い、
ほぼ毎日投稿し、生きがいのひとつとなっている。

買物と庭の手入れは、家内との約束で実行しているが、
買物と散策などで、平日の日中の時間を知り、社会を知る上で、いろいろと教示させられた。

庭の手入れに関しては、退職前の構想として、
樹木、草花の春夏秋冬のそれなりのイメージがあったが、手抜きが多いのが実態である。

映画鑑賞はビデオ・テープ、DVDの保管棚から居間で観よう思っていたが、
ときおり観る映画は圧倒的に1960年代前後が多いので、苦笑している。

音楽はカセット、CD、DVD等で視聴しているが、
何故かしら敗戦後から2000年の頃までの曲を聴くことが多い。

テレビを視聴するのは、ニュース、天気予報ぐらいであり、
ときたまドキュメンタリーの番組を観る程度である。

読書に関しては、新聞をゆっくりと精読するのは予定通りであったが、
興味ある小説、随筆、歴史書、現代史などを高校性以来読み続けている。

散策、買物の折、本屋に寄ることが多く、新刊本、文庫本、雑誌を問わず購入したり、
ときには古本屋に寄ったり、或いは所有している本を再読したりしている。

著作者の導きで、私のつたないなり思考でその世界に思いを馳(は)せたりするのが好きなので、
日中のひととき、或いは夜、布団にもぐり寝付くまで活字文化にふれるのである。


何より日常生活で教えられたのは、
玄関庭、主庭の四季折々の陽射しのうつろいであった。

平日の静寂なひととき、朝方、昼下り、夕暮れ、と移ろう情景に、
私は独り見つめて享受している。

・・】

この時は、定年退職後の3年を迎える寸前であり、
私はまもなく丸5年となるが、こうした思いは余り変わらない。
数多くのサラリーマンと同様に多忙な現役時代を過ごしてきたのであるので、
《・・何より日常生活で教えられたのは、
玄関庭、主庭の四季折々の陽射しのうつろいであった。

平日の静寂なひととき、朝方、昼下り、夕暮れ、と移ろう情景に、
私は独り見つめて享受している。》
こうした思いを深めている。

そして、ともすれば年金生活は自由な時間となり、だらけた時を過ごすのは、
残された人生を粗末にするので、と自戒をしたりしている。

                              《つづく》





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年金青年、退職後4回め『特定検診』を受診して・・。

2009-09-19 15:01:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
わが市では国民健康保険に加入している40歳以上は、
年に一度の『特定検診』と称されている健康診断がある。

私は定年退職後の翌年度から、勤めていた企業の保険グループから国民健康保険に所属開始し、
今回は4回めの健康診断を本日の午前中に受診したのである。

これまでと変化があったのは、体重が3キロ減り、私は微笑んだのである。
私は退職後、直ちに年金生活に入り、好き勝手なことをして毎年少しずつ体重が増え、
市の斡旋する『メタボの研修』を今年の2月より半年に及び、受講したのである。

うら若き保健師の女医さんの優しい指導で、
ビールでしたら350mlの缶ビールを2本までにして下さいね、
と云われりしたのである。

これまでの年金生活の間でも、純米酒の辛口好きの私は晩酌の時は、
2合、ときには3合を呑んだり、
或いはビールの時は500の缶ビールを数本を呑んできたのである。

私はこの『メタボの研修』以降は、旅行で地酒をある程度は呑んだりした以外は、
缶ビールの350mlを2本までを殆ど守ってきたのである。

もう少し呑もうかしら、と思うと、
何故かしら優しい女医さんの笑顔が蘇(よみがえ)り、
缶ビールの350mlを2本まで夜が圧倒的に多かったのである。


私が体重は少し減ったと家内に伝えたら、
『あなたの健康にも良いし・・家計費のアルコール代も減りますから・・』
と家内は私に微笑みながら、云われたりしたのである。


この後、私は昨年の健康診断を受診を読み返したのである。
このサイトに於いて、昨年の9月16日には2通ばかり投稿していた。
一通目は昼前に【 定年後、3回目の『健康診断』・・♪ 】と題して投稿していた。

【・・
私の住む調布市に於いては、国民健康保険に加入し、60歳以上は毎年『誕生日』が到来する月に、
『誕生日健診』が実施されてきた。

本年は国の医療制度改革に伴い、調布市の健診制度が4月から少し変わった程度である。

『特定健診』と称せられ、従来の基本健診で、
身長、体重、採血、心電、尿検査、血圧測定などが行われた後、最後に医師との問診となっている。

そして胃がん、大腸がんの検診もある。


私は定年退職後、3度目の市から通知書が配達されたので、
今朝の9時過ぎから『胃がん検診』の予約をした。

私はバリウムの白い検査薬を飲むのは苦手で、
私なりに苦痛のひとときを毎年味わっているのである。

その上、前夜の制約もある。
飲酒は控えて、夜の9時以降は水を含めて飲食は避けてください。
そして、当日の喫煙、歯磨きはしないて下さい、と明記されていたのである。

私は晩酌をしながら夕食を頂くタイプなので、
平常の体調を測定するのが健診でも本来の形である、と思いビールをいつものペースで呑んだのである。

今朝も愛煙家のひとりであるので、1本だけは喫ったりしたが、
これ以外は遵守したのである。

小雨降る中、タクシーで指定した病院に駆けつけて、
苦手のバリウムによる胃の撮影が終ると、ほっとしたのである。


昨年は40代の男性技師のもとで、検査したのであるが、
終ると何故かしら首をかしげた後、
私の方に近づき、
『本当に申し訳ないのですが・・機械の故障で・・
別棟の検査室で、もう1度撮影させて下さい・・』
と云われ、別棟に歩いた後で、
再び苦手なバリウムを飲んだのである。


今回は30前後の女性技師で、私好みの美顔の方が、
『少し仰向けになって下さい・・
位置を変えて・・横向きにうつ伏せ気味になって下さい・・』
と甘い声の指示を聴きながら、私は検査を受けたのである。

私はバリウムさえ飲まなければ、
自由な身の私としては、何時間かかっても良い、
と余計なことを思ったりしたのである。
・・】



この後は夕方に二通目を【 年金小父さん、健康診断のこぼれ話・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は本日の午前中のひととき、市から指定された年一度の健康診断を受診した。
『胃がん検診』も受けるので、昨夜から色々と制限され、
今朝も制約された上、苦手なバリウムの検査薬を飲むので、
少しプレシャーを感じていたのである。

昨夜は9時過ぎには、水分もダメと明記されていたので、
早めに布団にもぐり、寝ることにしたのである。

目覚めると雨が降りだして、
最近行いが悪いのかしら、と思ったりした。

私の日頃の下着は、下はパンズ型のブルーフであり、
上の方はランニング型であるが、殆ど袖なしのTシャツを着ている。

この袖なしのTシャツは、
ポップスの人気のあるTOKIOというグループで、この中のひとり長瀬智也が以前ドラマで着て折、
私は魅了されて、家内に頼んで購入した貰ったのは、定年退職の3年前頃であった。

年金生活に入った後は、自在の服装が出来るので、この袖なしのTシャツを愛用している。

半袖か長袖のスポーツ・シャツを羽織って、
5月過ぎから秋まで買物、散策に出かけることが多いのである。
年金小父さんの私は、胸毛は少し白髪となってきたが、心は若い方の感性と余り変わらないと思っているので、
このような容姿となっている。


本日も健診を受ける為に、小雨の中を出かけ、受診したのである。

レントゲンの健診の時、30歳前後の稀(ま)れな美麗な女性技師の方で、
私は急いで長袖スポーツ・シャツ、そして袖なしのTシャツを脱いで、上半身は裸となった。

『XXさん・・下着は着ていても・・大丈夫ですから・・』
と笑いながら、忠告されたのである。


身長測定のの時、
『はい・・1メートル69.5ですね・・』
とアシスタントの女医さんから云われた。

『齢を重ねると・・少しちじむのですね・・』
と私は明るく云った。
『ご年配の方は・・よくある傾向ですわ・・』
と云われた後、
私は長い間、70の時代であったが、
0.5センチばかりちじんだことに、齢を実感させられたのである。

体重も70キロ代となり、
家内と結婚した頃は、56キロの細身体が懐かしく、
『俺も・・71かょ・・』
と普段身勝手な日常を振り返ったりしたのである。

そして、多少太っていても、心身元気であれば良いではないか、
と63歳の自分を慰めていたりしたのである。

・・】


このように私は健康診断を受診をしているが、胃がん検診に伴い、
前日からの水分制限、そしてバリウムの白い液体薬は齢を重ねても苦手であるが、
これ以外は楽しい受診のひとときを過ごしたりしている。




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私が魅了させられた素敵な女性は、未知の安藤和津さん・・。

2009-09-18 23:02:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
政治に疎(うと)い私は鳩山政権の民主党のニュースに微苦笑をしたりしながら読んだりしていた。

そして20、21の両面の大きな広告のようなドイツのシーメンスの進化した補聴器の宣伝が掲載されて折、
どうしてなの、と不思議そうに眺めたりしていた。

そして右上に於いては、
【生きがいのある人生 ~明日を素敵に生きるには~ 】と明示している横には、
私にとっては未知の素敵な女性が何かしら講演のような形で、
マイクを持ちながら語りかけているようなしぐさであった・・。

この下段には、
【新おとなクラブ ~ 団塊世代のためのセミナー ~】
と明記されて折、
主催が読売新聞東京本社広告局、ヨミウリ・オンライン「新おとな総研」、
そして協賛はシーメンスなどと明記されていたので、私は思わず微笑させられたのである。


そして上段にかかげられた未知の安藤和津さんの【新おとなクラブ ~ 団塊世代のためのセミナー ~】の名古屋市内で
開催された講演の内容が掲載されていた・・。

母の在宅介護の体験、そしてご自身の生活の状況、生きがいなどを語らえて、
私は読み込みながら、魅了させられたのである。

この詳細の内容については、


読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、掲載されているので、
無断であるが転載させて頂く。

【 明日を素敵に生きるには 】

と題された講演のテーマで語られている。

《・・
今日は、私の61年間に体験したこと、感じたことを中心にお話ししたいと思います。

私の事務所は、東京・六本木のミッドタウンのすぐそばにあります。
ある深夜、12時ごろに、高校生ぐらいの若い女の子と大学生ぐらいの若い男の子が腕を組んで買い物をしていました。

レジは結構混んでいました。
私が並んだら、真ん前にその男の子が並んでいるんです。
あれ、男の子が並ぶんだ。
女の子はどこ?と思ったら、すぐわきで携帯電話でメールをピピピピッとやっています。
そのうち女の子が顔を上げて
「てめえ、遅いんだよ」
と男の子に向かって怒鳴りました。

男の子が「ごめんね。レジが混んでるから、ちょっと待ってて」(笑)ですって。


男女共同参画社会と叫ばれて長い世の中ですけれども、
「てめえ、持てよ」と女の子が言って、
男の子が「うん、ごめんね」というので、
私たちの老後を支えてもらえるんでしょうか。
少し心配になってしまいました。

政治も、私たちにとってとても大切なことですけれども、
次世代をいかに育てるかが今後の課題じゃないかということをしみじみ感じた買い物の一夜でした。


私は、女の仕事はサシスセソと思って生きていた最後の世代です。
裁縫の「サ」、
しつけの「シ」、
炊事の「ス」、
洗濯の「セ」、
掃除の「ソ」をやってこそ
家庭の中でのお母さんと言われた時代に育った私たちにとってみたら、
今のお母さんたちは楽だなと思います。

なぜかというと、昔労働に費やしたエネルギーは、今、機械が全部かわりにやってくれているからです。

「そのままトースト機械」って知ってますか。
前の晩、機械にパンを入れ、コーヒーメーカーに水とコーヒーの粉を入れ、卵を割ってタイマーをかけておくと、
朝起きたら、コーヒーが沸いていて、トーストが焼けていて、目玉焼きができているんです。
1万何千円するそれが飛ぶように売れているということは、みんないかに手抜きをしているか。
目玉焼きぐらいフライパンで焼けばいいのにって私は思ってしまうんですけれども、
そんな時、こんな川柳を思い出します。

「このおなか 胸までいけば Fカップ」。
みんな、体を使わないで生活できる状況になってしまいました。


☆辛かったのは私だけじゃない

私は母の在宅介護を8年やりました。
最初、私の母にまさか介護が必要になるなんて思いもしませんでした。
人間誰でもそうですけれども、自分だっていつどこで介護される身になるかわからない。
自分の親をいつどこで介護するようになるかわからない。
常に私たちはそういうことと向き合って生きているんだなということを、
母の介護体験をもとにしみじみ感じました。


母は実は脳腫瘍だったんですけれども、全く原因がわからなかった。

何か変だと思ったきっかけは、
母は、すべての電話番号を記憶していて片手で電話をかけるんですが、もちろん人間だから押し間違えます。
そうした時、「この電話の子機、壊れてるじゃないの」と、たたきつけて壊してしまいます。


ある時、母が検査入院しました。
検査の結果をお医者様に聞いたら、
「血圧と糖尿の気がちょっとありますが、いや、もう立派ですよ」と言われました。
母のヒステリーはやっぱりもともとのもので、病気は関係ないんだと思っていたところ、
病院に呼ばれました。

そして、退院前の脳のMRIで大きな脳腫瘍ができていることが分かったのです。

お医者様は、
「この腫瘍で、よくしゃべって、よく歩いてらっしゃいますね。よっぽど気丈な方なんでしょうね」
とおっしゃいました。
「腫瘍ができてから30年近くたっています。
手術のしようがありません。お薬も出せません」
と言われたとき、私は初めてわかってもらえたと思って涙が出ました。


母は悪魔でなくて、病気が母を悪魔にさせていたんだとそのとき初めて気づいて、
神様に生まれて初めて本気で祈りました。
1日でもいい、1時間でも1秒でもいいから親孝行する時間を下さい、と。


☆手作り料理で母の目に力が戻った

食べることはとても大切だと思います。
要するに、お医者様が薬もない、手術もできないとおっしゃったとき、
私は、素人の考えですけれども、血液がさらさら流れる食べ物を食べてもらえばいいんじゃないかと思いました。

なぜかというと、うちの母、私の手づくりで、
野菜を多く、油と糖分を少なくした食生活に切りかえて1か月で、目に力が戻ってきました。
気がついたら、テレビのリモコン、電話の子機は壊れてません。
母のヒステリーがおさまったんです。
食べるものの影響ってすごいなと思いました。


だんなさんが高血圧、糖尿、脳梗塞や動脈硬化の気のあるご家庭で、
だんなさんに「お銚子つけたから、もう1杯どう。いっぱい飲んでいいわよ」
「トンカツとウナギ食べなさい」
「たばこ大好きよね。たくさんふかしなさい」。
どんどんそれをしたら、だんなさんは健康に支障をきたします。

何しろ食べるものは人間の命の根本ですから、
本当に長生きできる体をつくるためには、食べることをちょっと考えた方がいいと思います。


☆さよなら「3時のあなた」で充実の日々
 
女性は自分よりも年上の夫と結婚している方が多いから、だんなさんが先に逝く。
悲しいことだけれど、女の人は自由時間ができますね。
これは見方を変えれば待機時間からの解放。
わかりますか。
それまでは、子供が、夫が帰ってくるから家に帰らなきゃと、
私たちはずっと待機していることからの解放が自由時間になります。
3時になると、夕ご飯の支度に帰らなきゃという「3時のあなた」からの解放です。


だから、女性の方はお連れ合いを亡くされても割と元気です。
男性の方は何で元気がなくなるかというと、家庭内自立がなされていないから。

では、今日ここでやってみたいのは、愛知県夫の自立度チェック。
男性の方々、ご自分で常日ごろおやりになっていることを指を折って数えてみてください。
伴侶がいらっしゃる方は、伴侶を思い浮かべて指を折ってみてください。
いきます。

1番、「おーいお茶」と言わずに、お茶やコーヒーぐらいは自分で入れる。

2番、お米やパンなどの主食の値段を知っている。

3番、得意と言える料理が2種類以上ある。ただし、レンジでチンとか、お湯を注ぐだけのものは省きます。

4番、背広やシャツなどを脱ぎっ放しにしない。

5番、自分の洋服類は自分で選んで買うことができる。

6番、ごみの収集日を知っている。

7番、「おーい、何々はどこにあるんだ」と怒鳴る前に、ちゃんと自分で探す。

8番、「ねえ、大根とネギが足りないんだけど、買ってきてくれる」と言われても、嫌がらずに、ちゃんとスーパーへ買いに行く。

9番、奥さんや子供や孫の誕生日を覚えている。

10蕃、仕事以外に、生涯楽しめる趣味を持っている。

辛いことを一つ乗り越えれば「幸せ」が 人生、辛いことはいっぱいあります。
辛い。
みんな幸せになりたいのに、60年たっても幸せは来ないじゃないのと思っている方、たくさんいらっしゃると思います。
でも、物は考え方です。
「辛い」ことを一つ乗り越えれば「幸せ」になる。
ばねと一緒です。
ばねも、ぎゅっと押さえられるから、ぽんと飛びます。
負のことを負としてとらえない。


うちの夫の芝居のセリフで、私がすごく好きなのがあります。
どんなに深い海にも必ず底がある。
底まで行ったら、あとは自分の足で蹴って上がるだけ。
ああ落ちちゃったと思って下まで行ったら、そのまま浮き上がれませんけれども、軽く足でぽんと蹴ったら、上にふっと行くはずです。

人生、ネバーギブアップ、私はそれを自分の心にしっかりと持って、前向きに生きていきたいと思います。

人生いろいろありますけれども、いろいろあるから楽しいんです。
100の要素があって、100%満足な人はどこにもいません。
欠けているところばっかり見るか、自分が持っているものを見るか。

人生残り、ああ、これっぽっちしかないと思うのか、
あと5年10年あるやと思うか。
誰も、明日どうなるかわかりません。
だったら、今日という1日を後悔ないように充実して生きて、明日につなげていく。
それがすごく楽しい生き方じゃないかなと私は思っています。

・・》
注)記事の原文にえて改行を多くした。


http://otona.yomiuri.co.jp/club/nagoya1.htm?from=yolsp


この後、私はこのサイトの右隅にある【 安藤和津さんに聞きました! 】というコーナーを拝見し、
微笑んだりした後、人生の真摯で確かな母親とのめぐりあわせしに教示させられたりした。

私は初めて安藤和津さんの思いや心の発露を知った次第で、
私なりに心を豊かにして下さり、感謝とこれからの人生に勇気付けられたりした。

そして、不思議な縁で今回初めて安藤和津さんをわずかに知ったのであるが、
私は素敵な確かな大人の女性として、魅了させられたのである。



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年金生活の我が家の『秋の大型連休』は・・。

2009-09-18 15:00:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨夜9時よりNHKのニュースを視聴していたら、
『今週の土曜日より、秋の大型連休が始まり5連休の方も・・数多くいられるようで・・』
と報じていた。

私は年金生活を半年ばかり過ぎた頃から、ともすれば曜日の感覚が薄らいでいる。
私達夫婦は子供も恵まれなかったので、子供がいなく、
当然のことながら孫もいないので、曜日感覚が衰えている、と思ったりしている。

この後、カレンダーを見たら、『敬老の日』が確か15日だったのであるが、
どうして21日に変わったの、と思ったりした後、
『秋分の日』の祭日には、私達夫婦は毎年私の実家の長兄宅に寄った後は、
お墓参りをしているので、
秋の彼岸入りはいつかしら、と感じたりしたのである。

我が家では『秋の大型連休』といわれても、私の実家のお墓参りぐらいであり、
明日に私の年に一度の『健康診断』の受診日、
あとは秋の状況にふさわしてように庭の手入れをしたり、
梯 久美子・著の『昭和の遺書 ~55人の魂の記録~』、
そして徳岡孝夫・著の『完本 紳士と淑女 ~1980─2009~』の二冊を読む程度である。


現役世代の働いて下さる方たちは、せっかくの『秋の大型連休』であるので、
家族、友人等で旅行をされたり、或いは行楽地で憩(いこ)いの時を過ごされる、
と思ったりしている。

私も現役時代の時でこのような大型連休の時は、
家内と国内旅行をしたりすると、各地で人が多くて、やはり私達の思いと同じと苦笑することもあった。
家計に余裕がなかった時は近くの公園に散策したり、高尾山、周辺の峰峰をハイキングに行ったりしていた。
或いは庭の手入れで、数日で樹木の剪定などで過ごしたりしていた。

いずれにしても、数多くのサラリーマンと同様に私なりに多忙な時であったので、
せめて大型連休の時ぐらいは、ほっと一息、ふた息をつきながら、
心を休ませたりしていた。


私達夫婦の共通の趣味は国内旅行であるが、
年金生活の今は、せめて秋の大型連休ぐらいは現役時代の人々に少しでもゆったりと過ごして欲しい、
と思いながら避けて、いつものように買物、家の周辺を散策したりする予定である。



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年金青年の私が、今読んでみたい本は・・。

2009-09-17 23:15:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
読書が何よりの趣味であり、日頃の大半は何かと本を読んでいる。

遅ればせながら高校生になると、突然に読書に目覚めて、
小説、随筆、ノンフェクション、歴史書、そして月刊雑誌などを読んだりしている。

購入する時は、新聞の出版社の広告の掲載を眺めたり、
或いは本屋で偶然に見て購入したりすることが圧倒的に多いのである。

ここ数日、ぜひとも読んでみたいと思っている新書本の二冊がある。

今月の10日に発売された総合月刊誌の『文藝春秋』10月号を読み終える頃、
文藝春秋の新刊の案内のページに於いて、『文春新書』のコーナーがあり、
この中で特に魅せられた二冊の本があった。


ひとつは梯 久美子・著の『昭和の遺書 ~55人の魂の記録~』である。
そして、《遺書でたどる昭和史》と明記されている。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166607136


もうひとつの本は、徳岡孝夫・著の『完本 紳士と淑女 ~1980─2009~』で、
《雑誌「諸君!」の巻頭を飾ってきた辛口名物コラムの筆者が遂に正体を明かした。
まさに文章の真髄がここにある。》
と記載されている。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166607167


この二冊の著作者に関しては、つたない私の読書歴の中で感銘を受けた人で、
今回の内容は魅了させられそうなので、読んで見たいと思ったのである。

尚、この二冊は文春新書の9月新刊なので、9月17日発売と明示されているので、
本日は雑用が不意にあったので、無念ながら一日遅れとなるが、
私は明日に駅前の本屋に出かけて買い求める予定をしている。




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改めて幼年期、心に秘めた歌は『水色のワルツ』と『芸者ワルツ』・・。 

2009-09-17 09:04:06 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、歯を磨き、顔を洗い終えた後、何気なしに鼻歌を唄っていた・・。


♪君に逢ううれしさの 胸に深く
 水色のハンカチを ひそめる習慣(ならわし)が

【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


このような歌を唄いながら、居間に戻り、初秋の朝のやわらかな陽射しを見つめていたら、
亡くなった母のことを想い出した・・。


10年少し前に亡くなったのであるが、私の幼年期の昭和27年の小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、バケツに満たそうとしていた。
風呂桶に入れるために、つるべ落としのたそがれ時だった。


♪あなたのリードで 島田もゆれる
 チーク・ダンスの なやましさ
 みだれる裾も はずかしうれし
 芸者ワルツは 思い出ワルツ

【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】


母が小声で唄っていた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしく、
この頃の私は何かしら期待されていないように幼年心で感じて折、
可愛げのない屈折した子供であった。

母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。


母の実家は、明治の中頃、国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む富豪であるが、
跡継ぎの肝要のこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気のではじめた芸者との交遊との結果、母が生まれた。

この頃の風潮として当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、母は里子に出された。

親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の実家に貰われてきたのは、一歳前で大正10年であった。

私の祖父は、農家を程々手広くしていて、使用人、小作人を使って折、
男4人、女も4人の子を設けていた。


母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。

母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて折、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は家の何かと便利のように手伝いとして使われた。

今の歳で云うと、13歳であり、祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝い、田畑も駆りだされていた。


後年、私が高校生になった時、感じたのであるが生前の母の筆跡は綺麗な部類に入っている。

この時、母の級友であったひとりが都会議員となった折、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・
家柄も良かったけど・・大学まで行けたのだから、幸せな方・・』
と母は私に言った。

私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが初めて解かった。

母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私達子供の前で、
ため息をついたのを私は忘れない・・。


母は祖父の子供達に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の実家から多くの金銭の贈り物で田畑、金融資産を増やしたことも事実である。

こうした環境の中で、祖父の子供の跡取りの長兄と母が17歳になった時、結婚した。
母は義理の弟、妹と共に家の屋根の下で生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思ったりした。

後年、母は看病の末、亡くなった父の弟、父の妹の婚姻などで、冠婚葬祭は色々あって、
親族、親戚の交際は、何かと気配りが・・と私に語ったことがある。


昭和28年になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
二ヵ月後に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。


このような時、春のお彼岸の近い日に、母の実家の方が心配をされて家に来た・・。

母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が実の父の妹を同行してきた。

このうら若き方は映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかよ、と子供心でも直感した。

この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたいたからである。

私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたので、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、
日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。

『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。
『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。

そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。

私は汚れきった格好であったので、恥ずかしさが先にたち、
地面を見つめていた。

私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。

母は結婚後の労苦の時、鼻歌を唄いながらその時を過ごされたのだろう、
と思ったりした。

『水色のワルツ』も母にとって、よく唄った歌のひとつであるが、


♪みだれる裾も はずかしうれし

【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】


私にとっては色っぽさもさることながら、少し物悲しく聴こえたのも確かである。

この歌のふたつは、私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、
切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。


私は亡くなった母をときおり想いだす時、
何故かしら『水色のワルツ』が心の片隅に蘇(よみが)り、心の中で唄ったりしている。

♪月影の細路(ほそみち)を 歩きながら
 水色のハンカチに 包んだ囁(ささや)きが
 いつのまにか 夜露(つゆ)にぬれて
 心の窓をとじて 忍び泣くのよ

【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


私は心の中で唄いながら、年齢を重ねた64歳の身でありながら、
いつも胸が熱くなったりている・・。



http://www.youtube.com/watch?v=SbnQK7XPclo
【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、唄・二葉あき子 】


http://www.youtube.com/watch?v=zODbc1zfnHA
【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】


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年金生活の今、秘かに『お気に入り』で愛し続けているサイトは・・。

2009-09-16 20:20:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
自宅でインターネットを開通させたので、定年退職の数ヶ月前であった。

私はコンビュータのネットに関する参考書を購入して、
Webの世界の若葉マークとなり、ネットで魅せられたのを『お気に入り』に登録したりするが、
半年か一年も過ぎると、殆どが飽きて、『お気に入り』から削除するのが圧倒的に多いのである。

このように退職後の丸5年を秋に迎えようとしているが、
私が秘かに愛し続けているサイトがあり、自身としては稀(まれ)なケースとなっている。

ある歌の歌詞を知りたくて、色々と検索して偶然に知ったサイトであるが、
ときおり学び、心の洗濯かしら、と心の中で歓声したりしている。

【 なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡 】
と題されたサイトで、数多くの名曲の歌詞が掲載されている。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

私は曲名が解かってて、歌詞を忘れたりすると、『50音順索引』を利用し、
歌詞の内容を思い出したり、或いは初めてこの歌詞の最後まで知り、こうした詞だったの、と教示さりたりしている。

そして、曲名が不明であるが、確かこの歌の、歌いだしは・・
このような場合は、『歌い出し索引』にお世話になっている。

私は歌は現役時代も人前で唄うカラオケは苦手で、やむえなく唄ったりしてきたが、
退職後の今は鼻歌を人影の少ない遊歩道や家の中で唄ったり、心の中で唄うことが多いのである。


そして小学生の時代などの時は、このサイトで、
一昨年の10月19日に於いては、
【 私の小学生時代の愛唱歌・・♪ 】と題して、
恥ずかしげに投稿していたのたので、あえて再掲載をする。

【・・
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖、ときたま怒り出すので、活火山の由来だった。


私が小学5年になる頃、小学校の音楽室にピアノが導入されて、
何かしら女の子達はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

我が家でも妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹達は先生にほめられた、と母は聞いて、有頂天になり、無理してピアノを購入した。

小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等性であった。


私が25歳を過ぎた時、企業に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。


今の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけである。

尚、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃を被り、中古業者に引き取られた。

・・】

このように投稿したりしているが、どなたも同じと思われるが、
その時代に街に流れていた歌の流行(はやり)歌と共に、その当時の自身が蘇(よみがえっ)りするので、
私の微苦笑することが多いのである。




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ときには、早起き元気な年金生活のわが身となり・・!?

2009-09-16 05:48:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
早朝目覚め、時計を見たら4時過ぎであり、玄関庭に下り立ち、
煙草を喫いながらぼんやりとしている。
東京の郊外は、この時節の日の出は5時半過ぎであるので、
まだ薄暗いのである。


昨日の朝9時過ぎに、私は庭に下り立ち、樹木の剪定、草むしりをした。
過日、途中で体力の限界を感じて、中断したので、今回はこの続きとしたのである。
曇り空の中であり、一時間した頃、わずかにポッリの雨が降ったが、
この後は予測されたように陽射しがない曇り空の22度前後で、
わずかに汗ばむ程であった。

久々に5月以来に家の裏側を手入れをしたが、濃い青色の小さな花を数多く咲かせる露草(ツユクサ)、
そして可憐なピンクの小花が咲く秋海棠(シュウカイドウ)が群生しており、
人知れずひっそりと咲くのに、わが身のようかしら、微苦笑をしたりした。

この後は、主庭に専念し、ある程度は終ったので、
家の中で家内が居るので、声をかけたら、午後の4時少し前であった。

私は昨今、体力の衰えを感じているので、こうした庭の手入れなどは、
昼食に何かを食べると疲れを増すので、
居間の片隅に、大き目の茶碗に四つばかり煎茶を淹れたのをお盆の上に置いているが、
或いはペットボトルの煎茶を置いて置く習性となっている。

手入れを一時間ぐらいすると疲れを覚えるので、
テラスに置いてある簡易椅子に腰かけて、煙草を喫いながら、この煎茶を飲み、5分ばかり休憩をする。
まるでハイキングのペースようだ、と苦笑をしたりする。


風呂に入った後は、このサイトに一筆啓上を認(したた)め、
夕食は早めの6時半過ぎにしながら、家内とこれからの旅行のことなどを話し合ったりした。

11時過ぎに眠くなったので、寝室に行き、
布団にもぐり、読み落とした『文藝春秋』を一時間ばかり読んでいるうちに、
眠りこんだのである。

今朝、ぼんやりと思ったのであるが、
現役の最期は出向となった時は、勤務地が少しばかり遠方であったので、
朝は起床は4時45分の定刻なり、帰宅は早くても夜の9時過ぎの勤務体制を思い出し、
苦笑したりしたのである。

読売新聞の朝刊が配達されていないこの時、ときには早朝に投稿するのは一年に数回かしら、
と思ったりしている。




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『よい夫は、一日一回妻に   』。・・拝見して・・。

2009-09-15 18:01:00 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読み、愛読している『編集手帳』を読んだ後、
左に何かしら広告のようなものが掲載されていた。

私は何気なしに読んだのであるが、

《 よい夫は、一日一回妻に    》。

と「妻に」の後が空白になっていたので、
私は、誉(ほ)める、かしらと思ったのである。

この下段には、

A)会う
B)ふれる
C)怒られる

と明記されていたので、この中から選定しなさい、と理解したのである。

そして右側には、さりげなく指輪の絵柄があり、
下段には。

 プロポーズ・アゲイン。

  Thanks Days
  Platinum



と明記されており、
この下段にURLが小さく表示されていた。

http://www.thanksdays.com/

私はこのサイトを見て、


Thanks Days Platinum(サンクスデイズ・プラチナ)は、
ご退職や、ご夫婦の人生の記念日に奥様への感謝の気持ちを刻んで贈るプラチナ・ジュエリー。


と明記されていたので、少しばかり苦笑したのである。


私達夫婦は子供に恵まれなく2人だけの家庭であるが、
私の定年退職の時は、たまたま家内の父が死去してまもない時であり、
国内の記念旅行は延期となった。

家内は宝石関係には、もともと興味がなく、
私達の結婚式の新郎、新婦としての指輪の指輪交換の儀礼は、
私は指輪よりは、カフスボタンとネクタイピンを希望し、
さすがに家内には、銀座で待ち合わせて、付近の宝石店で『結婚指輪』を購入したのである。
確か私の給料一ヶ月分ぐらいであった、と記憶している。

この結婚指輪は家内の小物入れに収納されて、
結婚一周年の時に、結婚式の夜に宿泊した都心のシティホテルで、
たった1泊2日であったが、ドレス姿で指輪をした程度である。

このような私達であるので、何かしら誕生日とか記念のイベントの場合は、
家内の要望された国内旅行をしてきた。
この中には、私としてはこの世で最も苦手な『ディズニー・シー』もあり、
付近のシティホテルに宿泊し、2泊3日の小旅行もあったのである。


定年退職後は、私達夫婦は国内旅行が現役時代より、
ゆっくり時間をかけるようになった。

年金生活の今、私は温泉滞在の場合は、3泊4日が理想的であるが、
家内の希望は、せっかく行くのだから5泊6日前後、と云ったりしている。

そして私は、家内には料理、掃除、洗濯など含めても何かとご足労をかけているので、
多少は日常生活から解放の意味と感謝の念で、
5泊ぐらいで行きましょう、と私は明るい声で家内に返事をしたりしている。



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嵐山光三郎・著の『不良定年』・・。

2009-09-14 16:21:50 | 読書、小説・随筆
私は作家・嵐山光三郎氏の作品に関しては、料理、温泉の随筆を読み、
ここ10数年は『西行と清盛』、『文人悪食』、『追悼の達人』、『悪党芭蕉』、
『死ぬための教養』、『人妻魂』、『編集者諸君!』、『おはよう! ヨシ子さん』
の順で読んできた。

特に『追悼の達人』を読んでいた時は、深く感銘させら、
これ以降は店頭で見かけた時は、無条件で購入し、読むことにしている。

こういた意味合いから、このサイトに於いても、
嵐山光三郎氏に関しても数多く綴ったりしているが、
過日、遅ればせながら駅前の本屋で、氏の『不良定年』(ちくま文庫)を見かけ、
ここ数日読んだりしている。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4480424113.html


あとがきに明記されているが、
《本書は2005年2月、新溝社より刊行された。》と表記されていたので、
『悪党芭蕉』の作品で読売文学賞したあとの一冊でもある。


本書は氏が大学卒業後、平凡社に入社された後、人一倍奮闘され上、
34歳で『別冊太陽』の編集長として実績が認められ、
その後は平凡社としては社はじまって以来の若さであったが、
勇猛果敢な桁外れに優秀な方であったので、
社長の強力な抜擢より、36歳で月刊教養雑誌の『太陽』の編集長となった方でもある。
そして、発行部数を伸ばしていたが
不運にも社の肝要な経営基盤の百科辞典が低迷し、45歳以上の希望退職が掲示された時、
氏は38歳の若さで、自(みずか)ら退社してしまうのである。

この後は、新興の出版社に携わり、編集をしたり、
自身で書かれたりし、やがて作者として精力的に数多くの作品を発表された方で、
65歳過ぎた時、この本書が発表されている。

私は本書を読み終えた後は、もとより氏の半生記と私は受け留めたのである。


私は氏の『太陽』の編集長を歴任された方は書物などで知っていたが、
なぜお辞めになったかは無知であったので、
この本書から初めて理解できたのである。

氏のこうした作者として活躍した時の心の発露として、
特にサラリーマンの定年退職後の諸兄に『不良定年としての生きる信条』を提示しているのである・・。

《・・
私の世代(引用者・注、氏は1942年生まれ)は、みんな不良少年だった。
(略)
そして就職れば、汗水流して働いて、
結婚すれば給料をまるごと妻にとりあげられて、ドレイ的な生活をつづけてきた。

ほとんどの男がドレイ志願者なのである。
給料がふえれば、妻にほめてもらえることだけが嬉しいのに、
妻は、それを当然のように受けとり、
「あなたの老後のため」という名目で貯金をして
女学校時代の友人と温泉旅行へ出かける。

困ったことに、妻がそういう贅沢をすることが「夫としての力量」と思いこみ、
妻が金を使うほど仕事に精を出す。
そのうち、子が「海外旅行に行きたい」といえば、
「おう。行ってきなさい」とポケットマネーをポンと出し、
父親は場末の安い居酒屋で飲む一杯の焼酎に、幸福感を得る。

(略)

定年後、さて、いままでのドレイ的奉仕のいくばくかを感謝されて、
妻子がお父さんへやさしくしてくれると考えるのは、まったくの幻想である。

妻子は、定年を迎えたお父さんがぼけると、
「いままで家庭をかえりみずに好き勝手にやってきたむくいがきた」
と判断して、冷遇する。
「家族のため」と思うのは、自分が家族に甘えたいための勘違いにすぎない。

(略)

死ねばいくばくかの生命保険が支払われるから、
墓に骨を埋まれてから、「いいお父さんだったわねえ」と供養される。
死んでから「いいお父さんだった」っていわれても、仕方がないじゃないの。
せめて生きているうちにそういうことを態度で示してほしかった。

このような事態を避けるために、男は定年後も金を稼がなくてはいけない。
無理せずに小銭を稼ぎ、自分の酒の飲み代ぐらいは使える身となるべきだ。

そのためには、妻からの自立が不可欠となる。

・・》
注)本書のページ20~22までの一部を引用し、あえて改行も多くした。

この後は、料理、下着の洗濯ぐらいは自身で・・
そして数日ぐらいは蒸発して、やがて無断外出を妻が黙認するようになる・・。
この後は自在の生活となり、定年後の不良生活を満喫するに当たっては、
百か条を掲げているが、私は秘かにうなずきがここでは書けないのである。
この百か条に関しては、購読者の特権と思い、ご配慮を願いたいのである。


さて、私はわかがまで身勝手なひとりであるが、
氏の言動には、この本書を読んでも圧倒されることが多いのである・・。

たとえば氏が5月の連休あけに潮来にアヤメを観賞するのであるが、
川面の風が寒くなり、船内にあった掛けぶとんをかけると、熱燗の酒を飲みたくなる。
そして佐原に出て、家には3時間ばかりで帰宅することができるが、
佐原へ行くと酒が飲みたく佐原の商人宿に宿泊する。

その後は成田空港の近くであったので、突然にハワイのホノルル向かい、
3泊した後は、帰路はビジネスクラスで成田空港に戻った。
そして、新宿まで電車で直行した後、三軒ばかりバーを廻り、深夜の一時過ぎになるとタクシーで帰宅する。

そして自宅の風呂に入った後は、深夜のテレビを見ながら、缶ビールを飲んで一息する・・。

このように氏は圧倒的な言動のある方で、何よりに奇抜な行動をされる方でもある。


私は本書を民間会社の定年退職を数年後に迎える方たちで、
成人された子供が数人いて、奥様が元気な方に、
特に一読を願いたい、と秘かに思ったりしているのである。



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『アナタが大金を持つ可能性は・・?』の心理テストに挑戦・・!?

2009-09-14 10:41:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
パソコンのトップページは、【Yahoo! JAPAN】に設定している。

昨夜11時過ぎ、ぼんやりとパソコン見ていたら、下段に、

《 お金で失敗したくないから
       正しく使ってきちんと節約
           どう使って、どう貯蓄する?

 お金の悩みは尽きないけれど、ちゃんと向き合って賢いマネープランを実践しよう。》

と明示されていたのである。

そして、この下段のひとつには、

《 アナタが大金を持つ可能性は ・・》

とあったので、たわむれに挑戦しょうかと思ったのである。

そして私は何事も好奇心を失くしたら、この人生は終りだ、
と信念の持ち主のひとりであるので、
恥ずかしながら、こっそりとクイックしたのである。


マネーライフの心理テスト
    【 ズバリ、大金を持つ可能性は? お金持ち度テスト 】

http://contents.insurance.yahoo.co.jp/column/psychology/index.html?d=20090622


☆私の心理テストの結果は・・☆

☆☆☆ よく稼ぎ、よく使う才能あり! ☆☆☆

金は天下の回りもの。
潜在意識であなたは、お金のことをそんな風に思っていそうです。

実際に稼ぐ能力は高い方ですが、それと比例して気前よくポンポン使ってしまっているでしょう。
当然、お金はあまり貯まりません。

お金にセコいのは考えものですが、だからといって散財するのはもってのほか。
貯蓄に対する意識改革ができれば、お金持ちになる可能性も上がっていくでしょう。


このような心理テストの結果となったのであり、やはりね、微苦笑したのである。


私は古惚けた一戸建てに住み、程ほどの小庭のある家に住んでいる。

私が結婚したのは31歳の時であり、
賃貸マンションを借り、家内は茶事を習いながら専業主婦で、
収入に関しては私の責務であったので、私は孤軍奮闘して、それなりに収入、支出、貯金も順調であった。
この間、国内旅行も希望したところは行ったり、或いは都心のシティホテルに宿泊したり、
外食も都心のレストランにも行き、程ほどの優雅な生活をしていた。

この生活は二年ほど続いた後、実家の近くに一戸建てを建てたのである。
どうせ住宅ローンで多額に借金するのであるから、ついでに茶室も母屋の中に設けよう、
と私の若気の至りで決意したのである。

予想以上に経費も要し、庭の樹木などの予算が乏しく、雑木を植えたりしたのである。
何より驚いたのは、住宅ローンの返済と一戸建ては何かしら経費がかかるので、
働けど毎月は赤字が多く、家内はパート、その後は契約社員となり、
共稼ぎの生活となったのである。

移住した直後は、居間の絨毯、ソファなども購入できなく、クーラーも買えなかったのである。
そして私はワイシャツも最低価格帯、作務衣も一番廉(やす)いのを選定したりしていた。
国内旅行も希望したコースを断念し、廉(やす)い地域ばかり行ったりしていた。

このような困窮した生活を続けている間、家内がデパートに契約社員として働いていたので、
デパートのカードローンを利用して、少しづつ、絨毯やソファなどを購入したりした。

そして3年目に何とか赤字の生活から脱して、しばらくして家内は専業主婦に復帰した。
私達夫婦は共通趣味の国内旅行であり、子供に恵まれなかったせいか、
サラリーマンの多忙な合間に多少経費を抑え、たびたび行ったりした。

そして、50代を迎えた頃、定年退職後の生活設計をお互いに話し合い、
本格的に検討したのが、私が55歳の直前に出向となった時である。

結論としては、定年してから年金生活をして、
お互いの趣味を尊重し、共通趣味の国内旅行に行くことである。
生活基盤は年金で通常の生活をまかない、
国内旅行、冠婚葬祭、思いがけない出費は貯金から取り崩すことを原則としたのである。


昨今、年金生活の五年生の身となり、定年退職の数年前に少しばかりリーフォームした古惚けた家に住んでいるが、
新聞の広告で、外資銀行に於いて、『金融資産一億円の皆様に』、
このような広告を見ると、私は苦笑してしまうのである。

私は小説、随筆、ノンフェクション系、歴史書などは5000冊前後、
映画のVCT,DVDの1000本前後、
そして音楽のレコード、カセット、CD、DVDは3000枚前後を所有して、
その日に応じて読んだり、観たり、聴いたりして過ごすことが多い。
家内も少しばかりであるが、程ほどの茶道具もあり、
お互いに魅了されそうな処に国内旅行に行ったりしているのである。

ときおり家内と、我が家はソフトに関してはその時に応じて使ってきているので、
残念ながらが、程ほどしか貯金ができなかったね、
と私は云ったりしている。

そして負け惜しみのように、
たとえ倹約ばかりして金融資産一億円あったとしても、
私達の人生の思いでのかけらもなかったら寂しいよ、
と現役時代の中小業に35年ばかり勤めた拙(つたな)い身の私は、言い訳をしたりしている。

このように家内に話したりすると、
働らなくとも何とか生活できるのだから、有りがたいわ、
と笑ったりしている。

尚、我が家は自動車も持てず、携帯電話の使えない変わった家庭でもある。



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もんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』、私のささやかな想いは・・。

2009-09-13 16:43:43 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨夜、NHKのBS2で『日めくりタイムトラベル - 昭和55年! -』
8時より放映されていたので、途中からテレビを観はじめたのである・・。

あの頃の出来事を画面を見たりしていると、1980(昭和55)年のことが思いだされた・・。


あの当時の私は、あるレコード会社の本社でたった独りのコンピュータ専任者であったが、
4月度より商品の物流を委託したり、販売の受託などもあり、
年始早々からは、関係会社との会議、システム改定などで奮闘していた。

確か3月初旬の頃、夜の9時過ぎに職場で、自席に座り、
コーヒーを飲んだり、煙草を喫いながら、システム改定の最終進度をチエックしたりしていた。
私の近くは販売推進系で、たびたびレコード、カセットの試聴盤をかけていたので、
私はポピュラー、邦楽の曲の数々を覚えたりしていた。

この時は、他社の青江三奈のような唄声が流れ、
しばらく聴いたりしていると、
『青江三奈のような唄声で・・音はおもしろく・・勢いがありますね・・』
と私は販売推進の次長に云ったりした。

もとより青江三奈は『伊勢左木町ブルース』、『池袋の夜』などをヒットさせた女性歌手である。

私は楽譜も読めなく音楽の素養もないが、単なる感性から専門外の身でありながら、
その時に感じたことは言葉にしていたので、ときには失笑されることもあった。

『アオエ・・ミナかょ・・もんた&ブラザーズ のデビュー曲で・・『ダンシング・オールナイト』だょ・・』
と販売推進の次長は私に云いながら、微笑んだりしていた。


この曲は4月下旬に発売されて、5月下旬の頃からラジオからもよく流れたのである。

そして、6月初旬にシングルのベスト第一位を獲得して、この後も8月の中旬まで独走し、通算160万枚を超えたのである。

この間、私の直接に関わった<商品の物流を委託のシステム対応も予定通り軌道に乗り、
そして販売の受託のシステム対応も順調に乗り、
この会社からは谷村新司のシングル盤『昴』、そしてアルバムもヒットとなり、
その後はアリスのアルバムも発売もされて、
私の勤めていた会社の業績が大幅に伸長したのである。


私は7月になると、何とか土曜休日の出勤からも開放されて、
家内がデパートに買物に行っている時、
浴衣(ゆかた)に下駄(げた)の容姿で近所の蕎麦屋に行った。
そして、日本酒の冷酒を二合ばかり呑み、笊(ざる)蕎麦を昼食代わりとしたのである。

この後、帰路に向う途中の大通りで、信号待ちしていた自動車から、
大きな音で『ダンシング・オールナイト』が流れてきて、私は思わず微笑んだのである。


このように私なりに、このもんた&ブラザーズ の『ダンシング・オールナイト』は懐かしく、
昭和55年は谷村新司の『昴』共に、私の心の片隅には『ダンシング・オールナイト』は忘れなれない曲となっている。


http://www.youtube.com/watch?v=ZWsham6WXGw
【『ダンシング・オールナイト』 作詞・水谷啓二、作曲・もんたよしのり、編曲・もんた&Brothers、松井忠重 】




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私が秘かに愛するテレビ番組『日めくりタイムトラベル』・・。

2009-09-13 09:25:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨日、雨が降る日中となり、昼下がりも22度で10月のような気温となり、
一昨日の初秋の晴れ間の快適に一日から、急激に変貌したので戸惑ったりしていた・・。

私は薄手の長袖のスポーツシャツを着たりし、
居間で午前中のひとときは総合月刊誌の『文藝春秋』、『中央公論』も読んだりしていたが、
昼下がりからは寝室の布団に持ち込んで、読んだりしているうちに、
寝付いてしまったのである。

目覚めると午後の6時前で薄暗く、雨が降ったり、止んだりしていた。

夕食が8時過ぎに終えて、家内は2階の寝室でゆっくりとテレビを観ると云いながら上がって行き、
私は1階の居間で何気なく新聞のテレビ番組表を見たら、
NHKのBS2で『日めくりタイムトラベル - 昭和55年! -』
8時より放映されていたので、テレビを観はじめたのである・・。

この番組のNHKの解説に寄ると、
《・・
昭和が懐かしい! 昭和がかっこいい! 昭和が新しい! 
お待たせしました、NHK・BSが自信をもってお届けする「昭和モノ」の決定版!

その名も『日めくりタイムトラベル』。
昭和のとある1年に注目し、事件事故から珍奇な流行に至るまで完全網羅。
その年の空気そのものを「日めくり形式」でパーフェクトに蘇らせます。

スタジオには各世代のタレントや文化人が大集合! 
その年生まれの3人がリポーターとなって、自分の生まれた年へとタイムトラベル。
どんな1年だったかを徹底検証します。

涙あり笑いありのエキサイティングな3時間! 
知っている世代には記憶の強力なフラッシュバック装置として。また知らない世代にとっては異世界への扉として。
さあ、「過去に置き忘れていた物」を探しにでかけましょう。
親子や先輩後輩など、世代の違う方が一緒になってご覧になると、なおさら楽しい番組です!
・・》

このように紹介をされて折、
私は昭和19年生まれで、昭和が終った昭和64年まで45年間は過ごしたことになるので、
その年、その年にそれぞれが懐かしく、
或いは苦節の年はほろ苦く感じたりしていた。

http://www.nhk.or.jp/himekuri/
『日めくりタイムトラベル』


昨夜は、『昭和55年』であり、いつものことながら、番組を視聴しながら、
この当時のことが思いだされたのである・・。


私は家内と結婚したのは、昭和51年の春であり、
私はあるレコード会社の本社でたった独りのコンピュータ専任者であり、
システム改定時もあり、孤軍奮闘していた時代であった。
東京都と千葉県の境に江戸川が流れ、千葉県側の京成腺の『国府台』が最寄駅であった。
学校が三つある古き学園街のような情景で、駅から5分ばかりにある賃貸マンションで新婚時代を過ごした。
家内は茶事を学びながら、専業主婦となったが、
程ほどの貯金もでき、私達は世間の怖さも知らず無邪気に生活をしていた。

二年後の昭和53年の春に実家の近くに一戸建てに移住したのである。
この時、私の若気の至りで、どうせ住宅ローンで借金するのだから茶室まで、
と母屋の一室に建築依頼をした。

予算がオーバーし、庭の樹木の予算が乏しく、
やむえず遠い親戚の植木屋も兼業している小父さんに、数10万円を持参し、
家の周りに少し植えてください、と懇願したりした。

実際一戸建ての新居に生活を始めると何かしら出費が多く、
私は働けどボーナスは住宅ローンで大半が消えてしまい、
家内は見るに見かねて、急遽パートタイマーで働きはじめたのである。

この後、家内は都心の契約社員として職場を変わったり、
本格的な共稼ぎとなったりしたが、
私の勤めていた会社は殆どヒット曲もなく、業績も低迷したので、
ボーナスも低下して、公私共々苦節の二年となった。

昭和55年の春になると、ヒット曲に恵まれて、
私も年収が上がり、まもなく家内は契約社員をやめて、再び専業主婦となり、
何とか飛行機で表現すれば、安定した水平飛行のような生活がはじまった年であり、
公私共々喜びの年であった。

私は番組を観ながら、社会はあのような出来事あったと改めて感じながら、
私達夫婦の若き日に思いを馳せたりしたのである。

http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2009-09-12&ch=12&eid=11442
『日めくりタイムトラベル - 昭和55年! 』



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『日経トップリーダー プラチナ会員』入会のご案内が郵送されて・・?!

2009-09-12 14:31:07 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
先程、郵便受入箱の中にたった一通の郵送物が配達された。

私は玄関庭の軒下で見たのであるが、

 『日経トップリーダー プラチナ会員』入会のご案内

と明記された書類で、なぜ私のように無力な年金生活の身なのにと思いながら、開封したのである。

《・・
    日経トップリーダー プラチナ会員

月刊誌(日経トップリーダー)に加え”音・映像””リアルイベント”を組み合わせ

「情報」と「機会」を提供するメンバーシップサービス

・・》

と明記されていた。

そして、経営、実務、エグゼクティブのセミナー、経営者懇親会などの参加、
そして月刊誌の『日経トップリーダー』の案内書も掲載されていた。

私は最も遠い世界なのにと思い、封筒を再び眺め、
右上に【Foresight ご愛読の皆さまへ】と明示されていたのを見て、
苦笑しながら了解できたのである。


私は現役時代のサラリーマンの時、40代の時に一時的に『日本経済新聞』を読んだりし、
50代の時は週刊誌の『日経ビジネス』、隔週誌『日経トレンディ』、月刊誌の『日経エンターティメント』を愛読していた。

退職後の年金生活に於いては、『読売新聞』は相変わらず読み、
総合月刊誌の『文藝春秋』は40年以上定期購読し、
特集に魅せられた時は総合月刊誌の『中央公論』も精読している程度である。

そして最近は、政治・経済などの深淵を確認したく、月刊誌の『フォーサイト』(新潮社)を購読し始めて、
数ヶ月が過ぎている。


このように拙(つたな)い身で、現役時代も経営者から遠い存在であったが、
たまたま最近、月刊誌の『フォーサイト』(新潮社)を購読したので、
この愛読者のリストから、広告宣伝の一環として、
私のように最もかけ離れた人にも送付されたのか、と苦笑したのである。


尚、月刊誌の『日経トップリーダー』にご興味ある方のために、
専用サイトを添付しておきます。
http://nvc.nikkeibp.co.jp/



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『小雨降る径』の名曲を【YouTube】で検索すれば・・。

2009-09-12 11:43:42 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
昨日の初秋の晴れ間の快適な一日から、急激に雨降る日となり、
私は戸惑ったりしていた。

朝の6時は20度のどんよりとした曇り空で、9時過ぎからは雨が降りだしている・・。
昼過ぎには22度前後、夜の6時には20度前後が予測され、
10月中旬のような気温と報じられている。


先程、玄関庭の軒下で煙草を喫い、小雨降る情景を眺めていたら、
シャンソン歌手の金子由香里さんの『小雨降る径』を聴きたくなったのである。

私の持っている金子由香里さんのレコード、カセット、CDは少なくとも15枚のアルバムはあるが、
この『小雨降る径』が収録されたのはレコードだけであり、少し気落ちしたのである。

私はレコード・プレイヤーを手放しているので、
やむえず【YouTube】に頼って検索したのであるが、
無念ながら恋しい金子由香里さんの『小雨降る径』の歌声にはめぐり逢えなかったのである。

この代わり異色のデュエットを聴いたりしたのである。

http://www.youtube.com/watch?v=UUT3c6lr6FY

【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三、唄・菅原洋一、冴木杏奈 】

少し画像が古く歌声の音量も乏しかったのであるが、
もとより菅原洋一さんのタンゴ調の唄声は魅力的であり、
偶然に知った冴木杏奈の唄声、そして表情としぐさに妖艶さも感じられ、
杏奈ちゃん・・素敵な大人の女性ね・・
と私は心の中で歓声をしたりしたのである。

このようなことを10時過ぎに、私は感じたりし、この人生のひとときの微笑(ほほえ)みを頂いたのである。


尚、私なりの金子由香里さんの『小雨降る径』については、
このサイトにも数編投稿しているが、この中のひとつを再掲載をする。

今年の春の3月8日に於いて、
【 そして、あの時、貴女は・・♪ 】
と題して投稿している。

【・・
東京郊外の調布市は、どんよりとした曇り空で朝を迎えている。
夕方からは雨となる、と地元の天気情報が報じられている。

私はぼんやりと、庭のテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、白梅、紅梅の大半散った花を眺めたり、日本水仙を眺めたりしていた。

そして、どうしたわけか解からないが、ひとつの歌が私の心を占領したのである。


♪静かな雨 並木の雨
 あなたを待つ 胸に降る

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 


私は心の中で唄いだした・・。

♪流れる唄 懐かし唄
 夢をささやく あのメロディー

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 

私は自分自身、どういう心情で唄いだしたのか、解からなかった。

♪いつの日にか また逢いみん
 溢れくるわ 涙

 【『小雨降る径』 訳詞・高田 三九三】 


私は定年退職後の5年生であるが、
ふと遠い昔の日々が甦(よみがえ)ったのである・・。


37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃い目の水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。

この後、家内と結婚前に交際していた時も、
この『銀巴里』とか、『蛙たち』にも行ったりしていた。


新婚まもない時、東銀座にある東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私達は参加した。

歌い手は私が魅了されている金子由香里さんで、
家内に『銀巴里』、『蛙たち』と違った面がこのお方は表現できる人であり、
せひ観て欲しかったのである。

3曲を唄った後、ボーイさんがリクエスト曲の用紙を廻してきた・・。

私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。

20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
とこのお方は言った。

私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。

このお方は少し驚いた表情されたが、唄いだした・・。

この後、数曲唄われた後、私達のテーブルに近寄ってきた。

『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、このお方は言った。

私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、よく通ったので、
ときおりリクエストなどをしていたのであった。

そして、このお方は、
『あなた方・・お若くて・・
これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫だから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私達に言った。

私は、人生の駆け出しのあどけない私達を観て、
慰めと励ましでわざわざ、私達のテーブルに寄って下さった、
と思ったりしている。


このようなささやかな思いでが私達夫婦にはあったので、
どんよりとした曇り空、いつ雨が降ってもおかしくない情景なので、
このような心の片隅にあることが想いだされたのかしら、
と感じたりしたのである。

そして、若き日々人生を歩みだした時、
『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生に気負っていたのかしら、と先程から苦笑したりしている。

・・】

このよう私なりに、ささやかな思いのある『小雨降る径』である。



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