ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

別所長治公の末裔(4)酒井忠以と河合寸翁

2025-03-01 | Weblog

 安永7年3月1778年、姫路を出立した姫路酒井藩2代目城主、酒井忠以の一行が三木町に途中立ち寄った。三木から有馬温泉までの「湯の山街道」は、豊臣秀吉が三木城戦のために整備した新道です。

「3月11日、三木町大庄屋十河与次太夫方に止宿。三木町の辺より別所小三郎か城跡をのそむ。」『玄武日記』

忠以は持病治癒のために、有馬温泉に向かう途中でした。

「もののふのまもりしあとはあれはてて何かすミれの花さきにけり」。「すミれ」はスミレ。

これまでに通り過ぎて行った時間のながれは、あまりにも速い。

 河合寸翁、少年のころは名を猪之吉、そして16歳から隼之介、54歳からは道臣。どんどん変わっていきますが、ここでは隠居後の名「寸翁」で通します。

 ところで藩主酒井忠以と河合寸翁とは、子弟でありかつ兄弟のような関係でした。寸翁が城主にはじめて謁見したのは安永6年1777年、11歳のときでした。若き藩主忠以は22歳。主君は少年に卓越した才能を、瞬時にして見出します。「超宗公材之教以諸芸」。忠以は寸翁に諸芸―和歌、茶道、絵画など。さらには政治経済などあらゆる教えを授けた。

 忠以(宗雅)は茶を松平不昧校に師事。宗雅は大名茶では、国を代表する人物でした。忠以は、画は少年の弟、酒井抱一に指導した。酒井抱一は後に江戸琳派を大成する大家だが、兄忠以の絵画力も一流でした。

 

 姫路藩家老の河合寸翁は、藩民にとって大恩人でした。膨大な藩の借財を完済し、殖産興業も目を見張るものがありました。木綿はじめ専売品を拡大しました。高砂染、東山焼、朝鮮人参、蝋燭、皮革、竜山石、絞油を増産。また飢饉や貧窮者に備えた固寧倉(こねいそう)を藩内に数多く造らせた。

 さらには寸翁は菓子舗の伊勢屋を江戸に修行に行かせ、銘菓「玉椿」を作り上げさせた。また小料理屋を同じく江戸に行かせた。そして嘉永元年に鰻料理屋「森重」(もりじゅう)が誕生する。ともに現在も盛況です。

 

 河合寸翁と別所家8代目小三郎とは、親密だったと考えられますが、両人にはなぜ深い繋がりがあったのでしょう。碑文ではふたりには何か縁があり、さまざまな土木工事に小三郎は寸翁の指示を得て、活躍しています。

 兼田村では新田を開発している。また塩田では宇佐崎村の新浜開発に小三郎が当たっています。着手は文政11年1828年。

 他の塩田開発をみると、彼が直接かかわったのではないようですが、木場村、大塩村、的形村三村の塩田も、ほぼ同時期に開発されました。天保9年1838年には4ヶ村の塩田で80万俵生産し、半分を江戸に船積するほどの生産量になりました。

 運河は八家川の内陸湾/ひろみ広海から、継村経由で仁寿山下の山校に達する計画でしたが、残念ながら途中で中断しました。工事の開始は文政10年1827年。この計画も寸翁の指示で小三郎が進めていました。  

<2025年3月1日>

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別所長治公の末裔(3)石碑文

2025-02-17 | Weblog

近くの山麓のことは、「播州山麓」連載の第1回で紹介しました。小さな三山が連なる姫路の山塊です。西の峰が仁寿山で、南麓に姫路藩家老、河合寸翁が設立した仁寿山校がありました。

そしてこの学校の建築、さらには運河開設や新田開発に、別所氏8代目が建設に当たりました。なお河合寸翁一族の墓域は少し西の山中腹にあります。

東の峰は、小高い船橋山です。その麓の南東に、別所家一族の墓と石碑があります。姫路バイパスを西方向から東インターを下りると、碑は最初の信号機のすぐ左手に見えます。立派な墓石です。

また目印は「ホテル継KEI」。継の読みは「つぎ」ですが、ホテルはあえて「ケイ」と読ませています。墓域はホテルのすぐ西隣です。一帯は車の通行量が多く、横断歩道は少ない。墓参に訪れる方は、交通事故に十分注意してください。

この墓碑文裏面には長文が彫られ、読みずらい刻字箇所もいくらかあります。いつかは全文を紹介したいと思いますが、とりあえずは簡略文を記します。正しい字をご存じの方がありましたら、コメントでお知らせくださればありがたいです。

なお原文は、□:文字不明、句読点なし、改行無し。それから運河は、近くを流れる八家川の広海(ひろみ)から山校までの計画であったが中断した。名残に堀止(ほりどめ)の地名がいまも継地区にあります。また文末の櫻花ですが、長治公は旧暦1月17日、あとひと月ほどで咲くサクラに思いをいたされていた。 

 

 

<別所家之墓> 

わが祖先は東播播十八万石、三木城主、別所小三郎長治が天正八年正月十七日に落城の際、 

今は唯恨みもあらじ諸人の命に代る我が身と思へば

時世を詠みて自刃し、菩提寺法界寺に葬られた。

家臣の杉本□兵衛が、自分の子の亀吉を主君の嫡子の身代りとして入れ替えた。

長治の嫡男の小右衛門光治、幼名寅松を偽って我が子に仕立てたのである。

そして加東郡東条□長井村に逃れて住まいした。

数年の後、長井村の南の地に移ったが、徳川治世の世に武門再興の希望は持てぬ。

布屋と号し呉服屋を営み、前住地にちなみ長井を氏とした。

曾祖父八代、惣兵衛□□は、姫路城主酒井家の家老河合隼之助寸翁公の命を受け、

仁寿山学問所の建設に当たった。また運河と阿保新田、宇佐崎□浜の新開をたまわり、

完成を賞せられ□四反余の新田をたまわった。

これを機に、継村内に移住して、農業に転じた。

そして明治維新後、一般人も苗字を名乗ることができるようになった。

われわれも別所氏に復す時を迎えた。

別所氏九代小三郎氏は学才あり、書画をよく好んで、村内子弟の養育につとめた。

彼に五児があった。長子十代小三郎氏は大阪に住む。

次子は田尻家に養子に入り、同じく大阪に。以下三子は東京に居住する。

これまで、一族各人は墓地を散立していたのをここに改葬した。

この地を長く別所一族墳墓の地と定める。

  昭和十四年四月中旬  

  櫻花の満開の節これを建つ

※追記 寅松と亀吉について。亀吉は開城の前日、病死していたという説があります。

  死して、翌日に、次の主君、寅松のためにつくす。亀吉も忠実な家臣のひとりです。無名でなしに、碑文の通りに名を記したのは、立派な家臣であるからと、聞きました。

  もしも亀吉が、一族自決のときに生きていたなら、どうでしょう。年齢はおそらく三歳。照子が我が子四人全員を短刀で刺した、とされています。生きている亀吉を寅松の身代わりに、照子が刺し殺すことは、わたしには想像することが、できません。

  亀吉は前日に死亡していた。これで円滑に話しは進みます。長治が本人の自決の直前に指示し、一族女性三人と子どもたち七人は、城内の庭で火葬されました。

<2025年2月17日>

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別所長治公の末裔(2)一族の辞世

2025-02-11 | Weblog

1年と10か月ほども続いた三木合戦。籠城戦もついに終わりを迎えます。別所長治と照子夫妻は、辞世の和歌を詠んでいます。一緒に自死した一族たちも同様です。弟の別所友之夫妻、叔父の別所吉親妻の波、家老の三宅治忠。籠城戦の開始は、天正6年3月29日(1578年)、開城は同8年1月17日。実に実に長い籠城でした。最後まで耐えた一族の辞世を紹介します。

 

□三木城落城之時に詠む

長治とよはれし事も偽か弐五年の春を見捨て                          別所長治 

  長治と呼ばれし事もいつわりか。25年の春を見捨て行こう。「長治」は「長い春」でしょう。「25年の春を見捨て」について、旧暦では春は、1月から3月まで。  一族の自決は1月17日ですが、現暦では2月下旬ころでしょうか。春ですが、桜花の開花はまだです。意訳「桜の咲く前のいま、まだある春にさようならと言い」。それから、長治の年齢ですが定説はないようです。23~26歳のいずれかと伝わっています。しかしこの歌から、25歳ではなかったでしょうか。そのように思えて仕方ありません。

 

□別所氏討死之節、辞世之和歌

今は唯恨ミもあらじ諸人の命に代はる我身思えば                   別所長治 

  いまはただ、うらみもない。諸人の命に代わる我が身と思へば。

 

もろともに消え果つるこそ嬉しけれ遅れ先立つ習ひなる世を              長治妻 照子 

  夫婦とはいえ、死ぬのは後になり先になることが世の常だというのに、私は夫と一緒に死ねるのがうれしい。照子は丹波国篠山城主、波多野丹波守秀治の娘。

  

命をも惜しまさりけり梓弓末の世までも名をおもふ身は                   弟 別所友之

  後の世まで名の残ることを願って武士の名誉を全うするのだから、命も惜しんではいない。

 

たのもしや後の世までも翅をもならぶるほどの契りなりけり               友之内室 尚

  翼を並べて一緒に飛ぶように過ごしてきた夫と私は、次の世でも一緒に生きることを約束したのです。尚は但馬山名和泉守豊恒の娘。短刀を手にした尚だが、手が震え刀を落としてしまった。長治の妻照子はそれを見て諭した。「遅れ先だつ道をこそ悲しき物とは聞候ひき。共につれ行死出の山、三途の川も手を組んで渡候はんこそ嬉しけれ。余りに嘆かせ給へは、後の世の迷ひにこそ成候べし」『別所記』

 

君なくはうき身の命何かせむ残りて甲斐のある世なりとも                家老 三宅肥前守治忠     

  生き残って甲斐のある世だとしても、主君のあなたががいなければ私の命があってもしかたがない。当日の介錯は三宅治忠がつとめた。

 

のちの世の道も迷はじ思ひ子を連れて出でぬる行く末の空                 叔父別所山城守吉親の妻 波

  波は武芸に秀でた女傑。夫吉親との子どもは3人あったとされています。男2人、女1人。「思い子」とは、ともに自決した自身の子たちをいうのでしょうが、あるいは城主夫妻の子どもの意味もあるのでしょうか。長治の男児は、この日に逃れたと伝わる。

 

 長治は自刃の前に家臣に指示した。先に逝った3人の女性と、7人の子どもたちの火葬である。照子、尚、波。そして我が子4人と、波の子の3人である。十人の遺体は庭に下ろされ、蔀(しとみ)や遣戸(やりど)など、建具で覆って火を放った。                                             

<2025年2月11日>

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別所長治公の末裔(1)

2025-02-05 | Weblog

久しぶりの「山麓噺」、数回の連載になりそうです。

きっかけは近くの山麓に建つ別所家の3基の大きな石碑。三木合戦、羽柴秀吉の軍勢に敗れた城主、別所小三郎長治の一族のことなどを記します。

 

三木は東播磨。領主の別所氏は当時の播州で最大の勢力でした。

城攻めですが、秀吉の攻め方があまりにもひどい。城から一歩も出られないように囲み、兵糧攻め「三木の干殺し」を徹底しました。城には兵と住民、7500人が別所氏を頼り籠城した。開戦は天正6年3月29日(1578)

攻防戦の間、討って出た城兵以外、城外に脱出することができた一般人は、一体どれくらいの数だったのでしょうか。圧倒的多数のひとたちが戦闘にも加わることもなく、逃れることもできず、城内で窮乏に耐えた。

 

女子どもまでが籠城を選んだ理由として、ひとつには西播磨の上月城での暴挙があろう。天正5年(1577)秀吉軍の攻撃を受けて落城した。秀吉は見せしめに、城内に残っていた女子ども200余人を、備前、美作、播磨三国の国境に引き出して処刑した。そして女は磔に、子どもは串刺しにして並べるという残虐極まりない暴挙を行った。三木の女性たちは、主君長治を敬愛信頼していた。そして秀吉が勝利することは、絶対に許せなかった。

元亀2年(1571)、有名な比叡山の焼き討ちが起きた。犠牲者は数千名にのぼるという。信長は叡山の僧侶、学僧、上人、児童などの首をことごとく刎ねた。

また天正7年12月(1579)、三木が籠城戦を始めた翌年、有岡城残党に対する残虐があった。城主の荒木村重は、一族や家臣の妻子を残したまま城を脱した。織田信長は、残された女子供を惨殺させた。荒木一族の女子供30人余りは、京都町中引廻し磔にされた。武将たちの妻女も磔。「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目も心も消えて、感涙押さえ難し」。中位以下の武士の妻女、侍女など510余人は「小屋に押し込み、枯草を積んで、焼き殺した。地獄の鬼の呵責もこれかと思われた」『信長公記』。これらの話が伝わると、秀吉たちのやりざまは、本当に恐ろしくなる。籠城者は、特に女子はみな、酷くおびえたであろう。

 

三木城では、食糧は完全に底を尽く。このままでは、全員がもう間もなく餓死するしかない。「民の命を無駄に散らすことはおろかなこと」。長治の妻、照子は心底思った。

長治も覚悟のときが来たと決断する。天正8年正月15日(1580)、彼は包囲する敵方に申し入れた。

「来る十七日、申の刻、長治、吉親(叔父)、彦之進友之(弟)ら一門ことごとく切腹仕るべく候。然れども、城内の士卒雑人は不びんにつき、一命を助けくだされば、長治今生の悦びと存じ候」

正月17日、約した日が来た。夫妻には幼い子が4人あった。5歳の姉の竹姫、妹の虎姫4歳。3歳兄の千松丸と、2歳弟の竹松丸。全員が夫妻の刀で息を引き取った。

ところが、男児のひとりか二人ともか。家臣が敵に偽って城外に連れ出し、逃れた。そして田舎の地で秘密裏に育てる。いまも別所長治公の子孫があるのは、その故である。もう450年も昔の流離譚であるが、今も日々、山麓の祈念碑と別所家墓には、美しい花が絶えない。 

※本を読めば読むほど、にわかの知識が、空転し出します。たとえば子どもたち。本当に四人だったのか、名前は、年齢は? 本当に難しい………

<2025年2月5日 南浦邦仁>

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千秋万歳 まんざい  

2025-01-29 | Weblog
萬歳(まんざい)はかつて「千秋萬歳」と記され、新年早々に寿詞(ほぎごと)が芸能人によって演じられました。古くは新年の予祝は1165年、『古今著聞集』の記載「千秋萬歳とは、正月の子の日に寿詞を唱えて禄物を乞うて歩くもの」にそのルーツをみることができます。それ以前にも「千秋萬歳」の記載はありますが、新春慶賀との関係は明らかではありません。祝いの言葉としては、あまりにも古い千秋萬歳です。本来は二千年以上もの昔に、中国でうまれた語です。
 平安のいつのころからか、12世紀以前には富貴な家々を、さらには禁裏御所を訪れ、新年の予祝を述べ、芸能を演じる万歳、すなわち千秋萬歳を演じる芸能民がいたのです。歳のはじめにいつも此界に来たる異人・神に扮したのです。後には一般人の門にも訪れます。
 近世以降、単に万歳・萬歳(まんざい)とよびますが、それより以前、この祝福芸の誕生から中世まで「千秋萬歳」と彼らの芸能は称されました
 1165年から1580年までの記録から、彼らの演芸の記載文字と読み呼称をみてみようと思います。本来、今日書く気はなかったのですが、この連載で「ばんざい」と「まんざい」が混乱してしまいました。それで、あえて古い記述を再録します。
 
 文字は千秋萬歳がもっとも多いのですが、読みは「せんしゅうまんざい」あるいは「せんしゅ」、一部「まんぜい」かもしれません。数字は確認された西暦換算年です。こんな一覧表に、どのような意味があるのか? わからなくなってしまいましたが、あえて掲載します。
 
[千秋萬歳](せんしゅう・せんしゅ/まんざい・ばんぜい)
1165・1211・1233・1241・1246・1247・1280・1289・1301・1319・1324・1347・1436・1437・1447・1471・1472・1475・1477・1481・1586・1487・1488・1490・1492・1503・1515・1516・1520・1522・1533・1537・1546・1551・1552・1554・1559・1560・1564・1565
 
[千寿萬歳](せんじゅ・せんず・せんす)
1213・1225・1385・1402・1497・1509
 ※14世紀後半から千秋がいくらか減り、千寿がみられるようになる。
 
[千寿万財](せんじゅ・せんず・せんす/まんざい・ばんざい)
1418・1431・1432・1433・1434・1436
 ※ いずれも『看聞日記』記載
 
[千しゆ万(萬)さゐ](せんしゅ/まんさい・ばんざい)
1478・1481・1482・1486・1488・1491
 ※ いずれも『御ゆとのゝ上の日記』
 
[千すまんさい](せんす・せんず/まんさい・まんざい)
1546・1552・1560・1564・1565・1570・1580
 ※16世紀には「せんす」あるいは「せんず」ばかりになってしまいます。
いずれも『御ゆとのゝ上の日記』より。
<2009年8月16日送り火の夜 2025年1月29日再改訂再録>
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酒井抱一 江戸琳派展

2025-01-27 | Weblog

京都・岡崎の細見美術館で、注目の抱一展が開かれています。2月まで開催なので、のんびり構えていました。ところが、気づいたら来月といっても2月2日まで! 日があまりありません。早く行かなければ。あわててお知らせします。

展覧会名「抱一に捧ぐ 花ひらく雨華庵(うげあん)の絵師たち」。江戸琳派は抱一にはじまりますが、弟子一門は延々と続き、雨華庵5世の酒井抱祝に至るまで、昭和の戦後まで続きます。雨華庵とは、抱一の住まいかつ、江戸琳派たちの画塾かつサロン。

 

日経新聞の記事では「酒井抱一は、姫路藩主酒井家の次男として江戸でうまれている。あの姫路城の主となる可能性も、僅かにだがあったわけである。」1月24日夕刊

 

年譜で抱一の仮養子と、世継ぎの甥の誕生をみてみましょう。

1773年、兄の忠以は第2代姫路藩主として初の国入り。抱一は仮養子として、江戸に留守居。もしもことあれば、抱一が第3代藩主をつとめることもある。仮養子の制度は、跡継ぎのいない大名が長旅をするときの決まりだそうだ。

1774年、兄忠以が高松藩主の娘と婚姻。

1777年、6月22日、忠以の国入りに際し、抱一は再び仮養子となる。兄が幕府に差し出した願いは「未男子無御座候付、私弟酒井栄八(抱一)儀、当酉二十歳相成申候、右之者当分養子仕度奉願候」

9月10日、兄忠以の長男、酒井忠道が生まれる。9月18日、忠以は抱一の仮養子願いを取り下げ申請。翌日了承される。

1790年、7月17日、抱一が30歳のとき、兄の姫路藩主・第2代酒井忠以が36歳で急逝。11月27日、抱一の甥の忠道が家督・第3代姫路城藩主を相続。

 

抱一は江戸琳派を大成させた。彼がもし姫路城主についていたら、どうだったでしょう。文化全般に精通した抱一です。画だけでなく、たくさんの成果を残したことでしょう。しかし時間の経つのを忘れて、度々作画に没頭することは、城主兼幕府要人では、困難ではないでしょうか。

 

ところで、彼の名「抱一」は『老子』からとっています。

「載営魄抱一、能無離乎。」10章

「是以聖人抱一為天下式」22章

「一」は道の同義語だそうです。「道」は万物の根源。「式」は模範、おきて。

魂魄(精神と肉体)を安らかにして唯一の「道」をしっかりと守り、それから離れないでいることができるか。

 聖人は、道の本質をしっかりと身につけて天下の模範となるのだ。

 

抱一の俳号に「白鳧」「白鳧子」(はくふし)があります。杜甫の詩「白鳧行」からとっています。白鳧は、白い鴨ですが、鳧は日本では「けり」。鳧には「アヒル」の意味もあります。抱一は、表は杜甫のふりをして、実は名に白い「アヒル」をひそめているのではないか。兄の忠以の俳号は「銀鵝」、銀のガチョウです。ふたりは互いの命名に当たり、談笑しながら決めたのかもしれません。

同様に、「抱一」の名は『老子』からとっていますが、実は「放逸」を裏に隠しているのではないか? そのような説もあるようです。

 

また脱線してしまいました。アヒルや放逸はさて置いて、細見美術館に行きましょう。

<2025年1月27日/ほぼ毎回そうですが、年月日について。年は西暦ですが、月日は原則旧暦。正確には新旧で何日かのずれが生じます。ご了解ください。以降まず同様>

 

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万歳の日本史 ばんざい

2025-01-16 | Weblog

 万歳はいまでは「ばんざい」ですが、もともとの読みは「ばんぜい」「ばんせい」のようです。
 788年、桓武天皇の祈祷で降雨があった。そこで群臣がみな、万歳をとなえたという記録があるそうです『続日本紀』。
 古来、天皇の即位式や慶賀に「万歳」(ばんぜい)の文字を記した旗「万歳旛」が用いられ、雅楽「万歳楽」が演じられました。天皇の長寿を予祝するためです。なお「万歳楽」の読みですが、まんざいらく、まんさいらく、ばんざいらく、ばんぜいらく…。いろいろありそうですが。

 ところで、万歳(ばんぜい)は本来、君主や貴人の長久の繁栄をことほぎ願うことをいいました。ところがその後、転じて庶民にも、正月や目出たいことを祝う言葉になる。 祝福芸能では萬歳「まんざい」。まんざいは全国にひろがり、三河萬歳、大和萬歳。そして越前、加賀、尾張、伊予などが有名です。

 昭和8年には「漫才」という新語が吉本興業によって作られました。

 400年ほどの昔、イエズス会の宣教師たちによって編纂出版された『日葡辞書』では、「千秋万歳」を「せんしゅうばんぜい」と読み、日本人が正月やその他の目出たいときに、挨拶としていう言葉。「あなたは何千年も生きる」。長久を予祝する言葉として使ったとあります。


 その後おそらく明治時代に、どうも叫び声にまでなったようです。
 明治5年(1872)9月12日、京浜間の鉄道開行式での祝辞の最後に「君万歳、君万歳」。
 同11年11月9日、北陸からの還幸の記事に、「百万の民戸、国旗を掲げ、万歳を奏す」。いずれも「ばんぜい」なのか「ばんざい」「ばんせい」なのか不明です。
 「ばんざい」と読んだ最初といわれているのは、明治22年2月11日。帝国憲法発布の式典が挙式された。青山練兵場での観兵式に向かう天皇の馬車に、大学生たちが「万歳」(ばんざい)を高唱したことにはじまるそうです。
 明治30年の第11回帝国議会解散のとき、議長が天皇の詔勅を読みあげた際、議場内に「拍手起こり、万歳と呼ぶものあり」と記されています。
 国会解散での万歳三唱のルーツは、おそらくここにはじまるのでしょう。ひとつには明治以来の、天皇に向けた万歳を無意識裡に、自らと自己の所属する政党の勝利を予祝する願い。他党や政敵に向けてのエールでは、決してなさそうです。
<2009年8月2日初稿 2025年1月16日改定再録 >

 

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あひる余話(6)最終回

2025-01-12 | Weblog

 アヒルを「あひる」と名付けたのは、いつころ、また何故か? 連載最終回

の今回で、卒業ならぬ中退を目指します。

 

(1)各地方言

 日本各地の方言に、ヒントがあるかもしれません。

  「アイヒル」和歌山

  「アシュ」秋田

  「アイル」岐阜・志摩

  「アシル」津軽・岩手・東京

  「アシ」津軽

  「アヒ」青森・岩手・群馬・佐渡

  「アヒー」鳥取・鹿児島

  「アヒロ」岩手・秋田

  「アヘル」岐阜・志摩・伊賀・大和・福岡

 ※すべてが「ア」で始まっています。また「アシ」[アイ]「アヒ」との関連を

 感じます。

 

(2)朝鮮語

 アヒはイへ(家)の転で、ルは朝鮮語の鴨(Ori)から。金沢庄三郎説。

 

(3)アヒロ

 アヒルはアヒロの転じたものか。アは足、ヒロは水掻が広いことから。この説は、林羅山、貝原好古、貝原益軒、和漢三才図会など。新井白石は「アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。」

  織豊期以前には「アヒロ」は一度も登場しません。「アヒル」のみがみられます。江戸時代からの「アヒロ」語源説は誤りだろうと思います。

 

(4)姓「阿比留」氏

 対馬は大きな島ですが、この地でもっとも多い苗字は、「阿比留」(あびる)さんだそうです。

 ご先祖は元々、旧姓「畔蒜」(あびる)で、上総国の官人だったそうです。そして9世紀に一族は対馬に転勤。「阿比留」姓には、このころに改名したという。千年以上も「阿比留」氏を名乗っておられるのですね。アヒルよりも余程歴史がありそうです。しかし鳥アヒルとの縁は薄そうです。

 

(5)「浴びる」説

 アヒルは水浴びが大好きな鳥です。実は40年ほど前の昔に、わたしはアヒル1羽を飼っていたことがあります。神社の夜店でヒナを売っていたのですが、実にかわいい。散歩に出かけると、リードなしで家族の一員のようについて来ます。

 水遊びが必須なので、金たらいや湯舟で遊ばせたりするのですが、本人はのびのびと泳げないので納得していません。仕方なく近所のため池で遊ばせるのですが、すっかり気に入ってしまい、いくら名を呼んでも戻って来ません。夕方まで遊んでいます。

 やはり広い水場が必要だなあ。親戚の紹介で田舎の農家に引き取られていきました。その農家にはアヒルの先輩が10羽以上おり、仲良くやっていると聞きました。わたしがアヒル話にこだわるのは、この子Kくんへの想いがあるからかもしれません。

 ところで、アヒルの名の語源ですが、わたしは「浴びる」であろうと思っています。「あびる」が「あひる」に転じたのではないか。さていかがでしょうか。

<2025年11月12日 鶩完南浦邦仁>

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あひる余話(5)渡来と命名

2025-01-11 | Weblog

 大陸や半島から、この鳥は人間に連れられて、渡来したのは間違いありません。それならいつころのことでしょうか? また鳥の呼び名は、どのように変遷してきたのでしょうか? 前話文と重複もありますが次回文のため。ご容赦ください。

 

(1)最も古い記録

 918年『本草和名』の「鶩」ボク、「鶩肪」ボク。930年代『倭名類聚抄』もほぼ同様の記述です。ボクは中国詠みで、日本語「アヒル」と呼ばれ出すのは、500年以上も後の事です。その長い期間、和名アヒルは、日本におったのでしょうか?『類聚抄』には「家鴨」(ボク・いえかも)ともありますが。

 しかしこの文章だけで、アヒルがこのころ日本にいたとは断定できません。中国の文典からの引用の可能性もあります。。

 ところで、この鳥の飼育での難問は、前述の通り、孵卵と雛飼育の作業です。飼育には習熟した「鳥養人」が必要です。繁殖のため、彼ら専門職が同行で招かれたはずです。

 古くは雄略天皇のとき、ガチョウも同様で、育雛飼育専門の「養鳥人」が鳥二羽と共に渡来しています。

 

(2)『枕草子』   

 清少納言(966~1025)は『枕草子』にたくさんの鳥話を記していますが、雀の子の話は興味深い。「胸のどきどきするもの/雀の子を飼う」。このような感性の清少納言が、アヒルのよちよち歩きの幼子を目にしたら、仰天したかもしれません。尻を振りながら、よちよち歩く鳥を「舒鳥」ジョチョウと呼びます

 よちよち歩きに感動する清少納言です。もしアヒルの舒を見ていたら、動顛したはずです。ですので、平安時代には、日本でアヒルが飼育された記録はないのだろうと考えています。

 

(3) アヒルの古名。

 15世紀以降、1500年ころまで、この鳥の呼称は以下の通りです。なお11世紀から14世紀まで、鶩ボクの字は見当たりません。「ボク」(あひる)は居なかったのでしょうか。不思議です。

 この間の呼称をみてみます。1233年「唐の鴨」(13世紀?。例外か?)、1436年1490年1504年「白鴨」/1503年1504年「高麗白鴨」

 

(4)「アヒル」登場

 「アヒル」と呼ばれるのは織豊時代以降、当たり前の呼び名になります。江戸後期までの名を紹介します。前回との重複記載はご容赦を。

 

1474年『文明本節用集』「下 鴨アヒル」

16世紀前半から半ば 『饅頭屋本節用集』「家鴨アヒル」

1587年 『御湯殿上日記』「きよ水のくわん。あひるひとつかいしん上す」

1603年 『日葡辞書』「AFIru」(家鴨/アヒル)

1649年 『多識篇』林羅山「鶩/安比呂」(あひろ)

1669年 『増刊下学集』「鶩・アヒル/唐ノ鴨也」

1694年『和爾雅』貝原好古「鴨/ア・ヒロ」

1697年『本朝食鑑』人見必大「鶩/俗に阿比留という」

1708年『大和本草』貝原益軒「鶩/訓アヒロ」「家鴨と云、又匹(音ボク)と云、鴨(音アフ)の一字ヲ<訓アヒロ>トヨム。」

1712年 『和漢三才会』「あひろ(家鴨)は人家に多く」

1719年 『東雅』新井白石「アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。」

<2025年1月11日 次回を連載「アヒル」最終回にします>

 

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あひる余話(4)通史

2025-01-04 | Weblog

 いつまでたってもアヒル漬けです。そろそろ卒業したいのですが…それで、終盤戦に入ることにしました。もう少しで卒業ならぬ中退します。

 本日は18世紀初まで、わたしが見つけた過去の「アヒル」記事を並べてみました。そろそろ総決算が近いです。またここに出てくる鶩文字から、なにかしら気づくかもしれない。そんな思いで、これまでに出てきた呼称を、古い順に並べてみます。

 鶩ボク 鶩肪ボク 家鴨 唐の鴨 白鴨 高麗鴨 アヒル あひる AFIru 安比呂 阿比留 アヒロ あひろ

 

〇918年延喜18年 『本草和名』「鶩肪、一名を鴨ともいう。のろのろ歩くので舒鳥。和名は加毛という。」鶩(ボク)・鶩肪(ボク)・鴨(オウ)/舒鳥(ジョチョウ/のろのろ歩く鳥)/和名:加毛(かも)。和名鶩アヒルの初出か。

〇931年~938年『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)「鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨であり鳧といい、家で飼育しているのが鶩である。」鴨(オウ)/ 野鴨、鳧(フ)。家鴨/鶩(ボク)/呼称「アヒル」は室町時代からか。

〇1173年承安3年5月『玉葉』「院中鴨合之事有」。鴨合(かもあわせ)開催。鳥を競わせる「鴨合」は、カモかアヒルか。合わせも不明。度々開催。

〇1226年家禄2年5月16日『明月記』「伝え聞く。去今年宗朝の鳥獣が都に充満した。唐船の輩が自由に舶載し、これを豪家が競って購入している」

〇1233年~1234年 『古今著聞集』「天福の頃、殿上人のもとに、唐の鴨をあまた飼われたる云々」

〇1436年永享8年『蔭凉軒日録索引』「将軍、聯輝軒より進上せられし白鴨11羽を西芳寺の池に放たれた」。

〇1474年文明6年『文明本節用集』「下 鴨 アヒル」呼称アヒルの初出か。

〇1490年延徳2年9月『蔭凉軒日録索引』「白鴨は高麗に生息しているとのこと。」

〇1503年文亀3年『実隆公記』「高麗白鳧申出常盤井殿遣玄番頭許」

〇1504年永世元年3月26日『実隆公記』「玄蕃頭送白鴨一双、令進上禁裏」。宮中に献上。

〇16世紀半ば『饅頭屋本 節用集』「家鴨 アヒル」

〇1587年天正15年2月19日『御湯殿上日記』(お湯とののうへの日記)「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」 清水寺に願のため、アヒルひと番い(つがい)を進上す

〇1590年『節用集 天正18年本』「鴨鳧鶩」 鴨カモ、鳧々、鶩々 鴨カモも鳧フも鶩ブク・アヒルも、どれも同じである。

〇1603年慶長8年『日葡辞書』「AFIru」(家鴨 アヒル)

〇1630年『食物和歌本草「鶩あひるこそ虚を補ひて客熱を除臓腑を利するものなれ…しかしあひる玉子多く食せば身も冷えて心みじかくせなかもだゆる」

〇1649年『多識篇』林羅山「鶩/安比呂」あひろ。

〇1669年版『増刊下学集』「鶩・アヒル/唐ノ鴨也。」

〇1661年/台湾救援のため長崎からオランダ船で家鴨百羽送る。

〇1694年『和爾雅』貝原益軒の養子、貝原好古編著「鴨ア/ヒロ」

〇1697年「農業全書生類養書」で、アヒルの飼育を奨励しているが、それは肉を食べるためではなく、卵を売って利益を上げるため。

〇1697年。『本朝食鑑』人見必大/「鶩/俗に阿比留という」

〇1706年『唐通事日録』元禄5年「当地にては、ふた(豚)、には鳥(ニワトリ)、<あひる>殺害多数之候様に被聞召候付、云々」。生類憐みの令。

〇1708年『大和本草』貝原益軒「鶩/訓アヒロ」の項で「家鴨ト云、又匹(音ボク)と云、鴨(音アフ)の一字ヲ<訓アヒロ>トヨム。」「長崎ニ於テ異邦ノ人好ンテ之レヲ食フ」

〇1712年『和漢三才図会』「按ずるに鶩/あひろは人家に多く、之を蓄ふ」「あひろ/家鴨」

〇1719年『東雅』新井白石「アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。その闊歩するを云ひしと見えたり。」

<2025年1月4日>

 

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河合寸翁と酒井抱一(7)江戸屋敷の年賀

2024-12-29 | Weblog

 アヒルにかまけて、昔の姫路と江戸のことを忘れかけておりました。まもなく正月。酒井抱一の元旦行事について、ずいぶん前に、ノートにメモしたことを思い出しました。

 酒井抱一の兄は、姫路城主の酒井忠以。抱一は次男で酒井忠因。ふたりは本当に仲のいい兄弟で、兄が延々と書き連ねた『玄武日記』を読むと伝わってきます。

 

 日記から正月元旦の記述を転記します。ただわたしが書き残したのは、メモです。いくらかの転記ミスがあればお許しください。記述は藩主忠以。栄八は抱一。場所は姫路酒井藩江戸屋敷。元旦挨拶の記述です。幕府役職をつとめる忠以の元旦は、ほとんど江戸滞在時です。参勤にはほとんど出ません。

 ところで徳太郎は、忠以の次男。後の4代姫路城主の酒井忠実でした。徳太郎は幼少のころから、叔父の酒井抱一と仲がよく、親密な文芸仲間でした。

 

天明3年1783 「栄八殿出坐、喰積出之、雑煮料理食事」

 (雑煮料理を食べるために挨拶に来たのであろう)忠以27歳・抱一22歳

天明4年 前年と同文

天明5年 「栄八殿対面、勝手之方より出られ候、喰積出之」

天明6年 同文

天明7年 同文

天明8年 「栄八殿杯事、居間書院出坐」

寛政元年 「徳太郎・栄八殿出坐、喰積出之、栄八殿退坐、徳太郎同坐、」

 

<新年のご挨拶まで 2024年12月29日>

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あひる余話(3)対馬つしま

2024-12-26 | Weblog

 アヒルの歴史探求は、迷路に入り込んだようです。いつごろ誰がアヒルと名付けたのか。一時は、室町時代でほぼ結論が出た。と安堵していたのですが、どんでん返しに会いました。いまだに不明です。

 しかしいまさら諦めるのもしゃくです。まだもう一息、粘ってみます。

今日の追及は「対馬島」。朝鮮半島と九州のほぼ中間。玄界灘に位置する大きな島です。人口約3万人。佐渡島、淡路島などとならぶ島です。

 

 対馬の注目は、苗字「阿比留」さんです。長崎県対馬市で、もっとも多い姓だそうです。読みは「あひる」かと思っていたら「あびる」がただしい。

 ご先祖は上総国の官人をつとめていましたが、9世紀に日本海・対島の国司に転勤したという。名は本来「畔蒜」(あびる)、千葉県の旧居住地域の地名だそうですが、「阿比留」姓は、入島定着後からの改名のようです。

 かつての対馬といえば、役所から宮から一般人まで、みな平和な阿比留一族。彼らが数百年にわたって、島を治めていましたのに、1300年ころに宗氏が大宰府から入島し、その後守護として島を制圧してしまいます。

 しかし前任者の阿比留氏と新任の宗氏は、おそらく大きな合戦もせず、ほぼ円満に統治を引き継ぐことができたようです。いまも住人の多数が阿比留姓ですが、その事実が円滑な権限移譲や分担を物語っているように思います。また反対に宗氏ですが、入島から700年後の幕末まで、大名家を続けています。宗一族も賢明な統治を実践されたのでしょうね。

 ところで姓「阿比留」氏と、鳥「阿比留」君。「あびる」と「あひる」。どのような繋がりがあるのでしょう。

<2024年12月25日>

 

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あひる余話(2)カルガモ

2024-12-04 | Weblog

 『文明本節用集』には驚きました。アヒルが掲載されていました。文明本は550年も前に刊行された最古級の辞典です。アヒルの表示はその百年ほど後の『饅頭屋本節用集』が最も早かったはずです。ひっくり返ってしまいました。わたしは、アヒル登場の前後が、さっぱり理解できなくなってしまいました。

 それで思ったのが、雑種の鴨の存在です。現在の農業でも、「アイガモ」合鴨・間鴨が水田で活躍しています。彼らは、マガモとアヒルの雑種です。合鴨農法は有名です。

 それとカルガモです。多くのカモは冬鳥で、夏には日本におりません。ところがカルガモは四六時中、日本で生活する留鳥です。

 有名なのが、カルガモの親子10羽ほどで引っ越しする光景です。警察官までが出て、家族を守る。なんともほほえましい移動です。

 野生の鳥なのに、なぜ人間を恐れないのでしょうか。原因は、親鳥の親が、アヒルとカルガモの雑種だからではないか。

 ここでいうアヒルは家鴨で、羽色も決して美しくはない。半野生のものもいたようです。カルガモも同様。

真っ白なアヒルは「白鴨」といって、宮中にも進上される高級品だったようです。

<2024年12月4日>

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あひる余話(1)室町時代

2024-11-26 | Weblog

 アヒルはいつから「アヒル」と呼ばれるようになったのか? また誰がこの鳥に「あひる」と名付けたたのか? そろそろわたしなりの答えを出そうと思います。

 結論からいえば、16世紀です。そしてもっとも古い「あひる」記載本は、饅頭屋本、辞書『節用集』でしょう。16世紀初めには、アヒルはまだ白鴨と呼ばれています。日記『実隆公記』からみてみます。

 

〇1503年文亀3年日記『実隆公記』

 「高麗白鳧(鴨)申出常盤井殿遣玄番頭許」

 高麗王朝は1392年までで、その後は1897年まで李氏朝鮮。通称高麗なのでしょうか。

〇1504年永世元年3月26日日記『実隆公記』

 「玄蕃頭送白鴨一双、令進上禁裏」白鴨ひと番いを宮中に献上した。

 16世紀早々、『実隆公記』が二度、「白鴨」を記しています。これらはアヒルに違いなかろうと判断します。しかしこのころ、まだアヒルという呼び名はありませんでした。

 

 『実隆公記』は三条西実隆(さねたか)の日記です。20歳から82歳まで、63年にも及ぶ漢文日記。康正元年1455生~天文6年1537没。

 実隆は皇太子の家庭教師も経験し、文人・宗祇や肖柏ら民間人との親交も深い。いずれも実隆20歳のころからである。中年以降も交際範囲は広がる。東福寺住持・了庵桂悟の活躍は実隆の推挙によるという。

 応仁の乱(1467~1477)とその後の不安定な時代に、後土御門・後柏原の両朝に忠勤を尽くし、正二位内大臣を経て致仕出家後も、当代一の文化人として、その後の近世文化の形成にもつとめた。中世和学を大成し、当代最高の文化人とされた。

 しかしそれほどの人物でも、家計の困窮は著しい。57歳日記「家計窮迫して借金すること多し」。72歳日記「家計窮迫す」。支出の多くは、交際費と服飾費という。そして友人の勧めで、内職を始める。最初は固辞したのだが、将棋駒への墨字の書入れである。当然記名はなく、現在まで残っている駒はないが、相当数の駒を作ったらしい。

 古今伝授は宗祇から受けた。秋に越後で「宗祇は病に倒れ、再起不能を知ったのか、京の実隆のもとへ『古今集聞書』以下の古今伝授の相伝文書一箱を送り届けた」。終生、実隆を師とし、また囲んだ文化人は数多い。

 清原宣賢(のぶかた)は儒学者だが、三条西実隆に学んで注釈書『伊勢物語惟清抄』を著し『新古今注』を残した。国学書はじめ抄物(解説・注釈)も数多い。1475年生~1550年没。父は吉田兼俱で、清原宗賢の養子になった。

 清原は『塵芥』で「我が『いろは字』の編纂に際して『節用集』を参照しており」と記している。『節用集』は、当時最も重宝された国語辞典。1474年『文明本節用集』が初版である。その後数百年にわたって、改訂版新版などが数多く刊行されている。清原が参考にした『節用集』は宗二本だったのでしょうか。

 宗二は漢学の講授を清原から受け、ふたりは組んで『毛詩抄』や『春秋左氏伝抄』などを著している(両足院叢書)。制作を手伝った甥の林宗和はともに宣賢に学んだ兄弟弟子でもある。

 宗二はさまざまの学問、文学に精通していた。彼が公開した講義には、たくさんの人々が集まった。禅録、詩集から「源氏物語」「伊勢物語」……。講授には五山の僧はもちろん、堂上の公卿まで、こぞり集まり聴聞した。「天下無比之名仁」<多門院日記>、「名誉ノ内外ノ和漢ノ学者」<見聞愚案記>などと絶賛された。

 宗二が作成した抄物や本、そのほとんどが建仁寺の塔頭・両足院にいまも、収蔵されているそうです。両足院の設立は林家による。

 それと書写用の部屋ですが、宗二の部屋は烏丸三条不休庵という。三条西実隆の屋敷内にあったのではないかと思います。

 「アヒル」誕生は、16世紀なかば。林宗二(りんそうじ)が制作した『饅頭屋本節用集』が初出に間違いないようです。宗二(生年1498年~1581年没)の生没年からみて、宗二『節用集』の16世紀なかばであろうと思います。

 古今伝授は肖柏から受けた。また連歌師同様に肖柏から。和学は『源氏物語』を三条西実隆に学び、宗二は『源氏物語林逸抄』54巻を著した。

 日記『実隆公記』に白鴨が2度記載されていますが、宗二は実隆公からこの鳥の事を聞き、また実物を見たのではないか? 『節用集』の中で、すでに室町期に家鴨を「アヒル」としている本が『饅頭屋本 節用集』です。「家鴨」にルビ「アヒル」と明記されています。この本は宗二の制作であろう。わたしの確信です。

 「饅頭屋本」とは、なんともけったいな書名です。林宗二家の本業が饅頭屋ですので、そのように名乗った? しかし不自然と思います。彼の扱った饅頭は、日本ではじめて作られた高級菓子「塩瀬饅頭」です。駄菓子とは異なります。立派な和菓子ですが、プライドもあったでしょうが、饅頭屋本と名乗る必要があったのでしょうか。わかりません。わたしは今後、『宗二本 節用集』と呼ぶことにします。

 またいまでいう出版社ですが、「南都の書誌饅頭屋宗二」と呼ばれておったらしい、という話もあるようです。

 

 

〇林宗二についてもう少し見てみましょう。と書き始めましたら、ピンポ-ンと玄関に客です。出てみると宅配便で、日本の古本屋に注文していた本が届きました。

『文明本節用集』「研究並びに索引・影印編/全2冊・中田祝夫著・風間書房刊・昭和45年刊」。最も古い『節用集』の影印版です。

 一読して驚きました。驚愕です。

『文明本』に「アヒル」が載っているのです。これまで『饅頭屋本節用集』がアヒル掲載の最古本とされていました。ところが、最も古い節用集『文明本節用集』にアヒルが出ているという指摘は、だれひとりからも、ただの一度もありませんでした。一読すればわかることなのに不思議です。

〇原文は「下鴨 アヒル」(カナはルビ)

記載は鮮明です。しかし「下鴨」とはなにでしょうか?

不明だらけです。本日休止。

<2024年11月26日>

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アヒルの日本史(11)前史

2024-10-30 | Weblog

 アヒルの話を、延々10回ほども続けてきました。終わりは近い、と思っていても本を読んでいると、新しい発見や疑問が湧き出てきます。困ったものですが、もう少し続けます。興味をお持ちの読者は少ないでしょうが。なお引用文は、出きる範囲で現代文に書き換えました。なおこの鳥が、日本で「アヒル」の名で呼ばれるのは、16世紀中です。

 さて今号のアヒルは、平安時代918年から関ヶ原の戦い1600年ころまでの略年表。アヒル前史です。

 

〇918年延喜18年 『本草和名』 深根輔仁編纂

<鶩肪、一名を鴨ともいう。この鳥を小馬鹿にした名に舒鳥。和名は加毛という。>

※鶩(ボク)・鶩肪(ボク)・鴨(オウ)/舒鳥(ジョチョウ/のろのろ歩く鳥)/和名;加毛(かも)/鶩・鶩肪・鴨は、呼称がアヒルになるのは600年ほど後の事です。この一文で初めて鶩ボクが登場。訓読みの「かも」以外、読みはすべて音読み漢音です。

 この原文で文末が興味深い。「鶩ボクの和名はカモという」。アヒルの名が誕生するまでは、ボクかカモと呼ばれていたのではないでしょうか。それと後述しますが、アヒルの別名に「白鴨」「唐の鴨」「高麗鴨」「高麗白鳧」などもあったようです。いずれにしろ、室町期以前にはわずかの数しか舶来していません。繁殖数は不明ですが、少なかったろうと考えています。繁殖のために不可欠の人工孵卵は難題です。孵化については、アヒルの日本史10回「伝統的抱卵」に載せています。

 この鳥は16世紀まで、進上進物として喜ばれる貴重種でした。しかし繁殖しないのでは、家禽とはいえません。

 

 これから「アヒル」仮表示は片仮名に原則統一しますが、この鳥がアヒルと呼ばれだすのは、16世紀のなかばです。アヒル呼称の始まりの時期、その考察は追って次回か次々回にできれば、と思っています。

 

〇931年~938年『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)

<鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨であり鳧といい、家で飼育しているのが鶩である。>

 承平年間に源順編纂。別名「和名杪」。

 鴨(オウ)/ 野鴨、鳧(フ)。家鴨/鶩(ボク)後に日本でいう「アヒル」

 

〇1173年承安3年5月『玉葉』

「院中鴨合之事有」。鴨合(かもあわせ)開催。

 翌日にも開催。「今日、北面鴨合、内々事也」

※「物合」(ものあわせ)は平安時代から室町にかけてずいぶん流行した遊びです。競い合って勝者や、優劣を決める。当時も大人気だった闘鶏。これならわたしにもわかるのですが。「鴨合」は、カモなのかアヒルなのか。何を競うのか。優劣? さっぱりわかりません。ほかの遊戯もほとんど理解困難です。これも課題です。

 物合には、さまざまの種類があります。例えば、絵合、歌合、扇合、琵琶合、鶯合、伝書鳩の帰巣レース、虫合、蜘蛛合、香合、草合、根合、貝合などなど。

『枕草子』「うれしき物、物あわせ何くれと挑む事に勝ちたる、いかでかうれしからざらん。」

 

〇1226年家禄2年5月16日『明月記』

 「伝え聞く。去今年宗朝の鳥獣が都に充満した。唐船の輩が自由に舶載し、これを豪家が競って購入している」

 

〇1233年~1234年 『古今著聞集』

 「天福の頃、殿上人のもとに、唐の鴨をあまた飼われたる云々」

 

〇1436年永享8年『蔭凉軒日録索引』

 「将軍、聯輝軒より進上せられし白鴨11羽を西芳寺の池に放たれた」。この白鴨もおそらく中国で家畜化されたペキンアヒルであろう。この時期に再開された勘合貿易によって舶載されたのであろう。

 

〇1490年延徳2年9月『蔭凉軒日録索引』

 白鴨は高麗に生息しているとのこと。

 

〇1503年文亀3年『実隆公記』

 「高麗白鳧申出常盤井殿遣玄番頭許」

 前年には金魚がはじめて舶来した。

 

〇1504年永世元年3月26日『実隆公記』

 「玄蕃頭送白鴨一双、令進上禁裏」宮中に献上。

 

〇16世紀『饅頭屋本 節用集』

 数多い『節用集』の中で、すでに室町期に家鴨を「アヒル」としている本が1冊あります。『饅頭屋本 節用集』です。「家鴨」にルビ「アヒル」と明記。問題は、いつ制作された本なのか。著者は饅頭屋の林宗二だといわれています。彼の家業は奈良の饅頭屋ですが、生年1498年~1581年没。宗二はたいへんな文人学者で、歌学にも通じ、源氏物語の注釈書も著し、自らの版、林宗二版『節用集』も刊行したのです。この『節用集』も追求したい。

 

〇1587年天正15年2月19日『御湯殿上日記』(お湯とののうへの日記)

 「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」

 <清水寺に願のため、アヒルひと番い(つがい)を進上す>

  「お湯とののうへの日記」は、内裏、宮中の御湯殿の上の間に奉仕する女官が筆録した宮廷日記です。文明9年から文政9年にまで約350年間の記録。464冊が残っています。一部欠損はありますが、たいへん貴重な日記です。(1477年~1826年)

 豊臣秀吉は島津討伐のため、翌月3月1日に大阪を発ちます。この願は、秀吉の戦勝を願っての宮中からのアヒル願だったのかもしれません。

 

〇1589年天正17年 『節用集 天正17年本』

 「鴨 鳧 鶩」と記されています。ルビを併記すると「鴨カモ、鳧々、鶩々」。

 鴨カモも鳧フも鶩ブク・アヒルも、どれも同じ鳥である。

 天正18年本が有名ですが、わたしの手元の復刊本は天正17年本です。

 

〇1600年慶長5年9月15日 「関ヶ原の戦い」

 

〇1603年慶長8年『日葡辞書』

 イエズス会は大冊の辞典を何年もかけて、完成させました。辞典は、日本人との意思の疎通、布教活動に必需品です。制作は日本人信徒と、イエズス会士との共同作業です。天正年間から制作を開始し、慶長8年1603年に本編を完成出版、翌年補遺刊行。画期的なキリシタン版日本語ポルトガル語対訳辞書です。

「あひる(家鴨)アヒル」 発音「AFIru」 「アフィル」

既述ですが、「H」音が「F」に転化しています。連載第6回「アフィロ」をごらんください。

<2024年10月30日>

 

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