ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

千秋万歳 まんざい  

2025-01-29 | Weblog
萬歳(まんざい)はかつて「千秋萬歳」と記され、新年早々に寿詞(ほぎごと)が芸能人によって演じられました。古くは新年の予祝は1165年、『古今著聞集』の記載「千秋萬歳とは、正月の子の日に寿詞を唱えて禄物を乞うて歩くもの」にそのルーツをみることができます。それ以前にも「千秋萬歳」の記載はありますが、新春慶賀との関係は明らかではありません。祝いの言葉としては、あまりにも古い千秋萬歳です。本来は二千年以上もの昔に、中国でうまれた語です。
 平安のいつのころからか、12世紀以前には富貴な家々を、さらには禁裏御所を訪れ、新年の予祝を述べ、芸能を演じる万歳、すなわち千秋萬歳を演じる芸能民がいたのです。歳のはじめにいつも此界に来たる異人・神に扮したのです。後には一般人の門にも訪れます。
 近世以降、単に万歳・萬歳(まんざい)とよびますが、それより以前、この祝福芸の誕生から中世まで「千秋萬歳」と彼らの芸能は称されました
 1165年から1580年までの記録から、彼らの演芸の記載文字と読み呼称をみてみようと思います。本来、今日書く気はなかったのですが、この連載で「ばんざい」と「まんざい」が混乱してしまいました。それで、あえて古い記述を再録します。
 
 文字は千秋萬歳がもっとも多いのですが、読みは「せんしゅうまんざい」あるいは「せんしゅ」、一部「まんぜい」かもしれません。数字は確認された西暦換算年です。こんな一覧表に、どのような意味があるのか? わからなくなってしまいましたが、あえて掲載します。
 
[千秋萬歳](せんしゅう・せんしゅ/まんざい・ばんぜい)
1165・1211・1233・1241・1246・1247・1280・1289・1301・1319・1324・1347・1436・1437・1447・1471・1472・1475・1477・1481・1586・1487・1488・1490・1492・1503・1515・1516・1520・1522・1533・1537・1546・1551・1552・1554・1559・1560・1564・1565
 
[千寿萬歳](せんじゅ・せんず・せんす)
1213・1225・1385・1402・1497・1509
 ※14世紀後半から千秋がいくらか減り、千寿がみられるようになる。
 
[千寿万財](せんじゅ・せんず・せんす/まんざい・ばんざい)
1418・1431・1432・1433・1434・1436
 ※ いずれも『看聞日記』記載
 
[千しゆ万(萬)さゐ](せんしゅ/まんさい・ばんざい)
1478・1481・1482・1486・1488・1491
 ※ いずれも『御ゆとのゝ上の日記』
 
[千すまんさい](せんす・せんず/まんさい・まんざい)
1546・1552・1560・1564・1565・1570・1580
 ※16世紀には「せんす」あるいは「せんず」ばかりになってしまいます。
いずれも『御ゆとのゝ上の日記』より。
<2009年8月16日送り火の夜 2025年1月29日再改訂再録>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒井抱一 江戸琳派展

2025-01-27 | Weblog

京都・岡崎の細見美術館で、注目の抱一展が開かれています。2月まで開催なので、のんびり構えていました。ところが、気づいたら来月といっても2月2日まで! 日があまりありません。早く行かなければ。あわててお知らせします。

展覧会名「抱一に捧ぐ 花ひらく雨華庵(うげあん)の絵師たち」。江戸琳派は抱一にはじまりますが、弟子一門は延々と続き、雨華庵5世の酒井抱祝に至るまで、昭和の戦後まで続きます。雨華庵とは、抱一の住まいかつ、江戸琳派たちの画塾かつサロン。

 

日経新聞の記事では「酒井抱一は、姫路藩主酒井家の次男として江戸でうまれている。あの姫路城の主となる可能性も、僅かにだがあったわけである。」1月24日夕刊

 

年譜で抱一の仮養子と、世継ぎの甥の誕生をみてみましょう。

1773年、兄の忠以は第2代姫路藩主として初の国入り。抱一は仮養子として、江戸に留守居。もしもことあれば、抱一が第3代藩主をつとめることもある。仮養子の制度は、跡継ぎのいない大名が長旅をするときの決まりだそうだ。

1774年、兄忠以が高松藩主の娘と婚姻。

1777年、6月22日、忠以の国入りに際し、抱一は再び仮養子となる。兄が幕府に差し出した願いは「未男子無御座候付、私弟酒井栄八(抱一)儀、当酉二十歳相成申候、右之者当分養子仕度奉願候」

9月10日、兄忠以の長男、酒井忠道が生まれる。9月18日、忠以は抱一の仮養子願いを取り下げ申請。翌日了承される。

1790年、7月17日、抱一が30歳のとき、兄の姫路藩主・第2代酒井忠以が36歳で急逝。11月27日、抱一の甥の忠道が家督・第3代姫路城藩主を相続。

 

抱一は江戸琳派を大成させた。彼がもし姫路城主についていたら、どうだったでしょう。文化全般に精通した抱一です。画だけでなく、たくさんの成果を残したことでしょう。しかし時間の経つのを忘れて、度々作画に没頭することは、城主兼幕府要人では、困難ではないでしょうか。

 

ところで、彼の名「抱一」は『老子』からとっています。

「載営魄抱一、能無離乎。」10章

「是以聖人抱一為天下式」22章

「一」は道の同義語だそうです。「道」は万物の根源。「式」は模範、おきて。

魂魄(精神と肉体)を安らかにして唯一の「道」をしっかりと守り、それから離れないでいることができるか。

 聖人は、道の本質をしっかりと身につけて天下の模範となるのだ。

 

抱一の俳号に「白鳧」「白鳧子」(はくふし)があります。杜甫の詩「白鳧行」からとっています。白鳧は、白い鴨ですが、鳧は日本では「けり」。鳧には「アヒル」の意味もあります。抱一は、表は杜甫のふりをして、実は名に白い「アヒル」をひそめているのではないか。兄の忠以の俳号は「銀鵝」、銀のガチョウです。ふたりは互いの命名に当たり、談笑しながら決めたのかもしれません。

同様に、「抱一」の名は『老子』からとっていますが、実は「放逸」を裏に隠しているのではないか? そのような説もあるようです。

 

また脱線してしまいました。アヒルや放逸はさて置いて、細見美術館に行きましょう。

<2025年1月27日/ほぼ毎回そうですが、年月日について。年は西暦ですが、月日は原則旧暦。正確には新旧で何日かのずれが生じます。ご了解ください。以降まず同様>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万歳の日本史 ばんざい

2025-01-16 | Weblog

 万歳はいまでは「ばんざい」ですが、もともとの読みは「ばんぜい」「ばんせい」のようです。
 788年、桓武天皇の祈祷で降雨があった。そこで群臣がみな、万歳をとなえたという記録があるそうです『続日本紀』。
 古来、天皇の即位式や慶賀に「万歳」(ばんぜい)の文字を記した旗「万歳旛」が用いられ、雅楽「万歳楽」が演じられました。天皇の長寿を予祝するためです。なお「万歳楽」の読みですが、まんざいらく、まんさいらく、ばんざいらく、ばんぜいらく…。いろいろありそうですが。

 ところで、万歳(ばんぜい)は本来、君主や貴人の長久の繁栄をことほぎ願うことをいいました。ところがその後、転じて庶民にも、正月や目出たいことを祝う言葉になる。 祝福芸能では萬歳「まんざい」。まんざいは全国にひろがり、三河萬歳、大和萬歳。そして越前、加賀、尾張、伊予などが有名です。

 昭和8年には「漫才」という新語が吉本興業によって作られました。

 400年ほどの昔、イエズス会の宣教師たちによって編纂出版された『日葡辞書』では、「千秋万歳」を「せんしゅうばんぜい」と読み、日本人が正月やその他の目出たいときに、挨拶としていう言葉。「あなたは何千年も生きる」。長久を予祝する言葉として使ったとあります。


 その後おそらく明治時代に、どうも叫び声にまでなったようです。
 明治5年(1872)9月12日、京浜間の鉄道開行式での祝辞の最後に「君万歳、君万歳」。
 同11年11月9日、北陸からの還幸の記事に、「百万の民戸、国旗を掲げ、万歳を奏す」。いずれも「ばんぜい」なのか「ばんざい」「ばんせい」なのか不明です。
 「ばんざい」と読んだ最初といわれているのは、明治22年2月11日。帝国憲法発布の式典が挙式された。青山練兵場での観兵式に向かう天皇の馬車に、大学生たちが「万歳」(ばんざい)を高唱したことにはじまるそうです。
 明治30年の第11回帝国議会解散のとき、議長が天皇の詔勅を読みあげた際、議場内に「拍手起こり、万歳と呼ぶものあり」と記されています。
 国会解散での万歳三唱のルーツは、おそらくここにはじまるのでしょう。ひとつには明治以来の、天皇に向けた万歳を無意識裡に、自らと自己の所属する政党の勝利を予祝する願い。他党や政敵に向けてのエールでは、決してなさそうです。
<2009年8月2日初稿 2025年1月16日改定再録 南浦邦仁>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あひる余話(6)最終回

2025-01-12 | Weblog

 アヒルを「あひる」と名付けたのは、いつころ、また何故か? 連載最終回

の今回で、卒業ならぬ中退を目指します。

 

(1)各地方言

 日本各地の方言に、ヒントがあるかもしれません。

  「アイヒル」和歌山

  「アシュ」秋田

  「アイル」岐阜・志摩

  「アシル」津軽・岩手・東京

  「アシ」津軽

  「アヒ」青森・岩手・群馬・佐渡

  「アヒー」鳥取・鹿児島

  「アヒロ」岩手・秋田

  「アヘル」岐阜・志摩・伊賀・大和・福岡

 ※すべてが「ア」で始まっています。また「アシ」[アイ]「アヒ」との関連を

 感じます。

 

(2)朝鮮語

 アヒはイへ(家)の転で、ルは朝鮮語の鴨(Ori)から。金沢庄三郎説。

 

(3)アヒロ

 アヒルはアヒロの転じたものか。アは足、ヒロは水掻が広いことから。この説は、林羅山、貝原好古、貝原益軒、和漢三才図会など。新井白石は「アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。」

  織豊期以前には「アヒロ」は一度も登場しません。「アヒル」のみがみられます。江戸時代からの「アヒロ」語源説は誤りだろうと思います。

 

(4)姓「阿比留」氏

 対馬は大きな島ですが、この地でもっとも多い苗字は、「阿比留」(あびる)さんだそうです。

 ご先祖は元々、旧姓「畔蒜」(あびる)で、上総国の官人だったそうです。そして9世紀に一族は対馬に転勤。「阿比留」姓には、このころに改名したという。千年以上も「阿比留」氏を名乗っておられるのですね。アヒルよりも余程歴史がありそうです。しかし鳥アヒルとの縁は薄そうです。

 

(5)「浴びる」説

 アヒルは水浴びが大好きな鳥です。実は40年ほど前の昔に、わたしはアヒル1羽を飼っていたことがあります。神社の夜店でヒナを売っていたのですが、実にかわいい。散歩に出かけると、リードなしで家族の一員のようについて来ます。

 水遊びが必須なので、金たらいや湯舟で遊ばせたりするのですが、本人はのびのびと泳げないので納得していません。仕方なく近所のため池で遊ばせるのですが、すっかり気に入ってしまい、いくら名を呼んでも戻って来ません。夕方まで遊んでいます。

 やはり広い水場が必要だなあ。親戚の紹介で田舎の農家に引き取られていきました。その農家にはアヒルの先輩が10羽以上おり、仲良くやっていると聞きました。わたしがアヒル話にこだわるのは、この子Kくんへの想いがあるからかもしれません。

 ところで、アヒルの名の語源ですが、わたしは「浴びる」であろうと思っています。「あびる」が「あひる」に転じたのではないか。さていかがでしょうか。

<2025年11月12日 鶩完>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あひる余話(5)渡来と命名

2025-01-11 | Weblog

 大陸や半島から、この鳥は人間に連れられて、渡来したのは間違いありません。それならいつころのことでしょうか? また鳥の呼び名は、どのように変遷してきたのでしょうか? 前話文と重複もありますが次回文のため。ご容赦ください。

 

(1)最も古い記録

 918年『本草和名』の「鶩」ボク、「鶩肪」ボク。930年代『倭名類聚抄』もほぼ同様の記述です。ボクは中国詠みで、日本語「アヒル」と呼ばれ出すのは、500年以上も後の事です。その長い期間、和名アヒルは、日本におったのでしょうか?『類聚抄』には「家鴨」(ボク・いえかも)ともありますが。

 しかしこの文章だけで、アヒルがこのころ日本にいたとは断定できません。中国の文典からの引用の可能性もあります。。

 ところで、この鳥の飼育での難問は、前述の通り、孵卵と雛飼育の作業です。飼育には習熟した「鳥養人」が必要です。繁殖のため、彼ら専門職が同行で招かれたはずです。

 古くは雄略天皇のとき、ガチョウも同様で、育雛飼育専門の「養鳥人」が鳥二羽と共に渡来しています。

 

(2)『枕草子』   

 清少納言(966~1025)は『枕草子』にたくさんの鳥話を記していますが、雀の子の話は興味深い。「胸のどきどきするもの/雀の子を飼う」。このような感性の清少納言が、アヒルのよちよち歩きの幼子を目にしたら、仰天したかもしれません。尻を振りながら、よちよち歩く鳥を「舒鳥」ジョチョウと呼びます

 よちよち歩きに感動する清少納言です。もしアヒルの舒を見ていたら、動顛したはずです。ですので、平安時代には、日本でアヒルが飼育された記録はないのだろうと考えています。

 

(3) アヒルの古名。

 15世紀以降、1500年ころまで、この鳥の呼称は以下の通りです。なお11世紀から14世紀まで、鶩ボクの字は見当たりません。「ボク」(あひる)は居なかったのでしょうか。不思議です。

 この間の呼称をみてみます。1233年「唐の鴨」(13世紀?。例外か?)、1436年1490年1504年「白鴨」/1503年1504年「高麗白鴨」

 

(4)「アヒル」登場

 「アヒル」と呼ばれるのは織豊時代以降、当たり前の呼び名になります。江戸後期までの名を紹介します。前回との重複記載はご容赦を。

 

1474年『文明本節用集』「下 鴨アヒル」

16世紀前半から半ば 『饅頭屋本節用集』「家鴨アヒル」

1587年 『御湯殿上日記』「きよ水のくわん。あひるひとつかいしん上す」

1603年 『日葡辞書』「AFIru」(家鴨/アヒル)

1649年 『多識篇』林羅山「鶩/安比呂」(あひろ)

1669年 『増刊下学集』「鶩・アヒル/唐ノ鴨也」

1694年『和爾雅』貝原好古「鴨/ア・ヒロ」

1697年『本朝食鑑』人見必大「鶩/俗に阿比留という」

1708年『大和本草』貝原益軒「鶩/訓アヒロ」「家鴨と云、又匹(音ボク)と云、鴨(音アフ)の一字ヲ<訓アヒロ>トヨム。」

1712年 『和漢三才会』「あひろ(家鴨)は人家に多く」

1719年 『東雅』新井白石「アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。」

<2025年1月11日 次回を連載「アヒル」最終回にします>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あひる余話(4)通史

2025-01-04 | Weblog

 いつまでたってもアヒル漬けです。そろそろ卒業したいのですが…それで、終盤戦に入ることにしました。もう少しで卒業ならぬ中退します。

 本日は18世紀初まで、わたしが見つけた過去の「アヒル」記事を並べてみました。そろそろ総決算が近いです。またここに出てくる鶩文字から、なにかしら気づくかもしれない。そんな思いで、これまでに出てきた呼称を、古い順に並べてみます。

 鶩ボク 鶩肪ボク 家鴨 唐の鴨 白鴨 高麗鴨 アヒル あひる AFIru 安比呂 阿比留 アヒロ あひろ

 

〇918年延喜18年 『本草和名』「鶩肪、一名を鴨ともいう。のろのろ歩くので舒鳥。和名は加毛という。」鶩(ボク)・鶩肪(ボク)・鴨(オウ)/舒鳥(ジョチョウ/のろのろ歩く鳥)/和名:加毛(かも)。和名鶩アヒルの初出か。

〇931年~938年『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)「鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨であり鳧といい、家で飼育しているのが鶩である。」鴨(オウ)/ 野鴨、鳧(フ)。家鴨/鶩(ボク)/呼称「アヒル」は室町時代からか。

〇1173年承安3年5月『玉葉』「院中鴨合之事有」。鴨合(かもあわせ)開催。鳥を競わせる「鴨合」は、カモかアヒルか。合わせも不明。度々開催。

〇1226年家禄2年5月16日『明月記』「伝え聞く。去今年宗朝の鳥獣が都に充満した。唐船の輩が自由に舶載し、これを豪家が競って購入している」

〇1233年~1234年 『古今著聞集』「天福の頃、殿上人のもとに、唐の鴨をあまた飼われたる云々」

〇1436年永享8年『蔭凉軒日録索引』「将軍、聯輝軒より進上せられし白鴨11羽を西芳寺の池に放たれた」。

〇1474年文明6年『文明本節用集』「下 鴨 アヒル」呼称アヒルの初出か。

〇1490年延徳2年9月『蔭凉軒日録索引』「白鴨は高麗に生息しているとのこと。」

〇1503年文亀3年『実隆公記』「高麗白鳧申出常盤井殿遣玄番頭許」

〇1504年永世元年3月26日『実隆公記』「玄蕃頭送白鴨一双、令進上禁裏」。宮中に献上。

〇16世紀半ば『饅頭屋本 節用集』「家鴨 アヒル」

〇1587年天正15年2月19日『御湯殿上日記』(お湯とののうへの日記)「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」 清水寺に願のため、アヒルひと番い(つがい)を進上す

〇1590年『節用集 天正18年本』「鴨鳧鶩」 鴨カモ、鳧々、鶩々 鴨カモも鳧フも鶩ブク・アヒルも、どれも同じである。

〇1603年慶長8年『日葡辞書』「AFIru」(家鴨 アヒル)

〇1630年『食物和歌本草「鶩あひるこそ虚を補ひて客熱を除臓腑を利するものなれ…しかしあひる玉子多く食せば身も冷えて心みじかくせなかもだゆる」

〇1649年『多識篇』林羅山「鶩/安比呂」あひろ。

〇1669年版『増刊下学集』「鶩・アヒル/唐ノ鴨也。」

〇1661年/台湾救援のため長崎からオランダ船で家鴨百羽送る。

〇1694年『和爾雅』貝原益軒の養子、貝原好古編著「鴨ア/ヒロ」

〇1697年「農業全書生類養書」で、アヒルの飼育を奨励しているが、それは肉を食べるためではなく、卵を売って利益を上げるため。

〇1697年。『本朝食鑑』人見必大/「鶩/俗に阿比留という」

〇1706年『唐通事日録』元禄5年「当地にては、ふた(豚)、には鳥(ニワトリ)、<あひる>殺害多数之候様に被聞召候付、云々」。生類憐みの令。

〇1708年『大和本草』貝原益軒「鶩/訓アヒロ」の項で「家鴨ト云、又匹(音ボク)と云、鴨(音アフ)の一字ヲ<訓アヒロ>トヨム。」「長崎ニ於テ異邦ノ人好ンテ之レヲ食フ」

〇1712年『和漢三才図会』「按ずるに鶩/あひろは人家に多く、之を蓄ふ」「あひろ/家鴨」

〇1719年『東雅』新井白石「アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。その闊歩するを云ひしと見えたり。」

<2025年1月4日>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする