ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

別所長治公の末裔(2)一族の辞世

2025-02-11 | Weblog

1年と10か月ほども続いた三木合戦。籠城戦もついに終わりを迎えます。別所長治と照子夫妻は、辞世の和歌を詠んでいます。一緒に自死した一族たちも同様です。弟の別所友之夫妻、叔父の別所吉親妻の波、家老の三宅治。籠城戦の開始は、天正6年3月29日(1578年)、開城は同8年1月17日。実に実に長い籠城でした。最後まで耐えた一族の辞世を紹介します。

 

□三木城落城之時に詠む

長治とよはれし事も偽か弐五年の春を見捨て                          別所長治 

  長治と呼ばれし事もいつわりか。25年の春を見捨て行こう。「長治」は「長い春」でしょう。「25年の春を見捨て」について、旧暦では春は、1月から3月まで。  一族の自決は1月17日ですが、現暦では2月下旬ころでしょうか。春ですが、桜花の開花はまだです。意訳「桜の咲く前のいま、まだある春にさようならと言い」。それから、長治の年齢ですが定説はないようです。23~26歳のいずれかと伝わっています。しかしこの歌から、25歳ではなかったでしょうか。そのように思えて仕方ありません。

 

十七日や今宵の月も十七日や宵のやミちに迷ひ行哉                 長治妻 照子

 17日はみなが自害する運命の日。満月の二日後です。月明かりはそこそこにありますが、今日はじめて行くこの夜道を、迷いながらでも行くことよ。意訳。本来は同じと思われる別の歌もあります。「みずからも今宵の月も十七夜 宵の闇路にまだき晴れぬる」

 

□別所氏討死之節、辞世之和歌

 

今は唯恨ミもあらむ諸人の命にかわる我身思えば                   別所長治 

  いまはただ、うらみもない。諸人の命に代わる我が身と思えば。

 

もろともに消え果つるこそ嬉しけれ遅れ先立つ習ひなる世に              長治妻 照子 

  夫婦とはいえ、死ぬのは後になり先になることが世の常だというのに、私は夫と一緒に死ねるのがうれしい。照子は丹波国篠山城主、波多野丹波守秀治の娘。

  

命をも惜まさりけり梓弓末の代も名をおもふ身は                   弟 別所友之

  後の世まで名の残ることを願って武士の名誉を全うするのだから、命も惜しんではいない。

 

頼めこし後の世までも翼をばならぶる鳥の契りなりけり                友之内室 尚

  翼を並べて一緒に飛ぶように過ごしてきた夫と私は、次の世でも一緒に生きることを約束したのです。尚は但馬山名和泉守豊恒の娘。短刀を手にした尚だが、手が震え刀を落としてしまった。長治の妻照子はそれを見て諭した。「遅れ先だつ道をこそ悲しき物とは聞候ひき。共につれ行死出の山、三途の川も手を組んで渡候はんこそ嬉しけれ。余りに嘆かせ給へは、後の世の迷ひにこそ成候べし」『別所記』

 

君なくハ浮世の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも                家老 三宅治忠     

  生き残って甲斐のある世だとしても、主君のあなたががいなければ私の命があってもしかたがない。当日の介錯は三宅治忠がつとめた。

 

後の世の道も迷はじおもひ子をつれて出ぬる行末の空                 叔父別所吉親の妻 波

  波は武芸に秀でた女傑。夫吉親との子どもは3人あったとされています。男2人、女1人。「おもひ子」とは、ともに自決した自身の子たちをいうのでしょうが、あるいは城主夫妻の子どもの意味もあるのでしょうか。長治の男児は、この日に逃れたと伝わる。

 

 長治は自刃の前に家臣に指示した。先に逝った3人の女性と、7人の子どもたちの火葬である。照子、尚、波。そして我が子4人と、波の子の3人である。十人の遺体は庭に下ろされ、蔀(しとみ)や遣戸(やりど)など、建具で覆って火を放った。

 また刎ねられた3人の首は、首実検のために秀吉から信長におくられた。信長の元に届けられたのは、別所一族の長治、知之、吉親の面々である。

                                                合掌

<2025年2月11日>

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別所長治公の末裔(1)

2025-02-05 | Weblog

久しぶりの「山麓噺」、数回の連載になりそうです。

きっかけは近くの山麓に建つ別所家の3基の大きな石碑。三木合戦、羽柴秀吉の軍勢に敗れた城主、別所小三郎長治の一族のことなどを記します。

 

三木は東播磨。領主の別所氏は当時の播州で最大の勢力でした。

城攻めですが、秀吉の攻め方があまりにもひどい。城から一歩も出られないように囲み、兵糧攻め「三木の干殺し」を徹底しました。城には兵と住民、7500人が別所氏を頼り籠城した。開戦は天正6年3月29日(1578)

攻防戦の間、討って出た城兵以外、城外に脱出することができた一般人は、一体どれくらいの数だったのでしょうか。圧倒的多数のひとたちが戦闘にも加わることもなく、逃れることもできず、城内で窮乏に耐えた。

 

女子どもまでが籠城を選んだ理由として、ひとつには西播磨の上月城での暴挙があろう。天正5年(1577)秀吉軍の攻撃を受けて落城した。秀吉は見せしめに、城内に残っていた女子ども200余人を、備前、美作、播磨三国の国境に引き出して処刑した。そして女は磔に、子どもは串刺しにして並べるという残虐極まりない暴挙を行った。三木の女性たちは、主君長治を敬愛信頼していた。そして秀吉が勝利することは、絶対に許せなかった。

元亀2年(1571)、有名な比叡山の焼き討ちが起きた。犠牲者は数千名にのぼるという。信長は叡山の僧侶、学僧、上人、児童などの首をことごとく刎ねた。

また天正7年12月(1579)、三木が籠城戦を始めた翌年、有岡城残党に対する残虐があった。城主の荒木村重は、一族や家臣の妻子を残したまま城を脱した。織田信長は、残された女房衆、百数十人を惨殺させた。「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目も心も消えて、感涙押さえ難し」。これらの話が伝わると、秀吉たちのやりざまは、本当に恐ろしくなる。籠城者は、特に女子はみな、酷くおびえたであろう。

 

三木城では、食糧は完全に底を尽く。このままでは、全員がもう間もなく餓死するしかない。「民の命を無駄に散らすことはおろかなこと」。長治の妻、照子は心底思った。

長治も覚悟のときが来たと決断する。天正8年正月15日(1580)、彼は包囲する敵方に申し入れた。

「来る十七日、申の刻、長治、吉親(叔父)、彦之進友之(弟)ら一門ことごとく切腹仕るべく候。然れども、城内の士卒雑人は不びんにつき、一命を助けくだされば、長治今生の悦びと存じ候」

正月17日、約した日が来た。夫妻には幼い子が4人あった。5歳の姉の竹姫、妹の虎姫4歳。3歳兄の千松丸と、2歳弟の竹松丸。全員が夫妻の刀で息を引き取った。

ところが、男児のひとりか二人ともか。家臣が敵に偽って城外に連れ出し、逃れた。そして田舎の地で秘密裏に育てる。いまも別所長治公の子孫があるのは、その故である。もう450年も昔の流離譚であるが、今も日々、山麓の祈念碑と別所家墓には、美しい花が絶えない。 

※本を読めば読むほど、にわかの知識が、空転し出します。たとえば子どもたち。本当に四人だったのか、名前は、年齢は? 本当に難しい………

<2025年2月5日>

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