1年と10か月ほども続いた三木合戦。籠城戦もついに終わりを迎えます。別所長治と照子夫妻は、辞世の和歌を詠んでいます。一緒に自死した一族たちも同様です。弟の別所友之夫妻、叔父の別所吉親妻の波、家老の三宅治。籠城戦の開始は、天正6年3月29日(1578年)、開城は同8年1月17日。実に実に長い籠城でした。最後まで耐えた一族の辞世を紹介します。
□三木城落城之時に詠む
長治とよはれし事も偽か弐五年の春を見捨て 別所長治
長治と呼ばれし事もいつわりか。25年の春を見捨て行こう。「長治」は「長い春」でしょう。「25年の春を見捨て」について、旧暦では春は、1月から3月まで。 一族の自決は1月17日ですが、現暦では2月下旬ころでしょうか。春ですが、桜花の開花はまだです。意訳「桜の咲く前のいま、まだある春にさようならと言い」。それから、長治の年齢ですが定説はないようです。23~26歳のいずれかと伝わっています。しかしこの歌から、25歳ではなかったでしょうか。そのように思えて仕方ありません。
十七日や今宵の月も十七日や宵のやミちに迷ひ行哉 長治妻 照子
17日はみなが自害する運命の日。満月の二日後です。月明かりはそこそこにありますが、今日はじめて行くこの夜道を、迷いながらでも行くことよ。意訳。本来は同じと思われる別の歌もあります。「みずからも今宵の月も十七夜 宵の闇路にまだき晴れぬる」
□別所氏討死之節、辞世之和歌
今は唯恨ミもあらむ諸人の命にかわる我身思えば 別所長治
いまはただ、うらみもない。諸人の命に代わる我が身と思えば。
もろともに消え果つるこそ嬉しけれ遅れ先立つ習ひなる世に 長治妻 照子
夫婦とはいえ、死ぬのは後になり先になることが世の常だというのに、私は夫と一緒に死ねるのがうれしい。照子は丹波国篠山城主、波多野丹波守秀治の娘。
命をも惜まさりけり梓弓末の代も名をおもふ身は 弟 別所友之
後の世まで名の残ることを願って武士の名誉を全うするのだから、命も惜しんではいない。
頼めこし後の世までも翼をばならぶる鳥の契りなりけり 友之内室 尚
翼を並べて一緒に飛ぶように過ごしてきた夫と私は、次の世でも一緒に生きることを約束したのです。尚は但馬山名和泉守豊恒の娘。短刀を手にした尚だが、手が震え刀を落としてしまった。長治の妻照子はそれを見て諭した。「遅れ先だつ道をこそ悲しき物とは聞候ひき。共につれ行死出の山、三途の川も手を組んで渡候はんこそ嬉しけれ。余りに嘆かせ給へは、後の世の迷ひにこそ成候べし」『別所記』
君なくハ浮世の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも 家老 三宅治忠
生き残って甲斐のある世だとしても、主君のあなたががいなければ私の命があってもしかたがない。当日の介錯は三宅治忠がつとめた。
後の世の道も迷はじおもひ子をつれて出ぬる行末の空 叔父別所吉親の妻 波
波は武芸に秀でた女傑。夫吉親との子どもは3人あったとされています。男2人、女1人。「おもひ子」とは、ともに自決した自身の子たちをいうのでしょうが、あるいは城主夫妻の子どもの意味もあるのでしょうか。長治の男児は、この日に逃れたと伝わる。
長治は自刃の前に家臣に指示した。先に逝った3人の女性と、7人の子どもたちの火葬である。照子、尚、波。そして我が子4人と、波の子の3人である。十人の遺体は庭に下ろされ、蔀(しとみ)や遣戸(やりど)など、建具で覆って火を放った。
また刎ねられた3人の首は、首実検のために秀吉から信長におくられた。信長の元に届けられたのは、別所一族の長治、知之、吉親の面々である。
合掌
<2025年2月11日>