残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《旅立ち》第十五回
家に帰ると、蕗が入口の外で待っていた。
「思っていたよりは、遅かったのですね…」
それ以上は訊かなかった母だが、微笑のない言葉に、常松は一抹の後悔を心中、抱かざるを得なかった。四文の冷し飴への後悔である。それは、暑いとはいえ、誘惑に駆られた自らに対する後悔でもあった。
部屋へ戻ると、源五郎は畳に寝そべっていた。傍らには竹製の虫篭があり、もう一刻ほど前に、前の森の杉木立辺りで捕ったのであろうが…、一匹の蝉の幼虫が入っていた。昼寝している兄、置かれた虫篭と蝉の幼虫、どこか妙な違和感があるな…と、常松は畳へ座り、瞬きで思った。
茶の色をした得体も知れぬ幼虫は、のっそりと篭の中で小刻みに動いている。恐らく勝手口から持ち出したのだろう…と思える胡瓜の小切った一片が、萎びている。源五郎は気づかないのだろうが、常松には閃きで解せた。間違いなく、蝉の幼虫は胡瓜を齧ったり、またその汁を吸ったりはしないということを…。だが、心地よく寝息を立てている源五郎の肩を揺すってまで起こそうとは思わなかった。兄は、どうして、このような不気味なものが好きなのか…。常松は源五郎の心中を量りかねていた。
常松も、空蝉ならば前の森の木の梢で時折り見ていた。手掴みして戯れたことも幾度かあった。