水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

残月剣 -秘抄-《旅立ち》第二十七回

2009年03月15日 00時00分00秒 | #小説

        残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《旅立ち》第二十七回

「まだ十日ばかりあるが、一度(ひとたび)、葛西の地へと移り住めば、そうは易く帰れぬでな。心残り無きように致すのだぞ」
 盃を干しながら父の言葉を聴く左馬介であった。その席で、蕗は何も云わなかった。返ってそれが、母の悲しげな気持を如実に云い表しているようにも左馬介には思えた。
 清志郎に身辺の整理をしておくよう云われたといっても、左馬介には、取り立てて心に蟠(わだかま)ることもなかった。ただ一つ、同じ長屋の斜め向こうに住まいするお勢のことを、ふと想い出しはしたが、それとて、遠目越しに感じた十五歳の淡い感情であって、応じて軽く声を返した程度の左馬介である。お勢は、清志郎と同じ定町廻り同心であったという父の与左衛門が、時に触れ、訪った折り、家からの使いで番傘を届けに来た時に出くわし、顔見知りとなった経緯(いきさつ)があった。その時、軽い会話を交した程度のことは確かにあった。あったが、それ以上のことはない淡い心のときめきだったと左馬介には思える。なのに、今、ふと思い出したのである。それが何故なのかは当の左馬介にも分からない。竹刀や防具といった物ならば整理や整え様もあるのだが、この妙な感情の迸(ほとばし)りは、どうしようもなかった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする