残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《入門》第四回
八文の銭を縁台へ置き、左馬介が席を立ったのは、それから暫くしてからである。
「どぉ~も、有り難(がと)やーした! また、お帰りには、お立ち寄りを!」
左馬介は送り出す主(あるじ)の声を背に受け、山道を歩き出したが、ふたたびこの茶屋に寄ることがあるのだろうか…と、漠然と思うのだった。
その日の夕刻、七ツ時には溝切宿へと入った左馬介であったが、峠茶屋の主の忠言の正確さは流石のものよ…とは思えた。日が没するまでには、未だそれなりの時があった。
旅籠は物集(もずめ)街道筋の左右に沿って流れるように続いていた。一軒のうらぶれた旅籠に入り敷居に腰を下ろすと、番頭が、ひょいと奥から現れ、云ってもいないのに、さも当然の如く、草鞋の紐を解き、更には足袋までも脱がし、手桶の水で足を丁寧に洗ってくれた。蓄積した左馬介の疲れは一度に引いていった。 そうして、空いた三畳間へと通された。
「ほう…、葛西へ行かれますか」
茶盆を運ぶ先程の番頭が、何とは無しに、そう切り出す。片言で話をする左馬介に、番頭は諄(くど)く返してくる。聞いてもいないのに、生憎(あいにく)、女中が急な用向きで休んで居らぬと憤慨し、自らが切り盛りする羽目になった今日なのだ…などという愚痴を云う。そんなことは左馬介にとっては聞きたくもない詰まらぬ事情であった。