春の風景 水本爽涼
(第三話) 探しもの
「違う違う! 絶対にここへ置いたんだ。それは百パーセント自信がある!」
朝から父さんの大声が玄関でしている。母さんと二人で何やら探している様子だが、それが何なのか僕には分からない。歯を磨いている途中だったから、僕はまた洗面所へ戻った。
「未知子さん、飯にして下さらんか…」
今度は台所のテーブルで食事を待つじいちゃんの掠れた声がした。たぶん、腹が空いていて、痺れをきらしたのだろう。
「すみません…。すぐ食事にしますから…」
続いて玄関からバタバタ…っと小走りする音がして、母さんがそう云ったのが聞こえた。そしてまた、母さんはバタバタ…っと小走りして玄関へ戻ったようだ。飽く迄も、こうした状況推測は、洗面所にいる僕の想像の範疇(はんちゅう)でしかない。でも、朝から小運動会をしている賑やかな家庭であることは疑う余地がないだろう。
その後、暫くして父さんと母さんは、すっかり諦めた様子で力なく台所へ入ってきた。この時の僕は歯を磨き終え、既にテーブルに着いてじいちゃんと食事を待っていた。
「怪(おか)しい…実に怪しい。確かに昨日、帰って置いたんだ!」
「いいえ、そんなもの、戸締まりした時はありませんでした!」
ふたたび、賑やかな声の火花が散って、
「未知子さん、飯を!」
と、じいちゃんも声を幾らか大きくしてその勢いに加勢し、家の台所はパン食い競争の様相を呈してきた。僕は黙ってその様子を、さも第三者にでもなったつもりで眺め、『春から運動会やってりゃ、ざまねえや…』と少し悪ぶって思っていた。そうこうして暫くすると、話はいつしか途切れ、殺風景な食事風景が展開するようになった。だが、話を忘れてしまったのかというと、その実、そうではなくて、三人三様、いや、僕を入れれば四人四様に、あれやこれやと想いを巡らせているようであった。でも結局、その日の朝は、父さんが何を探していたのかは分からずじまいだった。
それが何なのかが判明したのは夕方になってからである。
「おい恭一、庭先にこれが落ちてたぞ…」
「えっ? そうでしたか、庭に…。ははは…。見つからない筈だ。どうも、すみません」
じいちゃんが父さんに手渡したもの、それはループ・タイだった。聞くところによると、昨夜、歓送迎会があり、夕方、常用のネクタイをループ・タイに変えて会に臨んだ父さんは、宴会部長として余興をした。その後、すっかり酔ってしまったようで、帰宅直後、玄関へ倒れこんで寝てしまい、母さんに運ばれたのだ。とんだ醜態を晒(さら)した訳だが、酔いに紛れて玄関先の庭でループ・タイを外して落としたのを忘れ、それを玄関へ置いたと思い込んだ節(ふし)がある。しかし、そのループ・タイが何故、朝に小運動会をせねばならないほどの重要物だったのかが、今もって分からない。携帯とか財布、定期の類(たぐ)いなら、僕にも分かるのだが…。要は、全くもって笑止千万で馬鹿な父親だということであろうか。じいちゃんが云った、『某メーカーの洗剤Xのように、お前もピカッ! と光.る存在になれ』という言葉は、残念ながら彼には絵空事に思える。だから、そんな父さんを父親に持つ僕自身も、大して期待出来ない代物(しろもの)のようだ…。
第三話 了