残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《旅立ち》第二十六回
その日は菜種梅雨を思わせる、暖かな雨が降っていた。
秋月家の勝手元へ魚を届けに、いつも裏口から厚かましく入っくる魚屋の藤次の声が小さく聞こえる。
「へぇ~、お坊ちゃんも、そんな歳になられやしたか…。早いもんですなあ。まだ十(とお)もいってられないと思ってやしたがねえ。鯛なんぞ、そうは出やせんから、何ぞ、祝い事でもあったのか…とは思ってやしたが…。そりゃ、お寂しくなりやすねぇ。でもまあ、晴れの門出ですから、お目出てえことに変わりはありやせんが…」
応対して蕗も何か話しているようだが、どういう訳か、その声は届かない。左馬介は縁側の廊下に腰を下ろし、静かに庭へザラつく音を落とす雨滴を見続けていた。
その晩、慎ましやかながら、祝いの膳が囲まれた。
「源五郎がおらぬのが、ちと気を削ぐが、晴れの門出じゃ、左馬介。盃をとらす」
左馬介は父の前へと畳上を躙(にじ)リ寄って、清志郎が差し出す盃を受け取った。清志郎は無言で、堤(ひさげ)に入った酒を盃へと注いだ。