残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《旅立ち》第二十八回
何が何でも、もう一度会わねば…という心の昂(たかぶ)る兆しは無かったが、心のどこかには蟠(わだかま)りを残していた。
葛西へ旅立つ前に、あの声と姿が甦ったのは、やはり、お勢を好いていたからなのだろうか…。その辺りが、もう一つ左馬介には分からなかった。『お勢と申します…』と云われ、『はい、左馬介です…』と返した、他愛ない、ただそれだけの遣り取りが甦っていた。
十日後、左馬介は父に伴われて葛西の地へと旅立つことになるのだが、それ以降、左馬介が女を異性として、ふたたび心に映すのは、幻妙斎に死別し、葛西を離れて後のことだから、随分と先のことである。 旅立ちの朝は、商家へ養子に入った源五郎も実家へと戻り、久方ぶりに家族が一堂に会して左馬介の周りを囲んだ。葛西へは清志郎が随行しようとしたが、左馬介はそれを断った。少しでも未練を早く断ちたかったからである。
「父上、お気持ちは有り難いのですが、かの地へは、私一人で立ちとう存じまする」
十五歳にしては、気丈な言葉だった。
「左様か…。ならば、敢えて、とは申さぬがのう」
菜種梅雨も去り、久々に雲の切れ間より蒼い空が覗いた朝、左馬介は父母兄弟に見送られて葛西へと旅立っていった。
(旅立ち) 完