残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《入門》第一回
猪背坂(いのせざか)越えの峠の山道を登っていくと、一軒の茶屋が急に眼の前へ出現した。左馬介は小腹が空いていたので立ち止まった。丁度、茶屋の軒に赤布敷きの縁台が左右に二台出ていたので、その右側の座布団へ腰を下ろした。入梅前ということもあったが、四半時(しはんとき)の登りだったこともあり、幾らか暑気を感じていた。手拭で汗を拭きながら辺りを見回すが、人の気配が皆目無いことに左馬介は気づいた。暫く待ったが、誰も出てこないので、
「誰ぞ、おらぬか!!」
と、思わず左馬介は声を発した。少しの間合いの後、息を切らせた声が店奥から響いて、その店の亭主と思しき六十絡みの老人が暖簾を撥ね上げ飛び出てきた。
「…どうも…すまねえこって…。下の谷…まで、水を汲みに…行ってやしたもんで…」
途切れ途切れに吐き出すように主(あるじ)は云った。
「左様であったか…。別に急がぬでな。団子を一皿、所望いたす」
左馬介は微笑んで穏やかに語りかけた。
「へいっ! ただいま…」
主はバタバタとした仕草で、暖簾を上げ奥へと消えた。