「俺、少し寝るよ。疲れてるみたいだ。起こさないでくれ」
坪倉は少しトーンを下げていった。
「分かった…」
美郷(みさと)は察したのか、ひと言だけポツリと返した。それ以上、夫婦の会話はなかった。坪倉は階段を上ると二階の寝室へ直行し、寝室横にあるクローゼットの中へ乱雑に背広を収納した。そして、ネクタイを外すとワイシャツも脱がずにベッドへ倒れ込み、静かに両の瞼(まぶた)を閉じた。坪倉はふと、ズボンを脱いでいないことに気づき、立ち上がったとき、閃(ひらめ)いた。
━ そうだ! 窓からの眺(なが)めで確認できるじゃないか! ━
美郷のいうことが正しいなら、二階からの眺めは駅などない、昨日までの住宅が広がっていることになる。だが、今し方、帰ってきた自分を信じれば、家の前には歩道を挟んで尾振(おぶり)の駅舎が建っているはずだった。さて、いずれなのか…坪倉の胸は高鳴った。窓際へ寄り、坪倉は閉じられていた厚手のカーテンに恐る恐る手をかけた。次の瞬間、坪倉はもう一度、自らの目を疑う光景に遭遇していた。つい先ほど降りた尾振の駅舎はホームごと、どこかへ消えていた。眺めは妻の美郷がいったように、昨日までのなんの変化もない見馴れた幾つもの住宅の屋根と所々に植えられた庭園の樹木の緑であった。では、俺はどこから家へ帰ってきたというのだ…。記憶を辿(たど)れば、確かに尾振駅は出たはずだった。30分以内のことだから疑う余地はなかった。それに、自分以外にも乗降客はいたし、駅構内へ出入りする人の姿もそれなりにあったのだ。それが今は、すべてが消え去っていた。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第295回)
テントなら、すぐにも運べる軽さだから、飛行車で運ぶことも可能だった。小屋はログハウス的に後日、少しずつ作り上げることになった。
そんな話になっていようとは露ほども知らない保は、久しぶりに教授達と冷麦(ひやむぎ)のカウンター席で祝杯を挙げていた。
「ははは…まだ、どうなるかは分からんが、とりあえず空間移動は成功したからね。乾杯!」
教授の音頭でガラスが触れ合う音がし、山盛研究室の四人は一声にジョッキを口へと運んだ。
「皆さん、今日は何かお目出度いことでもありましたか?」
冷麦の主人、室川は、笑顔で誰とはなく声をかけた。
「ははは…まあ。詳しいことは言えないんですがね」
但馬が教授をフォローする形で先に口を開いた。
「あれっ? 親父さん、あの綺麗な人は?」
少し離れたテーブルの客を上手くあしらっている着物姿の若い女を見ながら保が訊(たず)ねた。
「ああ…あいつですか。私の姪(めい)っ子ですよ。いやなに…、こいつ以外に店員雇うのは大変ですからね。週三日の手伝いで…」
室川が指さした横で小まめに動く天宮も、かなり板前ぶりが上がったように見えた。
「昇ちゃん、お銚子2本、追加ね!」
「はい!!」
いい返事だ…と保は思った。
「あら! いらっしゃい!」
「常連の岸田さんだ…」
室川が説明を加える。