「どうも! 駒井さん」
「これは里山さん、久しぶりです! 小次郎君、元気だったかい?」
テレ京の玄関[エントランス]には、今日も決まりごとのように駒井が里山達を出迎えていた。オファーをレギュラー的に了承してもらっている手前、里山と小次郎は特別待遇なのである。
「ニャ~~!」
小次郎は大きめの猫語でニャゴった。通訳すれば、元気ですよっ! くらいの意味である。
里山と小次郎は駒井の先導で収録のスタジオへと向かった。通路の途中に制作部長の中宮が立っていた。やはり、出迎えである。特別待遇されている雰囲気が里山にヒシヒシと伝わった。
「これはこれは、里山さん!」
笑顔で片手を出し、中宮は握手を求めた。反射的に里山も手を差し出していた。
「部長もお元気でなによりです」
「お蔭さまで、相変わらず高視聴率を叩きだしておるようで、私もスポンサーに鼻高ですよ」
「お蔭(かげ)さまで、うちの小次郎も世帯主ですよ、ははは…」
「ああ、そのお話は駒井から聞いております。なんでも、みぃ~ちゃんとご一緒になられたようで…」
「ええ、そうなんですよ。それどころか、みぃ~ちゃんが近々、生みます」
「それは、それは…」
小次郎は里山が提(さ)げるキャリーボックスの中で会話を聞きながら照れた。
立国しなさい! と里山に言われた小次郎だったが、数日が経(た)ってもその方法が分からず、どうしようもないまま時が流れていた。里山に聞いたとしても、当の本人が分からないのだからお手上げだである。立国・・とはよく言ったものだ…と思いながら、その日も小次郎は里山が持つキャリーボックスの中で車に揺られていた。運転手は言わずと知れた雑用係も兼(か)ねる狛犬(こまいぬ)だ。陽気もかなり暖かさを増し、車内も頃合いの温度である。当然、小次郎はまたウトウトし出した。猫が一日の、ほぼ3分の2は眠る・・と過去にも言ったと思うが、猫族はよく眠るのだ。
その日は久しぶりにテレ京の番組の収録日だった。
「そこを右へ入ったところで止めてくれ」
珍しく、里山は寄り道の指示を狛犬に出した。
「えっ? …はい、分かりました」
テレ京への道を走っていた狛犬は、突然のことに一瞬、躊躇(ちゅうちょ)したが、素直に里山の指示に従った。
里山が狛犬に指示したのは新規開店した骨付きカルビ専門店だった。
「ここのは、実に美味いんだよ。駒井さんに土産(みやげ)なんだ」
「ああ! そうでしたか」
「ついでに小次郎にも買ってやろう。立国祝いだ!」
「はあ?」
狛犬には里山が言った意味が理解できず、首を捻(ひね)った。
「ははは…、まあ、いいじゃないか」
『ご主人、ごちになります!』
キャリーボックスの中の小次郎が大きめの人間語でニャゴった。
『はあ、そうなんでしょうが…。僕ら猫社会では生活が大変になるんですから、場合によれば死活問題になるんです』
「死活問題とは、捨て置けんな…」
里山は腕組みすると、何を思ったのか考え込んだ。そして、しばらくすると、里山は徐(おもむろ)に口を開いた。
「…思い切って、独立するか」
『はあ? どういうことです?』
「いや、なに…立国だよ、立国」
『立国?』
小次郎は里山が言った意味が理解できず、尻尾の先を右に左にと振った。人間だと、首を傾(かし)げた・・となる。
「そう、立国! まあ平たく言えば、一家を構える、もう少し分かりやすく言うなら、世帯主として生活する・・ということだ」
『あの…お言葉を返すようですが、今でも十分、世帯主だと思うんですがね』
「それはそうだが、心意気がまったく違う」
『どう違うんです?』
「そこは、それ…まあ、なんだ。口では言いにくいから…おいおい、言葉にしてメモっとくよ」
メモっとかれても…と小次郎は思ったが、口には出さず思うに留(とど)めた。
『それなら僕は、立国しましょう。どうしていいのか、よく分からないんですが…』
「いや、言った俺にも、こうしろ! とは言えんのだが…。とにかく、立国しなさい」
『はい、そうします』
話は中途半端に纏(まと)まった。
関取の○○と#%親方の車を見送ったあと里山は車へ乗り込み、キャリーボックスを閉じて抱えながら座った。それを見届けた狛犬(こまいぬ)は助手席の自動ドアを閉め、エンジンキーを捻(ひね)った。そして、手馴れた手つきで車を始動した。当然、小次郎はキャリーボックスの中へ入っていた。
『変わった方々でしたね。僕達のサインを欲しがるとは…』
「それだけ有名になったということだよ、小次郎…」
『そうですね』
「所長、すまんことです。私がうっかり引き受けたもんで…」
狛犬がサイドプレーキのロックを解除しながら言った。
「いいよ、いいよ。有り難いことだ、なあ! 小次郎」
小次郎は返事を猫語でニャ~~! とニャゴって返した。
「そう言ってもらうと…」
車は滑(なめ)らかに走行を始め、加速した。
相変わらず有り難くも忙(いそが)しい日々が続く春三月、桜の開花予想も出始めた頃、みぃ~ちゃんが身籠った。子供を持つとなれば小次郎も一家を構える世帯主だ。
「そうか! してやったり! だな、小次郎。お前もこれで一国一城の主(あるじ)だっ!」
歴史好きの里山に言わせれば、こうなる。
『一国一城の主なんて、大げさですよ、ご主人』
「いやいや、そういうものでもない。人間の世界では家が栄えるお目出度(めでた)い祝いごとなんだからなっ!」
里山は力強く小次郎に言った。
「ははは…、ハンコでいいですから」
「ハンコと言われましてもねぇ~。印肉がありませんから…。どうしましょう?」
「小次郎君の足にマジックを塗り、乾かないうちに、すぐ色紙(しきし)に押す・・というのは?」
「はあ…、まあ、やってみましょう」
里山は#%親方に言われたとおりの所作で小次郎の足に黒マジックを塗りたくると、ハンコ代わりにして、すぐサイン色紙の隅(すみ)へ押した。
「どうです?」
「ああ、これで結構です…」
普通の場合、サインするというのは書き手が書いてやろう! 的な上目線で書くものだが、里山と小次郎の場合は下目線だった。サイン色紙を受け取った#%親方は至極、満足げな顔をした。
「おい、いくぞっ!」
関取の○○に顔とは裏腹な少し強面(こわもて)の声を出し、#%親方は里山の車から遠ざかった。当然、関取の○○もあとに続こうとした。
「あっ! これ…」
里山は返し忘れた黒マジックを差し出した。後ろ向きになった関取の○○は、振り返ってその黒マジックを見た。
「こりゃ、どうも…」
受け取った瞬間、スタスタスタ…という音がした。疾風(はやて)のように踵(きびす)を返し、関取の○○が里山から早足で遠退(とおの)く雪駄(せった)の音だ。作者が描く細やかな状況表現のオマケである。
関取の○○が、なぜマジックを取り出したのか? だが、それはサスペンスの推理でもなんでもない。狛犬(こまいぬ)が紺のハンカチに書いた黒ボールペンを思い出し、アレじゃないか? …と瞬間、思ったのだ。単純なことながら、幕内の関取ともなると、瞬間の判断が鋭いのだ。
「ああ、こちらがアノ有名な[語る猫]の小次郎君ですか?」
背広姿の□◎部屋の親方と目(もく)される#%親方が、関取の○○の横から口を挟んだ。小次郎はそのとき後部座席に寝そべっていたのだが、ドアが開いていたから姿を見られた・・という形になった。
『そうです! 僕がその小次郎です…』
小次郎が口を開き、偉(えら)ぶらず口を開いた。
「わぁ~~! ほんとに話したぁ~~!」
関取の○○は初めて耳にした猫の日本語に興奮し、はしゃいだ声を出し小次郎を指さした。
『ええ! 僕は話しますよ! 話しますとも』
小次郎は少し意固地になった。そのとき里山は黒マジックでサインを書きあげていた。
「はいっ! 書けました。これで、よろしいでしょうか?」
「ああ、はい。…できれば、小次郎君のサインも」
#%親方は里山に語尾を懇願する声で言った。
「えっ? 小次郎のサインですか?」
話せても、猫がサインを書ける訳がない。里山は怪訝(けげん)な顔をして親方を見た。
※ □◎部屋の#%親方が、何という親方なのかは、読者のご想像にお任せいたします。
「いや、なに…□◎部屋の○○関が所長のサインが欲しいって、駐車場で待ってるんですよ」
「なんだって? そりゃ、戻(もど)らんと…」
「ええ、そうなんです…」
狛犬(こまいぬ)はエンジンをかけると慌てて車をUターンさせた。その操作の荒っぽさは尋常ではなかった。そんな狛犬の運転を里山は今まで見たことがなかった。
『ち、ちょっと出して下さい! ご主人!』
キャリーボックスの中にいる小次郎も、さすがにその荒っぽい運転の衝撃には耐えられず、里山に懇願(こんがん)した。
「あ、ああ…。今、開けてやる!」
里山はキャリーボックスを座席へ置き、開いた。
『フゥ~~、やれやれ…』
小次郎は危うく酔いそうになっていたが救われた。猫も車酔いするのである。
車が駐車場へ戻ると、関取の○○が親方と思える男と首を長くして待っていた。
「い、いや! すいません! 運転手が、うっかり粗相(そそう)をしたようで…」
車を慌てて降りた里山は、すぐ頭を下げて平謝(ひらあやま)りした。
「いや、そんなに待ってませんので…」
「そうですか? どうも…。すぐ書きますので」
里山は狛犬から何も書かれていない真新しい色紙を受け取った。
「ははは…よかったら、コレ、使って下さい」
関取の○○はマジックを和装の羽織(はおり)の袖(そで)から取り出した。
狛犬(こまいぬ)は、コンコン! とウインドウガラスを里山が外から叩(たた)く音で目覚めた。
「す、すいません、所長!!」
自動開閉ドアボタンを押し、狛犬は後部座席のバキューム式エアードアの装置ノブを慌(あわ)てて捻(ひね)った。と同時に、後部座席ドアがスゥ~っと音もなく開いた。里山は籠を大事そうに両手で抱(かか)え、車に乗り込んだ。里山がそうしたのは当然で、キャリーボックスの中には、今や里山にとって大事な稼(かせ)ぎ頭(がしら)の小次郎様がおられたからである。
「いいから、出してくれ…」
正直なところ少し怒れていた里山だったが、軽く流した。狛犬の寝癖(ねぐせ)は今に始まったことではなかったからだ。要は、諦(あきら)めにも似た馴(な)れによる容認だった。
「はいっ!」
車はスゥ~っと滑らかに発車した。そこはそれ、運転技術だけが取り柄(え)の狛犬だったから、かろうじて面目(めんもく)は保たれた。
「あっ! いっけねぇ~!」
そのまま駐車場を出ようとした狛犬だったが突然、急プレーキをかけ、車を停車させた。そのショックで里山はうっかりキャリーボックスを落とすところだったが、幸か不幸か落とさずに済んだ。
「ど、どうした? 狛犬!」
「すみません。うっかり忘れるところでした! ○○関からこれを預(あずか)かったんでした…」
里山は狛犬が言う意味が分からず、訝(いぶか)しげに狛犬を見た。
「あの…こちらもサイン、もらえないですかね? こんなもので、なんなんですが…」
狛犬(こまいぬ)は皺(しわ)くちゃになった汗臭いハンカチをブレザーのポケットから取り出した。ようやく寒さも遠退(とおの)こうとする二月下旬の日だ。普通は汗など掻(か)きそうにない季節だったが、狛犬は汗掻きだったからハンカチは手放せなかったのだ。関取の○○は一瞬、顔を顰(しか)めてそのハンカチを受け取った。
「いいっすよ。あの…書くものは?」
「あっ! そうでした。すみません…」
狛犬は左手で頭を掻きながら右手でブレザーの内ポケットからボールペンを取り出した。フツゥ~の場合、サインはマジックだ。関取の○○は一瞬、躊躇(ちゅうちょ)した。
「これで、書けますかねぇ~」
小笑いしながら関取の○○はウインドウにハンカチを広げ、一応、サインをする仕草をした。かろうじて書けたサインは、かろうじて分かる程度だった。ハンカチの生地(きじ)が濃紺(のうこん)で、ボールペンは黒だったから、それも当然といえた。
「それじゃ、車で待ってますんで…」
関取の○○はサインしたハンカチとボールペンを返すと、スタスタ…と車の方向へ歩き去った。スタスタ…とは、関取の雪駄(せった)が駐車場のコンクリートへ歩くときに触れ合う微妙な音の表現である。
それからしばらく、こともなく時が流れ、ようやく仕事から解放された里山が小次郎が入ったキャリーボックスを携(たずさ)え、駐車場へと現れた。狛犬は完璧(かんぺき)に爆睡(ばくすい)していた。
狛犬(こまいぬ)は音に目覚め、慌(あわ)てて首を左へ向け、ウインドウガラスを見上げた。そこに立っていたのは大銀杏(おおいちょう)の髷(まげ)を結った関取風の大男だった。急いでウインドウの自動開閉ボタンを押し、狛犬は窓ガラスを下げた。
「なんでしょう?」
「あの…私、□◎部屋の○○と申します。実は小次郎君の大ファンでして、この色紙にサイン戴けないでしょうか?」
狛犬はシゲシゲと関取風の大男を見た。どこかで見たような…と、狛犬は思った。そして、しばらくしてアアッ! という素(す)っ頓狂(とんきょう)な声を出し、大男を指さした。それは、超有名な○○だった。
「○○関だっ テ、テレビでよく見てますっ! …あのう、所長に頼んでみますっ!」
狛犬は喜び勇んで何も書かれていない真新しいサイン色紙を○○から受け取った。
「今、ご講演中なんですよね?」
「はい、ちょっと、待って下さいね…。もう少ししたら終わると思います」
狛犬はスケジュール手帳を見ながら答えた。
「じゃあ、あちらの車で待たせてもらいます」
○○は駐車場に停車させてある車を指さした。里山の車と見劣(みおと)りしないない外車だった。
「いい車ですね」
「ははは…親方の車ですよ」
○○は笑顔で狛犬へ返した。
※ □◎部屋と○○関が、どの部屋の誰なのかは、読者のご想像にお任せいたします。