「小次郎君からも、ひと言(こと)、お願いします。出来れば、人間の言葉で…」
総合司会者が里山の言葉が途切れた瞬間、話を繋(つな)いだ。会場から笑い声が一斉(いっせい)に湧き起こった。
「静粛(せいしゅく)に!!」
『僕は猫ですが、話せます。それがなぜなのかは僕にも分かりません。難しいことは分かりませんが、人の場合によく言われる、物心がついた頃、話せるようになったみたいです、ちょうど、ご主人と公園で出会った頃のことでした』
小次郎は言い終わると、最後に猫語でニャ~~とひと声鳴いた。会場の学者達は小次郎が人間語を話したことに衝撃を受けたようで、笑い声のあとは水を打ったように静かになった。総合司会者も精気を吸い取られたような表情で唖然(あぜん)として聞き入っていたが、やがて我に返り、話し始めた。
「…失礼しました。見事な挨拶でした、ねぇ、皆さん!」
総合司会者は拍手した。司会者に促(うなが)され、観客も割れんばかりの拍手を送った。
会場の外では里山と小次郎のお抱え運転手の狛犬(こまいぬ)が駐車場の車中で眠っていた。狛犬にとっては、一日の仕事がほとんど車中だった。里山と小次郎の移動には欠かせない狛犬である。今や、押しも押されぬ小次郎事務所のスタッフとして重要な地位を占めていた。運転だけではなく、里山と小次郎の食事の手配や雑用一切を任(まか)されていたから、ある意味、里山より大変だと言えた。そんな狛犬が車中で首を縦に振りながらウトウトと眠っていると突然、外の左横からウインドウガラスをコンコン! と叩く音がした。言っておくが、里山の車は羽振りがよくなり最近、小鳩(おばと)婦人の紹介で買い替えた外車である。
里山は無言で壇下の会場に向け頭を下げたあと、徐(おもむろ)に席前のテーブル台に置いたキャリーボックスを開けた。ゆっくりと小次郎は外へ出ると、ひと声、会場を見ながらニャ~~! と、猫語で挨拶をした。皆さん、こんにちは! ぐらいの意味である。
小次郎の姿がスポットライトに照らされた途端、場内から割れんばかりの拍手と喝采(かっさい)のどよめきが起きた。当然と言えば当然だったが、里山はその反響の大きさに、改めて驚かされた。
「里山さん! ひと言、お願いいたします。出来ましたら小次郎君にも…」
喧騒(けんそう)が静まると、総合司会者がマイクロホンを通し、里山に挨拶を促(うなが)した。
「ははは…皆さんは最初、何かの間違いだろう・・と誰もがお思いになったことと存じます。しかし、ここにいますうちの小次郎は、現に人間語を話すのです。それも意味を理解し、家族と会話も致します。私も最初、自宅近くの公園で挨拶されたときは、自分の耳がどうかしたのだろう・・と思いました。でも、それは間違いでした。その日から小次郎との生活が始まったのです。小次郎がなぜ人間語を話せるのかは私には分かりません。進化による突然変異なのか、あるいは発見されなかった新種の新生物なのか・・それは皆さん方が研究の過程で解き明かしていただけるものと確信いたしております。よろしくお願いいたします。以上です…」
里山は挨拶を終えると深々と頭を下げて一礼し、ゆったりと腰を下ろした。小次郎は派遣された会場に並ぶ壇下の外国人学者達を見下ろしながら、僕も国際的になったものだな…と思った。
国際的な生物学会の会場である。この中で世界各国の有識者を集めた、とある会合が開かれていた。その中に、招待された里山と小次郎がいた。小次郎は里山とともに登壇してはいたが、まだ里山のキャリーボックスの中にいた。
「そんな馬鹿な話はないでしょう! いくら突然変異だからといって、SFじゃあるまいし、あり得ないですっ!!」
突然立ち上がった研究者の一人が怒ったような声で言い放ち、座った。
「ははは…、そう興奮されずに、まあ落ちついて下さい。私が報告しましたのは、我が国の学会で報告された飽(あ)くまでも仮説です」
「それなら、話は分かります。あり得ないですが、あり得ることもありますから…」
怒って立ち上がった研究者は、今度は座ったまま、少し落ち着いた声で返した。
「ご議論は後でしていただき、ここで、研究対象となっております小次郎君と飼い主であられる里山氏を紹介いたします…」
総合司会者が壇上側面の解説席から立った姿勢で話し、片腕で片隅の椅子に座る里山を示した。スポットライトの光が里山の席へ移った。
この別邸は、人が住まいしても快適に生活できそうな敷坪の広さだったが、建て物だけは猫の身体に合わせたミニチュアの豪華な佇(たたず)まいに設計されていた。ただ、食事の準備はみぃ~ちゃんに出来ないから、そのための水道や洗い場などはなかった。もちろん、二匹が食事する場所はそれなりのスペースで確保されており、小鳩婦人が食事の餌を屋根の部分を取り外して置けるようにしてあった。ちょうど、人間の住居で言えば別棟に建てられた離れである。雨や雪などの外気候に関係なく行き来できるよう設計された別邸と小鳩(おばと)邸とを結ぶ通路があった。二匹がニャゴニャゴと寛(くつろ)いだり戯(たわむ)れる場所も完備され、人間で言えば申し分のない物件といえた。金に糸目はつけない資産家の小鳩婦人だからこそなせる技(わざ)だった。
「小次郎、明日は仕事が入ってないから、みぃ~ちゃんとゆっくり過ごせるぞ」
すっかりマネージャーが板についた里山が風呂上りでバスルームから出ながら言った。ごく最近だが、小次郎事務所という個人事務所を立ち上げ、勝手に事務長を名乗っていた里山だった。
『そうですか…それは、どうも。みぃにも久しぶりに会えます』
仕事で里山が持つキャリーボックスで運ばれている小次郎の行動は制限される。芸能人ならぬ芸能猫だからだ。人気も定着し、今や芸能界には欠かせない存在となっている小次郎だった。加えて、相変わらず学術的な研究所の研究依頼もあった。学会の学説は小次郎が人間語を話せる点で、進化による突然変異説と発見されなかった新種の新生物説に二極化していた。
「今日は店屋もののお寿司にしたわっ!」
「ええっ! 寒いから鍋がよかったんだけどな…」
警備係ですっかり冷えた里山が愚痴った。
「仕方ないじゃない! 私が食べたかったんだから…。熱いお茶、淹(い)れるから」
「…まあ、いいけどさ」
キッチンのテーブル椅子へ座った里山が不満そうに返した。小次郎は好きにやってりゃいいさ…と冷(さ)めて思った。どちらにしろ、小次郎の夕食には関係なかったし、パーティで満腹になっていたこともあった。
小次郎とみぃ~ちゃんの蜜月[スゥィート・ムーン]も、小次郎の仕事の関係で、一緒に楽しい時を過ごせる・・という、そうゆったりしたものでもなかった。ただ、人間と違うのは、そのことによる隙間(すきま)風が二匹の間に吹かなかったことである。人の場合、よくこのことが原因で離婚騒ぎになる場合も多いが、猫社会ではそういう低いレベルの騒ぎはなかったのである。こう書けば、偉く動物びいきに思われるだろうが、これは厳然とした事実なのである。小次郎に限らないが、人間が動物を見習うことも多々ある・・ということだ。
さて、小次郎とみぃ~ちゃんの婚後の生活だが、以前と同じように小次郎がみぃちゃんの住まいへ通う実態に変化は見られなかった。みぃ~ちゃんの住まいは、言わずと知れた小鳩(おぱと)婦人がみぃ~ちゃんの新婚用にと新しく建てさせた別邸である。
猫内(びょうない)会長に促(うなが)され、ぺチ巡査は徐(おもむろ)に口を開いた。
『え~~…まあ、そのなんでございます。…長々と皆様に可愛がられお世話になりました私でございますが、本日をもちまして、無事、退職の運びとなりました。つきましては、かねがねお世話になりました皆さま方へ、甚(はなは)だ高いところからではありますが、ひと言、御礼(おんれい)の言葉を述べさせていただきます。長らくの間、皆さま方のご高配に浴し、誠に有難く思うところでございます。…え~~』
その後も、しばらく交番を去る名残りの挨拶をぺチ巡査は続けた。話し初(はじ)めは躓(つまづ)いたぺチ巡査だったが、どうにかこうにか無事、挨拶を終えた。冬陽の傾きは早い。ぺチ巡査が挨拶を終えた頃、公園内にはすでに夕陽が射(さ)し込もうとしていた。里山は椅子から立ち上がり、招待された猫達の後ろ姿を見ながらその話を聞いていた。
猫内(びょうない)会長に促(うなが)され、ぺチ巡査は徐(おもむろ)に口を開いた。
『え~~…まあ、そのなんでございます。…長々と皆様に可愛がられお世話になりました私でございますが、本日をもちまして、無事、退職の運びとなりました。つきましては、かねがねお世話になりました皆さま方へ、甚(はなは)だ高いところからではありますが、ひと言、御礼(おんれい)の言葉を述べさせていただきます。長らくの間、皆さま方のご高配に浴し、誠に有難く思うところでございます。…え~~』
その後も、しばらく交番を去る名残りの挨拶をぺチ巡査は続けた。話し初(はじ)めは躓(つまづ)いたぺチ巡査だったが、どうにかこうにか無事、挨拶を終えた。冬陽の傾きは早い。ぺチ巡査が挨拶を終えた頃、公園内にはすでに夕陽が射(さ)し込もうとしていた。里山は椅子から立ち上がり、招待された猫達の後ろ姿を見ながらその話を聞いていた。
その後、ぺチ巡査の退職送別会パーティも無事終わり、招待された猫達が思い思いに引き揚げると、里山と小次郎も公園から家へと戻った。
『これからは、ツボ巡査だけですが、大丈夫ですかね?』
玄関へ入った里山に、小次郎が脊中越しに声をかけた。
「俺には猫社会のことはよく分からんが、なかなか気概(きがい)がある若猫に見えるがね」
里山は靴を脱ぎながら小さくそう答えた。
『ええ、頼りにはなりそうなんですが、今一、経験値が…』
「ああ、新任だからなぁ~、それはあるだろうが、そのうち馴れるさ」
『だと、いいんですが…』
親身にはなっているのだろうが、小次郎には里山の言葉がやはり人ごと、いや、猫ごとに聞こえた。
『ご主人、ひとつ、よろしくお願いしますよ…』
「んっ? ああ、分かった! 任せろ」
里山は小次郎に頼まれ、公園の入り口で折り畳み椅子に座りながら会場の警備係をしていた。警備係とはいえ、招待された猫達が公園へ入れば、他にすることはなくなる。当然、猫達のドンチャン騒ぎを尻目に、欠伸(あくび)も出ようというものだ。使われなくなった荒れ放題の公園へ人が入ることなど考えられなかった。冬場のことである。小春日和となった昼過ぎから始められた退職祝いパーティは3時過ぎに佳境を迎えていた。マタタビに泥酔する猫も出て、会場はゴチャつき始めていた。
「小次郎、そろそろお開きにした方がよか、ないか?」
椅子を立った里山は会場の乱れを感じ、小次郎に忠言した。
『そうですね…。僕もそう思います、会長にそう、言いましょう』
小次郎は、さっそく会長の耳へニャゴった。人間なら、囁(ささや)いた・・となる。
『皆さん皆さん! ご静粛に! この辺(あた)りでぺチさんにご挨拶を頂戴し、閉会いたしたいと存じます』
猫内(びょうない)会長が発した鶴の一声で猫達はニャゴるのをやめた。人間なら雑談するのを・・となる。静かになる間合いを待ち、猫内会の会長は落ちついて取り仕切った。さすがは老猫だけのことはあり、場馴(ばな)れしていた。
冬場、猫達にとっては、ましだが、人間には堪(こた)える。里山は、すっかり凍(こごえ)えていた。しかし、稼(かせ)ぎ頭(がしら)の小次郎に頼まれた以上、何がなんでも警備係は貫徹(かんてつ)せねばならなかった。
何が因果か分からないが、子供のおままごとのような小次郎とみぃ~ちゃんの新婚生活がしばらく続いていたある日、小次郎の生まれた素性が判明する出来事が起きた。里山や小次郎、それに新妻のみぃ~ちゃんにすれば直接、生活に影響が出るような風聞(ふうぶん)ではなかったが、その話は例のみかん箱交番のぺチ巡査の退職送別会パーティの席で世間話として出たのだった。人間とは違い、猫達の寄り合いパーティだから、里山が出席したような帝都ホテルの鳳凰の間のような華やかさはなかった。小次郎が里山に頼んで買い求めてもらった市販の肉や魚のオードプルと猫缶などのなんともシンプルなパーティだった。会場も里山家横の公園である。ここは言わずと知れた誰も来ない廃墟(はいきょ)的な公園だったから、心おきなくニャゴニャゴとニャゴれる環境だった。ニャゴニャゴとニャゴれるとは、人間で言えば、ああやこうやと雑談が出来る・・となる。パーティは酒ならぬマタタビも出て、猫交番関係者と知人ならぬ知猫達で大いに盛り上がっていた。
『ははは…、いやいやいや、ごくろうさんでした、ぺチさん!』
里山が住む街を取り仕切る猫内(びょうない)会の会長、人間で言えば町内会の会長が慰労の言葉をぺチ巡査にかけた。もちろん、猫だけに分かる猫語である。猫内会の会長はかなりの老猫だった。小次郎夫婦も招待され、その話を横で聞きながら同席していた。
『いやぁ~、これは会長さん。不束者(ふつつかもの)で申し訳ございませんでした。長らく有難うございます』
ぺチ巡査は丁重に猫内会の会長に返礼した。
『いえ、決してそのような…』
触(さわ)らぬ神に祟(たた)りなし・・という言葉が小次郎の頭に瞬間、浮かんだ。このとき、小次郎は、もう駄目だっ! と半(なか)ば諦(あきら)めていた。一度、目につけた獲物は逃(のが)さない海老熊の悪(あく)どい風聞(ふうぶん)を耳に挟(はさ)んでいたからだ。みぃ~ちゃんと上手(うま)く所帯をもてたとしても、この海老熊に、『おう! 楽しそうに暮らしてるそうじゃねえかっ!』などと、ネチネチ付き纏(まと)われるに違いなかった。
だが、小次郎には天から授(さず)かった天運が備(そな)わっていた。そのとき警らで巡回するぺチ巡査とツボ巡査が通りかかったのである。
『こらっ! 海老熊! また、なにか悪さをしてるなっ?!』
若い交番猫のツボ巡査が海老熊を一喝(いっかつ)した。
『嫌ですよ、旦那。あっしゃ、偶然通りかかっただけですよ、へへへ、それじゃ…』
海老熊は疾風(はやて)のように駆け去った。
『あいつ、ドラより逃げ足が早かったな…』
ぺチ巡査はそう言うと、海老熊が駆け去った方向を見ながらヨイショ! と重そうに腰を下ろした。ドラ、タコ、そして海老熊と、小次郎は三度もみかん箱交番の猫巡査に助けられたのだった。
その後、どこへ消えたのか、風来坊猫の海老熊が現れることはなかった。
そして、小次郎とみぃ~ちゃんは尻尾を寄せ合い[人間だと手と手を取り合い]、ニャゴニャゴしい家族の第一歩を歩み始めた。めでたし、めでたし・・である。
第④部 <家族編> 完
年が改まり、小次郎は、イソイソとみぃ~ちゃんの別邸から帰ろうとしていた。辺りには、どことなく新年を祝う佇(たたず)まいが見られる。誰が揚げているのかは分からないが、最近では見られなくなった凧(たこ)が珍しく木立(こだち)の上に垣間見えた。もちろん、ゲ-ラーカイトと呼ばれる洋式凧だったが、小次郎には正月を思わせた。里山家近くまで来たとき、公園から風来坊猫の海老熊が出てきた。
『おお! これは若い衆じゃねえか、めでてぇ~な』
なんという挨拶だ…とは思えたが、小次郎としてはコトを荒げたくない。晴れて、みぃ~ちゃんと所帯を持てる運びになっているからだった。
『いや、これは海老熊の親分さん。今年はこちらでお迎えでしたか…』
『ああ、まあな。ここは居心地がいいからな。結構、美味いものもあったからよぉ~』
どこの家かは分からないが、食べ残した生ゴミを無造作に捨てる家があるようで、海老熊はそれに味を占めたのだ。
『それじゃ、僕はこれで…。ちょっと、用ありで急ぎますので』
小次郎の言葉は、その場の言い逃(のが)れではなかった。里山が今日はみぃ~ちゃんとの結婚衣装を誂(あつら)え、その衣装が届く日だったのだ。
『えれぇ~攣(つ)れねぇ~じゃねえか、若いの。おおっ!』
海老熊は小次郎の前を遮(さえぎ)って、居丈高(いたけだか)にニャゴった。人間なら凄(すご)んだ・・となる。いい塩梅(あんばい)の浮かれ気分で漫(そぞ)ろ歩いていた小次郎としては、思いもよらぬ難儀(なんぎ)だった。