⑭今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――「当時秀吉は自らの権力を天下に誇示するため、大坂城と並行して聚楽第の大工事を強行していた。聚楽第の工事は、掘、石垣の普請が終った六月頃から、天守、御殿の作事がはじまった。四国、東国の各方面から巨大な材木がおびただしく取り寄せられ、労働に従事する大工、人足の数は大坂城のそれをは . . . 本文を読む
⑬今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――「うむ、いまだ急ぐことはなかろうでさ。関白になるは、あと一年ばかり先のことにあらあず。ゆるりと練ってくれい」秀吉は、日頃金銀をもって懐柔し、彼の従三位権大納言叙任(じょにん)にも、書類のうえでの形式をととのえるのにはたらいてくれた、右大臣の菊亭晴季から、関白近衛前久がまもなく . . . 本文を読む
⑫今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――聚楽第の門前で、秀吉は諸侯大夫(しょこうたいふ)に金五千枚、銀三万枚を施した。合計三十五万両である。一両六十万以上の現代の金額に換算すれば、二千億円以上となる。二度目の天正十七年の時には、金六千枚、銀二万五千枚がおなじく諸侯大夫にくばられた。秀吉は金賦(かねくばり)りで権勢を . . . 本文を読む
⑪今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――世に名高い「賤ケ岳七本槍」の勇者は、実際には九人いたわけである。寛永二年(一六二五)加賀の儒者、小瀬甫庵(おぜほあん)の編んだ「太閤記」のほか、江戸期に書かれた史録には、なぜか九人のうち石河兵助、桜井佐吉の二人をのぞき、七人が一番槍の功をたてたとされているので、「七本槍」と誤 . . . 本文を読む
⑩今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――彼は信長のように、他者の存在を無視する傍若無人のふるまいは見せず、小大名の陪臣(ばいしん:家来)に対してさえ、丁重に応対していたが、小猿と呼ばれた頃よりもなお縮んだ矮躯(わいく:背丈の低いからだ)から、すさまじいまでに精気を放射していた。秀吉の大坂城出陣を見送った諸臣のなかに . . . 本文を読む