⑫今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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聚楽第の門前で、秀吉は諸侯大夫(しょこうたいふ)に金五千枚、銀三万枚を施した。合計三十五万両である。一両六十万以上の現代の金額に換算すれば、二千億円以上となる。二度目の天正十七年の時には、金六千枚、銀二万五千枚がおなじく諸侯大夫にくばられた。
秀吉は金賦(かねくばり)りで権勢を誇示する反面、田畑の検地を徹底しておこない、百姓への収奪の強化をつづけた。彼は流浪生活を送っていた少年時代に、百姓の裏面をことごとく見聞していた。そのため容赦なく年貢をとりたてるのである。
領主に追従しているかに見せかけつつ、ひそかに隠し田をたくわえ、収穫高をすくなく届け出る百姓の狡智(こうち:わるがしこい知恵)を知っている秀吉は、民衆にとっておそるべき能力をそなえた統治者であった。彼が自領の知行(ちぎょう:職務を執行すること)改めを、はじめて実施したのは天正十一年(一五八三)である。
そのころの在地領主は、自領を独自の方針で支配していたので、領地によって年貢高が一定していなかった。また、面積の測量法も異なり、一升、一斗という米の量も一定していない。地積を測る物差しや、米を測る桝が各種あるために変動の結果があらわれる。
田畑の耕作権も、百姓と領主の力関係によりわずかずつ違っていた。全国に均等の支配体系をつくりあげるには度量衡を統一しなければならない。秀吉の検地は、このような目的を達成する為に実施されたものであった。
堺や博多の豪商、金銀の鉱山開発、検地などによって、巨大な富を築いた豊臣政権は、充実した兵站(へいたん)による軍兵の動員能力をそなえ、天下を統一し、海外に進出することができたのである。
(小説『秀吉私記』作家・津本陽より抜粋)
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