このゆびと~まれ!

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若き信長は宿老たちの合戦談議を熱心に聴き戦いを覚えこんでいた

2024年11月13日 | 歴史
①今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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「御大将、大勝利だぎゃ。追うところだわ、ここは」
昂奮(こうふん)した物頭(ものがしら)たちが、眼をいからせ猛(たけ)りたつが、信長はおしとどめた。
「使い番、退貝(ひきがい)じゃ」
信長の命に応じ、法螺貝(ほらがい)が大、小1小、大、小、小と鳴り渡った。

退陣の手際も、あざやかであった。全軍の半隊が槍を伏せ、折り敷いて敵の追撃に備え、残りの半隊が退き、半町歩んで折り敷く。つづいて遅れた半隊が立って一町を退く。
半隊ずつ交互に繰り引いてゆく退陣は、敵の追撃を許さない迅速なものであった。

馬匹(ばひつ:馬のこと)をつないだ場所に全軍を戻すと、信長は土を捲(ま)いて駆け去った。一里ほど疾駆(しっく)して海際の山中に足をとどめる。
「ここで夜を明かすのじゃ」
信長の読みはあたった。
まもなく追撃してきた敵勢が、山麓を怒涛(どとう)のように通りすぎていった。

三州幡豆(はず)の山中に野営した信長勢は、夜明けまえに帰途についた。
細作(さいさく:忍びの者)を先に働かせ、敵状をあらかじめつかんだうえで、信長は全軍を先手、旗本、小荷駄備え、後陣備えと四陣に編成し、疾駆して那古野城(なごやじょう)へ向った。

四陣の兵は左手、右手、中手と三手に分たれ、いつどの方角から敵に襲われても、機敏に応戦しうる隊形をととのえていた。
平手政秀(織田信秀、信長の2代に仕える武将)は、軍書の講述をうけるのを嫌い、石合戦、竹槍あわせなど、荒(あら)びた遊びをことのほか好む信長が、いつのまに大将としての武役を、こころえたのであろうとおどろくばかりであった。

彼は信長が日頃から、宿老(しゅくろう:経験が豊かで物事に詳しい老人)たちの合戦談議を熱心に聴き、信秀が出陣まえと、合戦ののちに古渡城(ふるわたりじょう)でひらく評定の座に、姿をあらわすのを知っていた。

だが、黙然と一隅にひかえているだけで、たまに信秀に意見を聞かれても、心きいた受け答えもしない信長が、大人たちの語りあう軍議を綿密に分析、咀嚼(そしゃく)し、戦いの段取りをひそかに覚えこんでいるとは、思いもしなかった。

信長は、学問と名のつくことはいっさい嫌いであった。うつけ殿と家来、町人どもにかげぐちをきかれるほど、行儀作法をわきまえず、小姓、近習にも乱暴者をそろえ、日がな子童を狩りあつめ、竹槍合戦、印地打ち(若者たちが二手に分かれて石を投げ合う石合戦のこと)など、血を見るほどの荒んだ遊戯を好む。

政秀は、信長に鋭敏な洞察力がそなわっているのを知っていた。信長は家来の心の動きを察知する能力が、子供とは思えないほどするどい。

彼は自分を軽蔑(けいべつ)し、嫌っている相手を正確に見分け、執念ぶかくいじめるのである。
「やはりお血筋じゃ、若さまはうつけどころか、なみはずれて、するどき頭を持ってござる。しかし、惜しいことには意地がわるく、家来に慕われぬ。それにご学問ができぬのが痛手じゃ」
政秀は息子たちに愚痴をいっていた。

(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)

---owari---
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