⑪今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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世に名高い「賤ケ岳七本槍」の勇者は、実際には九人いたわけである。
寛永二年(一六二五)加賀の儒者、小瀬甫庵(おぜほあん)の編んだ「太閤記」のほか、江戸期に書かれた史録には、なぜか九人のうち石河兵助、桜井佐吉の二人をのぞき、七人が一番槍の功をたてたとされているので、「七本槍」と誤伝されることになったのである。
秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)大村由己が、賤ケ岳合戦ののち幾月も経たないうちにあらわしたといわれる、「柴田合戦記」には、九人が一番槍をつけたと記されている。
秀吉は合戦ののち、戦死した石河兵助の弟・長松一宗に家督を継がせたうえ、他の八人の一番槍の面々とともに、特に席を設け、盃を与えた。
恩賞としては三千石または五千石を加増し、添えるに黄金、羅吊(吊り下げタイプの羅盤)をもってし、さらに感状を与える。
秀吉が九人に与えた感状は、福島市松、脇坂甚内、加藤孫六、平野権平、桜井佐吉あての五通が現存している。
片桐助作、糟屋助右衛門尉、石河長松にあてた三通は、写しが残され、加藤清正あてのものだけが実物も写しも伝えられていない。
恩賞の領地石高は、九人のうち福島市松だけが五千石で、他の八人はいずれも三千石である。
(小説『夢のまた夢』作家・津本陽より抜粋)
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