「心などない」と言う人に対しては、「いや、そんなことはないですよ。そう考えるのはあなたの自由ですが、それは、自分を機械の一部のように考えることであって、ものすごく卑下した自己像なのですよ。『人間の体は機械のようなもので、心は、そのなかのどこかで動かしている部分だろう』と思うような、そんな人生観で本当にいいのですか」と伝えたいのです。
現代には、「死んだら、もう何もかも終わりだ。あとは、亡骸を焼いて灰にして、投げ捨ててもいいし、海に撒いてくれてもいい。まあ、好きにしてくれ」というような感じで、この世だけの幸福論になっている人がたくさんいるわけです。
「心」というものを説く理由は、「人間の本質というのは生き通しなのだ。生き通しの人生なのだ」ということにあります。
「自分には、『生まれる前の過去』もあったけれども、『死んでからあとの未来』もあるのだ。そのような『生き通しの人生』である」ということを考えないと、これが本当だったときに、知らなかった人は大変なことになります。一方、このことを知っていて人生を生きるならば、やはり、非常に価値のある人生を生きることができます。これは大事なところです。
心の存在から魂の存在のところへ考えが至らなかった人は、「人生はこの世限りで、死んだら終わりだ」というように思っているため、「あとは、相続税対策と、遺された家族の処理だけをすれば終わり」などと考えているのかもしれませんが、それで、“終わり”ではありません。そこからが、また、“新しい始まり”になるわけです。
つまり、「生き通しの人生」なのです。
今世、生きている時間は二万日か三万日ぐらいです。わずか、その程度のものなのです。たくさんあるかと思えば、それほどにはありません。三万日も生きたならば、八十歳を超えます。
私もすでに二万日を超えています。「残りはあと幾日かな」と思っていますが、二万数千日ぐらいが普通の人生なのです。「残っているのはあと何日か」と考えると、一日一日、毎日毎日、消えていくわけです。三万日はなかなか超えられません、そのように、一日一日が消えていきます。
したがって、「この一日一日で何をするか」ということは、たいへん重要なことです。今日一日を無駄にしないことは、非常に大事なことなのです。
私と近い年齢の人は、過去、すでに二万日は使っているはずです。また若い人もいるでしょうし、もっと行っている人もいるでしょうが、「三万日はなかなかそう簡単に超えられない」ということは考えなければいけないと思います。
そうすると、一日一日がとても大事なものになるわけです。毎日毎日を大切にしていかなければいけないわけであり、「この毎日毎日をどう生き切るか」ということが、極めて重要なことになるのです。
そういう意味では、哲学や、仏教における禅などとも、結論的には似た考え方もあるでしょう。そういうところもあると思うのです。
さて、「人生約三万日、この大事な一日一日で何をなすか」、これが私たちに問われているのです。
---owari---
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