私は、あなたがたを観察し、話に耳を傾け、書物を読んでいます。映画を見、学校、会社、寺院、市場、農園を訪ね、音楽を聴き、笑いを聞き、涙を見ています。数年前から、貴国を代表する文人の幾人かと逢い、実業家、外交官、画家と近づき、非常なる旧家、農民、山伏、果ては、「コギャル」とも知り合いになってきました。
そして、そのことにただ驚くばかりなのです。日本人は、ある行為をとる場合に、同時に省察(せいさつ:自分のことをかえりみて考えめぐらすこと)を行うことがよほど苦手なのではなかろうか、と。
日本人の行動がいかに優れた性質のものか、これには、まさに間然するところがありません。とはいえ、出発の方向が間違ってはならぬ、と言いたいのです。いかにも小生は、日本人の肚芸(はらげい)ともいうべき直観や、理屈に引きずられない臨機応変の能力に感心しています。
ただ、みなさんは、世界史の観察に不慣れです。アジアの末端という地理的位置と島嶼性(とうしょうせい)からして、諸文明の大変動や、征服被征服の関係、民族移動、諸帝国の興亡などを実見する機会に欠けていたわけですから。勝鬨(かちどき)を聞き、また廃墟に立てば、おのずと観察眼は養われるものなのですが・・・・・
日本民族は孤立のなかで国民性を陶冶(とうや:ねって作り上げること)してきました。半面、批評精神が十分育たなかったということではないでしょうか。
しかし、状況は変化しました。戦前の領土伸張から、痛恨の敗戦、さらには米軍占領期をへて、いまや地球上隈なく日本人が旅行して回る時代となり、そこからあなたがたの心眼は開かれるに至りました。しかし、まだまだ、欠けているものがあります。それは、たとえばインドやヨーロッパにはふんだんにあって日本には希薄な何ものかなのですが、何かと申せば、いわば、歴史の呼吸を感ずる能力といったものなのです。
易不易(変わるものと変わらないもの)に対する触覚、とでも言ったらいいでしょうか。ある種の近代化の醜悪さは日本の独自性を損ない、ついには破壊しかねないという事実を、なぜ認めようとなさらないのでしょうか。発展と文化の尊重を両立させるための力と創意を、ありあまるほど身うちにたくわえていながら、です。
一週間前、私たち一家は京都を引き払ってきました。ささやかな木格子の我が家と、機織りの界隈、自転車で走りまわる露地小路、すぐ間近な京都御所の庭、大芸術家の手になるかとばかり思われる市の周辺の丘なみに、別れを告げて。そのあと落ち着いたのは、琵琶湖西岸を見晴らす山中の、一軒の古びた農家でした。
まさに、自然の真っ只中です。ここではすべてが震撼(しんかん)し、呼吸し、その生命力を伝えています。目を閉じれば、京都の面影がまざまざと蘇ってきます。わけても、詩人、石川丈山の建てた詩仙堂のたたずまいが。草庵と庭と詩文が、同じ芸術家によって創られ、一堂に相会していることほど美しい調和が、他にありえましょうか・・・・・。
---owari---
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