今日は日下公人著書「『超先進国』日本が世界を導く」より転載します。
(進んで名を求めず、退きて罪を避けず)
先に、日本人が本来持っているはずの「暗黙知」を備えた「中流」の精神、生き方について述べたが、現実にはすべての日本人がそれを踏まえて生きているわけではない。「災前派=戦後派」と「災後派=戦前派」の葛藤(かっとう)が今後の日本の行方を左右する。また指導者と国民との関係も考えてみなくてはならない。
いまの日本を考えると、一時の「民意」に従うより「国家百年の計」を考えて決断する指導者が求められている。そういう指導者をわれわれは持ち得るか、わが国の指導者の問題を歴史に材を取って考えてみたい。
「責任を果たす」「責任を取る」とは政治家がよく口にする言葉だが、その本来意味するところは何か。
孫氏はいう。
「故(ゆえ)に進んで名を求めず、退きて罪を避けず、唯(ただ)人を是(これ)保(たも)ちて、利、主に合う。国の宝なり」(『孫子』「地形篇」)
進むべきときに軍を進めて勝っても、名声を求めず、退却すべきときに退却しても、その罪を避けず、ただ人民の生命を保全すれば、その利は君主に合致する。こういう将軍は国家にとって宝である、という意味である。孫子は、理想的な「将たる者の条件」の一つとして「責任(罪を避けず)」を挙げた。
「「将たる者の責任」で私がまず思い浮かべるのは、明治期の海軍大臣だった山本権兵衛(ごんべえ)が行使してみせた人事権である。
日露開戦を目前に控えた明治36年10月、山本は東郷平八郎中将を常備艦隊(同年12月に連合艦隊に改編)司令長官に任命した。しかし、この人事は海軍内部で物議を醸(かも)したばかりでなく、明治天皇も強い関心を示し、その理由を山本に問うている。山本は、「東郷は運のいい男でございますから登用いたしました」と答えた。結果は歴史に明らかなように、連合艦隊は東郷の指揮のもと日本海海戦でバルチック艦隊を撃破し、東郷の名は世界に轟(とどろ)いた。
だが、並の海軍大臣ならば、いくら東郷が適任だと思っても、その決断を下しにくい状況があの当時にはあった。
一般の見るところ、戦争前夜の海軍内部の空気では、山本と同期で同じ鹿児島県出身でもある常備艦隊司令長官の日高壮之丞が留任するか、呉鎮守府長官の柴山矢八が有力と見られていた。
さらに東郷という男が、格下の鎮守府だった舞鶴鎮守府長官としてくすぶっていただけでなく、予備役編入も間近で、中央では“過去の人”となりつつあったことも手伝っている。日高が怒ったのは当然だった。しかし、山本は、「お前には変わらぬ友情をいまでも持っているが、わしは個人の友情を国家の大事に代えることはできんのだ」と静かに説得した。
山本は、明治天皇に対して「東郷は運のいい男でございます」と答えているが、それは日高や柴山への思いやりから発したものである。
「日高や柴山より東郷のほうが適切な人物だと思っています」といってしまうほど、山本は無粋(ぶすい)な人間ではなかった。まして有能ですなどとはいっていない。だが、山本は手を尽くして東郷を調べ上げている。それどころか、約700人に達していた少佐以上の武官の“人事考課”をより正確に把握することにつとめており、その結果の登用である。国家の興廃(こうはい)のかかる局面に、まさか運やツキばかりを調査していたはずはない。
付け加えれば、山本は士官の海外留学を奨励し、秋山真之、広瀬武夫など多数の青年士官を米英露に派遣した。士官教育に力を入れるとともに、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度をつくり、実際に佐官(主に大佐、中佐、少佐の三階級をまとめて呼ぶ名称)まで昇進した者もいる。
上に立つ者の責任とは何か。それは全幅の信頼がおける部下を見つけ出し、次にそのポストに置いたら任せて、いちいち口出ししないことである。
ところが、その反対のケースが非常に多い。情実因縁人事をして、「とくにお前を抜擢してやったのだから、しっかりやってみたまえ」とはいうものの、内心はその能力が心配でたまらない。使いやすい男だから据えたにすぎないので、箸(はし)の上げ下ろしまで注意する。すると部下は上司の顔色ばかりを読むことに長けて自分で考えなくなってしまう。こうなると、勝てる戦いも勝てなくなってくる。そのくせ負けても責任を巧みに回避して、部下のすげ替えばかりやろうとする。
繰り返すが、上に立つ者の責任とは、任せられるに足る人物を探すことであり、育成することである。そして、いよいよ任せたら口出しせずに、結果が悪かったら、「彼を選んだのは私ですので責任は私にあります」と、上に立つ者の「責任」をきちんと取ることである。
情実人事をせずに、山本権兵衛が東郷平八郎を登用したところ日露戦争勝利の第一歩があった。
ちなみに山本は大正12年の関東大震災直後に総理大臣に就任している。震災発生から18日後には、早くも山本を総裁とする帝都復興審議会が設けられ、後藤新平内相ら閣僚、財界人に加え、野党のトップなども復興会議に参加させた。
震災から約4週間後には後藤を総裁に設立された帝都復興院が東京の復旧にとどまらず、大規模な区画整理や幅の大きい道路建設など災害に強い近代都市づくりを打ち出している。
---owari---
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