(東條英機を推挙した木戸幸一の責任)
日露戦争で山本権兵衛海軍大臣が東郷平八郎中将を連合艦隊の司令長官に抜擢(ばってき)したこととは対照的な例が大東亜戦争にはある。
対米交渉を続けていた近衛文麿内閣が日増しに強まる軍部の干渉に嫌気がさして総辞職したので、次は誰を首相にするべきかという最重要課題が浮かび上がってきたとき、内大臣の木戸幸一は「毒を以って毒を制す」という考えのもとに陸軍強硬派の東條英機を据えることを重臣たちに説いて回った。
東條が陸軍強硬派の都合を優先して日本国家の都合(現状分析)を後回しにしがちなことは、木戸も承知していた。だが、まさか本気でアメリカに戦争を仕掛けることはあるまいし、陸軍のエースである東條ならば逆に強硬派を押さえられるだろうと踏んだわけである。
結果は歴史に明らかなように、日本はアメリカとの戦争に突入した。もちろんそれには外的要因があった。しかし、東條を推挙した木戸にも責任がある。私は「罪、万死に値する」と思う。木戸は東京裁判で無罪になるが、それは連合国の目から見てのことで、彼自身は自分の「責任」をどう考えていたのだろうか。
山本権兵衛は、考え得る最適任の人物を探し出し、「上に立つ者」として国家国民に対する責任を果たしたが、木戸は不適当な人物に国家国民の運命を賭けてしまった。
また、戦後の通説では、“名将”とされる山本五十六は、ハワイ真珠湾攻撃部隊の司令官に“水雷屋”の南雲忠一中将を選んだが、小沢治三郎中将にやらせてはどうかという意見具申に対しては、「年功序列だから」と答えている。年齢は小沢のほうが一つ上だが、南雲は海軍兵学校36期、小沢は37期だった。山本は引き続き南雲にミッドウェイ海戦も指揮させて大敗を喫(きっ)している。この場合も、人選に失敗した責任は山本にある。
結局、小沢中将は昭和20年5月に最後の連合艦隊司令長官となったが、戦後、「もう4、5年早く小沢中将を艦隊トップに据えておけばよかった」という回想を記した海軍関係者は少なくない。
「海戦要務令」の冒頭には、「軍隊の用は戦闘に在り。故に凡百の事皆戦闘を以て基準と為すべし」と書かれている。戦闘を基準に考えるのであれば、山本長官は「南雲くん、ご苦労」といって井沢中将を抜擢することはもちろん、「航空艦隊の長官は航空畑出身とする」という大胆な機構改革を行い、戦艦部隊はそのパーツにしてしまうべきだった。
歴史にifを持ち込むことが許されるならば、昭和20年8月15日まで日本を動かした「トップの人たち」のなかで、「責任」をきちんと取る姿勢の人がもっと主流を占めていたら、と考えるのは私だけではないと思う。
---owari---
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