(「色情霊が憑いている者同士」が惹かれ合うことも多い)
以前に述べましたように、「海水を飲んでも飲んでも、喉の渇きは癒えない」というのと同じで、まあ、恋多き人はいてもいいとは思うんですけれども、ただ、お酒を毎日飲み続けなければたまらないような状態で、異性を求め続けたりするような感じになりますと、もう霊的な感覚はかなり薄れてくるし、おそらくは、色情(しきじょう)霊といわれるものにも取り憑(つ)かれてくることになると思うので、自分の思いではなくなって、憑いているものの思いで惹かれていく。
だから、「色情霊が憑いている者同士が惹かれ合って・・・・・」ということも多いのではないかと思います。
そういう人の将来の行く手は明らかで、そういう人たちが集まるところに行くことに、結局なる。これは男女のなかでもそうですが、同性愛のなかでも、やはり、傍(はた)から見ていて、見苦しいというか、なかなか容認できないという感じでの結婚というようなものが続いて、次々と出てくるようだと、そういう人は、そういう人の世界に行くしかないだろうとは思っています。
ですから、私が申しあげたいのは、「人は、それをなすべきときになさねばならないことがあるので、ちゃんとそれに打ち込んで、やるべきことをやって、そして、社会的に大人になる」と。そういう熟した時期が来たら、ふさわしい相手を求めて一緒になることが大切です。
結婚して、何十年もの人生を一緒に生きようとしたら、あまり、毎日とか、あるいは毎週のように相手を変えなければいけないような性格であっては、結婚生活などは、おそらくは続くことはなかろうというふうに思いますので、やはり、一定の「忍耐」や「努力」を、あるいは「持続する心」を持つ方でないと、やっていけないのではないかと思います。
まあ、このへんにおいて、やや教えも足りず、社会的な道徳も減退はしていると思うので、宗教が“少子化に協力する”だけではなくて、社会の健全な発展のために役に立てばよいかと思います。
(周りから祝福される関係で、一緒になっていけるよう努力を)
やはり、無限に数が増えていくようであれば、「即物的な考えを持っている」と思わざるをえないし、言い方を変えれば、「動物的だ」ということだと思います。
だから、本当に「魂から惹かれ合うレベル」になりましたら、まあ、それは、何人も恋することはあろうと思いますけれども、一定、相手に対する尊敬の心を持って、選んで、付き合って、そして、合意を見れば結婚する。あるいは、親のほうの意見もあるかもしれませんが、そういう、大人の意見なども参考にしながら決めていくということが、大事なのではないでしょうか。
そういう意味で、周りから、「ふしだらだ」とか、「無責任だ」とか言われるようなかたちでの男女交際や、異性との密接な交際は、やはり、そう望ましいとは思っていない。
できれば、周りから祝福される関係で、一緒になっていけるように努力されるほうがよいと思います。
社会的になかなか受け入れられない人、反社会的な行動を取っている方や、あるいは、組織になじまないで、会社になんか勤められない人、すぐにフリーターになってしまう人、引きこもってしまうような人は、なかなか結婚できないだろうと思います。
でも、それは、やはり努力が要るというふうに思うんですね。結婚することによって、「夫婦(ふうふ)」が、社会の最低単位にまずなっていくので。
特に、女性の側が軽くなっていることが、今、ちょっと問題だと私は思っています。やはり、子供を育てるに足るような相手と環境を求めるべきだというふうに思ってはおります。
まあ、西洋化する流れのなかで、いろいろと難しくはなっているとは思うけれども、私としては、「もうちょっと純粋であってもよいのではないか」と思います。
アメリカ映画などでは、結婚するつもりで同棲(どうせい)している人が、それぞれに、「別の相手、結婚の相手はもっとほかにいるんじゃないか」と探しているというようなものが出てきたりするようですけれども、もうちょっと、何と言いますか、「熟慮(じゅくりょ)」していただきたいと思うところがございます。――この章は終わりです。
---owari---
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