㉑今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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信長折檻状(せっかんじょう)に記されている彼の落ち度としては、とくにとりあげるほどのものはない。
信長が気にさわっているほどには、客観的に失策といえるような事例はなかった。
叱責(しっせき)の主な理由は、五年間石山を攻囲しながら、これというはたらきがなかったということであるが、信長が本願寺攻略の方針としたのは、カ攻めを避け、包囲をもっぱらとする長期作戦である。
五十余の支城を設け、諸国門徒の応援をうけている石山本山は、織田勢が全力をあげ攻めかかっても、こゆるぎもしない態勢をととのえていた。
拙速(せっそく)策をとれば、敗北するばかりであったため、信長は石山を包囲しつつ、本願寺に協力する敵を各個に撃破していったのである。
本願寺が屈服すると、信長がその間の事情を忘れたかのように、信盛(佐久間)の無能を責め、家中最長老の地位を奪い、知行貯(たくわ)えのことごとくを召しあげたのは、苛酷の処断といわざるをえない。
信盛と息子の甚九郎正勝は、天王寺砦において信長の使者から覚書をうけとると、とるものもとりあえず、高野山へ向った。ぐずついていると殺されかねない。
信盛は夢斎定盛、正勝は不千斎定栄と号し、剃髪(ていはつ)して高野山に住む。父子は金剛峰寺小坂妨に金子八両余と渋紙包み四個をあずけ、賄(まかない)を頼んだ。
万が一のときは常灯、卵塔(らんとう:台座上に卵形の塔身をのせた墓石)内の石灯籠などの建立を依頼しているのもあわれである。
「信長公記」によれば、信盛父子はやがて高野山をも追われた。
「ここにもかなうべからざる御諚(ごじょう:貴人の命令)について、高野を立ちいで、紀州熊野の奥、足に任せて遂電(ちくでん:逃げ去って行方をくらますこと)なり。しかるあいだ、譜代の下人に見捨てられ、かちはだしにておのれと草履をとるばかりにて、見る目も哀れなる有様なり」
信盛父子を追放したのち、八月十七日に京都へ戻った信長は、家老の林通勝(みちかつ)と重臣安東伊賀守父子らの知行を召しあげ、追放した。
信長があげた通勝の罪科は、二十五年前の弘治二年(妄五六)、柴田勝家とともに信長の弟勘十郎信行を織田家の後継者にかついだ罪であった。
通勝はそののち信長に忠誠をつくしている。彼の息子林光時は、「槍林」の異名をもつ勇士であった。
信長は光時の勇猛を愛し、家中随一の勇者をさだめる投票をおこなったとき、光時を中傷する票が七つあったのを、すべて無効としたほどである。
光時は天正元年九月、信長が伊勢長島一向一揆を攻め敗北したとき、殿軍として奮戦し討死にした。
信長は、林一族のそのような功績を無視し通勝にいい渡した。
「そのほう、弘治年中譜代の家老に似あわぎる悪逆謀叛の条、糾明(きゅうめい)のうえは一命を取るが本意なれども、先年のいきさつあれば助けてとらすでや」
通勝が二十五年前、信長を謀殺(ぼうさつ)しようとした弟美作守のたくらみに同調しなかったため、命だけは助けてやるというのである。
通勝とともに信行をおしたてた柴田勝家に、何の咎(とが)めもないのは、ふしぎな裁量であった。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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