このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

信長の府体制と日本府の多賀城構想

2025年02月18日 | 歴史
「府というお考えは、大変興味を持って伺いました。どうせのことに、信長殿がお考になっている各府の長官について、ご腹案があれば伺いたい」
この言葉をきくと、一座の騒ぎはピタリとおさまった。みんなが関心を持っていることを、義久(島津義久:しまづ よしひさ)がズバリときいたからである。

信長は頷(うなず)き、一座を見渡した。子供に、お楽しみのおもちゃか菓子でも与えるような態度だった。
「腹案を申しあげる」
信長はそう口を切った。
「京都府の長官には、細川藤孝と蒲生氏郷、近畿府の長官には、羽柴秀吉、江戸府の長官には徳川家康と北条氏直、それに佐竹義重、奥羽府の長官には、伊達政宗と最上義光、それに芦名盛氏、北国府の長官には上杉景勝と前田利家、山陽府長官には毛利輝元と小早川隆景、それに吉川元春、山陰府長官には、尼子氏の遺児と佐々成政、九州府長官には島津義久並びに大友宗麟、四国府長官は長曾我部元親と細川並びに三好一族、蝦夷府長官には柴田勝家と蠣崎(かきざき)氏。以上です」
「……」

一座は呆然としていた。しばらくは声がなかった。以外だったのか、それとも人事布石が、あまりにも際立(きわだ)っていたせいかどうかわからない。信長は、その静寂を見据えたまま、さらに続けた。
「他に、大和国(奈良県)に、茶道府を置く。茶道府長官は、千利休、織田有楽、それに古田織部」

大名たちは、小さくアッと声をあげた。信長と、利休、有楽、織部の顔を見た。信長は、お構いなしに続けた。
「各地方の府を統括するために、日本府を置く。日本府の長官は、この私と、足利義昭公になっていただく。日本府の奉行は森蘭丸を命じたい。そして、日本府の府庁は、この*多賀城に置く」
今度こそ、大名たちは驚きの声を隠さなかった。全員、アッと叫んだつもりだが、実は言葉にならず、口だけポカンとあけて信長をみつめていた。

―――――
*多賀城(宮城県):奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 織田信長は終始一貫して禅に... | トップ | 信長はハードな価値観を、文... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事