⑳今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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城内各層の座敷に描かれた賢者、儒者、仙人仙女、釈迦、天人、三皇五帝などは、信長が彼らの誰よりもすぐれた、最高の存在であることを、絵を見る者に覚(さと)らせるためにえらばれた画題であった。
信長は地上最高の神にふさわしい朝ごと(毎朝)の儀式をおこなうため、全国から数首体の神像、仏像を安土城に集めている。
彼はそれらを崇拝するのではなく、それらに自らを崇拝させる儀式を、毎朝欠かさずくりかえしていたのである。
信長とともに起居(ききょ)するおなべは、後が禅仏信仰を人間が心の拠りどころとして求める幻想にすぎないとしながらも、自らをなみの人間ではないと信じはじめているのを知っていた。
信長は自分が宇宙の意志の体現者として、現世に生れてきたのかもしれないという考えを胸中で育てている。
「なべ、儂は近々に官位を辞するでや」
「それはなにゆえにござりまするか。ご真意のほど、なべにお洩らしあすばされてちょ-でいあすわせ」
四十五歳の春をむかえても白髪もなく、沈んだ白皙(はくせき:皮膚の色の白いこと)の肌に張りを失わない信長は、宙に鷹(たか)のような眼差しをすえ、つぶやく。
「儂はこののち五、六年も経つうちには、万国安寧、四海平安をいたすだで。さすれば、海のそとはたらき場所を求めねばならず。さようなる世になれば、儂にはこれまでがようなる位階は似あうまいでや」
おなべは信長の言葉に気がたかぶり、鳥肌が立った。
「上さまは、まことに人にてはおられませぬ。智恵の泉というもおろか、私には生き神さまとしか見えませぬ」
信長はすでに、朝廷の権威を超越した政治家としての行動をとっていた。
彼は天正三年十一月、権大納言になってのち、公家、寺社に所領を給付するとき、相手の格式によって、「進覧」「進献」「進之」「宛行(あてがう)」などの語句を用いている。
それらはすべて、信長が「新地(しんち)」として与えたもので、書状に天下布武の朱印が捺(お)された。
新地は石高で表示されており、直接支配を命じているところから、荘園制にかわる近世知行(ちぎょう)制度がとられたと見てよい。
信長は、輿福寺別当職の補任のような天皇の権限にかかる事例にも、決定権を持とうとしていた。
彼は朝廷の経済と政治を、「天下」政権によって掌握(しょうあく)しようとした。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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